第19話

「つむぎ」

「は、はい」


 少しだけ、緊張している。


 星空さんが私に何かしてほしいって言うのはこれが初めてだから、どんなことを言われるのか全く分からない。

 星空さんは私をじっと見ている。星空さんの黒い瞳に、歪んだ私が映っている。

 星空さんと目を合わせることに慣れてきたけれど、ここまで長い時間目が合うと逸らしたくなってしまう。


「私のこと下の名前で呼んでよ。つむぎ」

「えっ」

「下の名前……ですか?」

「うん。そう」


 私は思っていたよりもあっさりしたお願いに、身構えていた体がほぐれていくのを感じた。


「瀬梨香って呼んでほしい」


 星空さんが提案した星空さんが私にしてほしいことは、思ったよりも分かりやすくて、誕生日プレゼントを用意するよりも今すぐできることだった。


「つむぎは前私のこと瀬梨香って呼んでくれてたからさ、あと敬語も抜いてほしい」

「そう、ですか……」


 けれど、星空さんの私にしてほしいこと――下の名前で星空さんを呼ぶことは、敬語はまだしも私にとって決して簡単ではない。

 星空さんの下の名前。星空瀬梨香の、瀬梨香。星空さんを瀬梨香と呼ぶこと。

 星空さんは真剣な眼差しで私を見ている。私は思わず目を伏せた。


「その、人の名前を呼ぶのに慣れてなくて……なんだか呼びにくいです、どこか恥ずかしいというか……」


 星空さんに出会うまで家族以外の人とほとんど関わったことのなかった私は、人のことを苗字にさん付けして呼ぶことしかしてこなかった。だから、いくら星空さんと言っても名前を呼ぶのには不慣れで、抵抗がある。

 私は星空さんを見る。窓から降る光で、星空さんの黒い髪が茶色っぽく透けていた。


「そのうち慣れるから大丈夫だよ。ほらつむぎ、私と話すとき言葉に詰まることもうほとんどないじゃん」

「た、確かに。そこは慣れてきてます」

「でしょ? じゃあ、とりあえず星空瀬梨香って、何回か呼んでみて?」

「星空……せりか?」

「うん」

「星空瀬梨香……」


 星空さんは頷いた。


 それから私が何回か星空さんのフルネームを言ったところで、星空さんは私に提案した。


「じゃあ、星空を抜いて言ってみて」


 どく、と心臓が強く跳ねる。


 星空さんの名前を言うだけ。


 たったそれだけのはずなのに、話しかたを忘れてしまったみたいにうまく口を動かせなくて言葉にできない。


「せっ、せ」


 星空さんが私を見て頷く。


 あと、二文字。


 私は自分の胸に手を当てて、星空さんの真剣な瞳に視線を返す。


 星空さんも二文字の気持ちを私に伝えたとき、こんな感じで、心臓がおかしくなりそうなほどうるさかったのかな。


 私は胸に当てていた手で、そのままそのあたりをぎゅっと握る。

 そんな星空さんに比べたら、星空さんの名前を呼ぶのなんて勇気のいることじゃない。


 それに、私は星空さんの気持ちに応えたい。


 大丈夫。心配することなんて、何一つない。


 息を吸って、吐く。


「つむぎ、その、無理だったり難しかったら無理して言わなくてもいいから――」

「瀬梨香」

「……え?」

「無理してない。私は大丈夫だよ、瀬梨香」

「えっっっっ」


 星空さんは「え」の一文字だけ発して、目を見開いて、固まった。

 顔がだんだん熱くなっていく。私はいてもたってもいられなくなって手で顔を覆った。


「うう、や、やっぱり恥ずかしいです……ってあれ?」

「ほ、星空さん!?」


 星空さんを指のすき間から見ると、星空さんは胸をおさえながら、机にぐったりと倒れていた。


「だ、だいじょうぶですか?」

「大丈夫じゃない……つむぎ、やっぱり私の名前呼ばないで……」

「えーっ、どうしてですか?」


 星空さんは息を切らしながらゆっくり起き上がる。


「ちょっと、心臓が、もたない……」

「あっ」


 そっか。

 同じだったんだ。星空さんも。


 この五年間で私は星空さんを下の名前で呼ぶことに慣れていないのと同じく、星空さんは呼ばれることに慣れていなかったみたい。星空さんは深く息を吐いて、水を口にした。


「瀬梨香って呼んでくれてありがとう。すごい嬉しい。でも」


 星空さんは私から目を逸らして、ペットボトルの成分表示に目を向けている。


「敬語が一緒に抜けるのはずるいよ……流石に」

「え?」

「……はっ」


 確かに、私が星空さんを瀬梨香と呼んだとき、敬語が抜けていた。

 記憶がなくなる前、私は星空さんのことを瀬梨香と呼んでいて、もちろん敬語だって使っていなかった。と思う。

 もしかしたら心の奥底にある私の記憶が無意識にそうさせているのかもしれない。


 なんだか、不思議な感じがする。

 私の知らない私が、私に干渉している。


「瀬梨香って呼ばれるのは私が耐えられそうにないから、今日は敬語が抜けてくれたら嬉しいな」

「分かりました! じゃなくて、分かった」

「! うん。私の方が誕生日遅いけど、私と同い年だからさ」

「そう、だよね。早生まれだもんね」


 私は出そうになる敬語を意識して抑えながら、そして言葉を選びながら何とか星空さんと会話をする。初対面の人とお話しするときみたいに、言葉を自分の中でよく考えないとまた敬語になってしまいそう。


「そうそう。つむぎだけ敬語なのもなんか平等じゃないみたいでよくないし」

「うん。これからは瀬梨香に敬語使わないね――あっ」

「ぐはっ!」


 私はうっかり瀬梨香と呼んでしまった。

 まずいと思った瞬間、星空さんはまるで心臓を貫かれたみたいに心臓をおさえて、窓の方にのけぞった。私は慌てて星空さんの肩を支える。


 やっぱり敬語を抜くことと、星空さんを瀬梨香と呼ぶことは私の中で一緒になっているみたい。


「っはあ、はあ……つむぎの不器用さがここであだになるとは……」


 星空さんはもう一度ペットボトルを手にして水を飲んだ。星空さんは今度は大げさに肩で呼吸している。


「す、すみません……頭では分かっているのに一緒に言ってしまいます」

「え! それって、前の記憶が潜在的にはあるからそう言っちゃうの?」

「……そうかも、しれないです」

「なんだか不思議だね。あっごめん。こういうこと、言っちゃだめだよね」

「いえ、私も不思議だなって思ったので」

「そっか。あ、そろそろ終わるね」


 星空さんに言われてふっと前を見ると、先生がマイクを取っていた。

 星空さんはいつも周りが私よりも見えている。

 私と星空さんは先生が議論を止めさせる前に黒板の方を向いた。



 講義が再開してすぐに、ルーズリーフが一枚、私の手元に添えられた。

 送り主はもちろん星空さんだ。


〈わがまま言ってごめん〉

〈しかも、つむぎに慣れるよって言っておきながら私の方が慣れてなかったし〉

〈しかもしかも、私前は瀬梨香って呼ばれてたはずなのに〉


 私は苦笑いしている星空さんからルーズリーフを受け取って、返事を書いていく。


〈わがままなんて、そんなことないです〉

〈私のほうこそ慣れてなくってごめんなさい、でも頑張ります〉


 私は星空さんに見せる。


〈うん、一緒に頑張ろう〉


 星空さんと目が合うと、星空さんはにこっと笑った。私も頬が緩む。

 星空さんの笑顔と「一緒に」という言葉がとても温かくて、優しい。


 星空さんは可愛いよりも綺麗という言葉が似合う人だと思う。


 けれど、星空さんの笑顔は可愛い。


 私はなんとなくルーズリーフを裏返す。

 そこにはたくさんの二人のやり取りの中に、二ヶ月前に星空さんが書いた「好き」という二文字が残っていた。

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