冬が始まる
第18話
冬の、どこまでも澄んだにおいがする。
私がいつものように家を出てエントランスの扉を開けると、冷たくて、少し痛い風に吹かれた。体が勝手にぶるっと震える。
道路の隅には粉々になった落ち葉がパラパラと散らばっている。まだ秋は残っているけれど、この前みたいな紅葉はもうどこにもなかった。私は腕時計で日付を見る。
もう、そんなに経ったんだ。
初回の講義から――星空さんと出会ってから二ヶ月が経っていた。
……本当は五年なのだけれど。
この二ヶ月間、星空さんといっぱい関わった。カフェに行ったり、洋食屋さんにもう一度一緒に行ったり、刑法の中間テストの勉強をしたり、お買いものに行ったり。このピンクゴールドの腕時計は、そのとき星空さんが選んでくれたものだった。
私は星空さんといると楽しいし、星空さんとの時間が好き。
それでも、季節が移り行こうとしていても「星波つむぎと星空瀬梨香の関係」はずっと名前のないままだ。友だちでもなければ、恋人でもない。
私は息をほうっと吐くと、息がちょっとだけ白く見えた。
星空さんは私の家でお寿司を食べたとき、「星波つむぎと星空瀬梨香の関係」は星空さんにとって名前のない特別な関係だと教えてくれた。
星空さんは私のことを好きだと言ってくれた。
星空さんは私に――。
「……」
心臓がうるさくなっていく。
それだけ私は星空さんに求められているのに、何もしてあげられていない。
きっと星空さんは「つむぎが私のそばにいてくれるだけで幸せ」って言うし、というか言っていたから私にそれ以上を求めていない。
星空さんが恋人になることを断ったのにも理由があって、それにもしっかり納得がいっている。
それでも。
やっぱり星空さんの気持ちに応えられないことに、とても申し訳なく思う。
私に何かできること、ないかな……?
「あっ」
そうだ。
私は講義室へ向かう。今日は星空さんと同じ、刑法の九回目の講義だった。
「おはよ〜つむぎ」
「あ、おはようございます……」
星空さんが挨拶しながら後ろを通る。その笑顔に、少し心が痛くなる。
星空さんと相澤さんの会話を思い出す。星空さんがかなりもてるというお話を聞いてから、周りの視線が気になるようになった。確かに男の人も女の人も、星空さんを見ている人は多いように思う。
私と違って星空さんには友だちだっているし、その気になればいくらでも恋人を作ることだってできる。
他方で私は、私には星空さんしかいない。
自分でもどうしてか分からないけれど、そんなことを考えると心がきしむ。
もしも、星空さんの特別が、好きの気持ちが私以外に移ってしまったときのことを考えるだけで酷い心地になる。
私は星空さんの恋人であって、恋人じゃないのに。
「あのっ星空さん」
「うん? どうしたの?」
「まえに、未成年って言ってたじゃないですか」
「うん。相澤さんと話してたときね」
「誕生日っていつですか!」
「えっ」
今の私にできることは、星空さんの誕生日プレゼントを買うことしか思いつかない。
星空さんは私の言葉を聞いて頭にはてなを浮かべている。
聞きかた悪かったかな……。
確かに私は星空さんといっぱい関わって、会話も前よりはスムーズになってはきている。けれど、まだまだ人との関わりかたはあまり分からないままだった。
「天使のささやきの日だよ」
「えっ? それっていつなんですか?」
「……2月17日。日本での観測史上最低気温の日らしい」
「え~、そうなんですね。あ、早生まれなんですか?」
「そうそう」
「2月、17日……」
少し、遠い……。
「え、なにその反応」
「あっ、ええっと……」
「はい。えーそれでは刑法第九回目の講義を始めたいと思います」
「あっ」
先生はプロジェクターのスライドを一つ進めた。星空さんはあの先生が嫌いなのか、少し不機嫌そうにノートとふでばこをかばんから取り出す。
「またあとでね、つむぎ」
私はその言葉に頷いた。
しばらく講義が進んだところで、先生は学籍番号が書かれた紙を取った。同時に、隣の星空さんが体の向きをこっちに向けた。
「えーそれではですね、例のごとく議論の時間にしたいと思います。『疑わしきは被告人の利益に』について、法学的な観点から考えてみてください。それではどうぞ」
「つむぎ。議論する前にさ、さっきのこと聞いてもいい?」
星空さんはいつも通り食い気味に私に聞いた。私は接近する綺麗な顔から、少し身を引いた。
「は、はい。その……やっぱり私、星空さんに申し訳なく感じてしまって」
「ん? 何に?」
「星空さんは優しくて、私にいろんなことをしてくれます。それなのに、私は星空さんに何もしてあげられていません……それがずっと心に残ってます」
星空さんは考えるしぐさを見せてから、持っていた白いシャーペンを置いた。
「私がつむぎの提案を断った……っていうのもあるよね」
星空さんの言う私の提案とはきっと、「星空さんに恋人になってほしい」と提案したあのことを言っていると思う。
「それは気にしないでほしいですっ。私も星空さんの考えに納得しているので」
「そっか。ありがとう。でも本当に、本当に嬉しかった」
「星空さん……」
星空さんの言葉にはきっと嘘はない。星空さんの表情を見れば一目瞭然だった。
星空さんが、私にだけ見せる優しくて、かわいあー笑顔。
私はそんな笑顔を見ると胸が苦しくなるのと同時に、安心もした。
星空さんは「うーん」と唸ってから、「そうだ」と、人差し指をぴんと上へ立てた。
「じゃあ、つむぎにしてほしいこと思いついたから、それしてもらってもいい?」
「あ……は、はい!」
私が応えると、星空さんはにかっと笑った。
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