第17話
ピンポーン。
「あっ」
「――はっ」
あと、ほんの少しのところでつむぎの家のインターホンが鳴った。その音に反応したつむぎの体がぴくっと跳ねる。
同時に、私は冷静になる。
今、私はつむぎに――。
「…………」
「…………」
「……あっお寿司!」
「……あ」
完全に忘れていた。
そうだ、夜ごはんにお寿司を頼んだんだった。
「とと、取りに行ってきます!」
「あ、うん。お願い」
つむぎは慌ただしく部屋から出ていく。私はそれを見送って、つむぎのベッドに体を雑に預けた。
「は、はあ……」
危ない。間一髪のところでお寿司に救われた。
完全に犯罪者になるところだった。
刑法上の評価は分からないけれど、私は嘘をつくよりも確実に最低で最悪なことをつむぎにしようとした。
至近距離で見た、何も理解していなさそうなつむぎの顔を思い出す。
握った手。
外れない視線。
つむぎの潤った、薄くて赤い唇。
つむぎの、優しいにおい。
そんなつむぎに、私のことを好きじゃない人に、私は、私は、キスを――。
「っ~~~~!」
うつ伏せになってつむぎの枕に叫ぶ。
一通り叫びきって息を吸うと、つむぎの金木犀の香りがした。
いや、やっぱり私はもはや手遅れで犯罪者だと思う。
「……わたしのばか」
とはいえ私には弁論の余地がある。つむぎにも非はある。
まず、つむぎが私に「好き」の意味を聞いてきたこと。そのせいで、私がつむぎに「好き」と言ってしまって、もっとつむぎへの気持ちがあふれた。これはつむぎが悪い。
次にこの部屋――つむぎのことしか考えられないようなこの空間は私が冷静な判断を欠くには十分すぎる。
しかも当の本人、つむぎもそばにいて、その上手を握ってきた。
それに、つむぎは私に恋人になってくださいなんて言ってきた。
「…………私のこと、好きじゃないのに」
つむぎはやっぱりおかしい。でも、そんなつむぎに――つむぎが私のことを好きじゃないと分かった上でキスをしようとした私も相当おかしい。
私たちはきっと、かなりおかしい。
「あの、星空さん……」
つむぎが部屋のドアを開けて、顔だけ覗いている。目は合わない。
私が合わせていないから。
「お寿司来たんですけど、食べられますか?」
「うん。大丈夫……食べよ」
私はベッドから立ち上がって、つむぎの部屋を後にする。
頭はもう痛くなかった。
私たちが頼んだお寿司は決して高くないお店の、さらにグレードが一番低いお寿司だ。グレードとか言うのは不適切かもしれないけれど。
それでも、先週洋食屋さんで食べたオムライスとあまり値段が変わらない。
配送料が高いのだ。
経済は財とお金の交換だけでなく、サービスとお金の交換でも回っている。お寿司の値段に上乗せされているのは宅配サービスぶんの値段だ。
この値段だと宅配しかやっていないお寿司屋さんじゃなかったら、絶対に歩いてお店に行く。
そう思うものの、余分にお金を多く払うことで、私たちは家から一歩も出ることなくお寿司にありつけることができた。つむぎはリラックスしながら私と話すことができたし。
それに、私はつむぎに、キ――。
「……」
やっぱり、お寿司は自力で食べに行くべきだと思う。
つむぎの向かいに座って、お寿司を手に取る。ビニールを破ってプラスチックのふたを開ける。ネタはサーモンとかまぐろみたいな、ごく普通のものが十貫あって、丁寧に並べられていた。
「貸して、つむぎ」
「あっ……」
つむぎがビニールを剝がすのに苦戦していたから、私はつむぎに手を差し伸べる。つむぎは素直に従って、私にお寿司をゆだねた。
私はぺりぺりと透明のビニールを剥がしていく。
そういえば記憶を失う前のつむぎも不器用だったけれど、絶対に私の手を借りなかったな。
「はい。取れたよ」
「ありがとうございます……やっぱり優しいですね、星空さん」
「いいや、私は優しくないよ」
私は初めてつむぎの「優しい」をはっきり否定した。
私は二文字の気持ちを抱いていないつむぎに、勝手にキスをしようとしたのだから。
私はつむぎの唇をそれとなく見る。
そう、私はあそこにキスを、キスをしようとした。
「わーーっ!」
「ほ、星空さん!?」
あの時の光景がフラッシュバックして、いてもたってもいられなくなる。
「はっ」
私はとっさに口を押える。このレベルの家なら防音は完璧なはずだけれど、万が一つむぎにクレームが入ったら申し訳なさすぎる。
「ご、ごめんね? ちょっと、取り乱した」
「ええ、大丈夫ですか……? いただきます」
「いただきます」
私は怪訝そうな顔をしたつむぎから視線を下へと移す。つむぎの箸がサーモンを取ったのが見えて、私もサーモンから食べることにした。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
二人の声は揃わない。
特に会話を交わすもなく黙々とネタを食べていき、体感十分くらいで食べ終わった。つむぎは麦茶をゆっくり口に運ぶ。
「お寿司、美味しかった?」
「はい! 美味しかったです」
「私も」
北海道のお寿司は美味しいと聞くのと同時に、本州のお寿司は不味いとも聞く。少なくても北海道に住んでいたころはそう聞かされていた。
久しぶりにお寿司を食べたから判断力に欠けるけれど、今日食べたいわゆる本州のお寿司はグレードが低いものなのに普通に美味しいと感じた。
やっぱり、物事はその中身を実際に確かめてみないと分からないのだと思う。
「つむぎはどのネタが一番好き?」
「私はサーモンが好きです!」
「あはは、変わってないね」
つむぎは前もサーモンが一番好きだった。
……つむぎの言ったセリフのサーモンのところが、星空さんに変わればいいのに。
「……」
いや、何を考えているんだ私は。
「星空さんは何が一番好きですか?」
「ん? 私はね――」
「いや、やっぱり当ててみて」
「えっ」
つむぎは急に振られた問題に少し困っている。いつもつむぎに無自覚に振り回されているから、たまにはつむぎに意地悪がしたい。
もしかしたらキスも、そんな動機でしようとしたのかもしれない。
……つむぎが悪い。
「いきなり当てるのは無理だからさ、何回でも質問していいよ」
「そうですね~……今食べた十貫にありましたか?」
「なかった」
「ええっ。お高いですか……?」
「う~ん、そんなに。でもあんまり置いてないことが多いかも」
「なるほど」
つむぎは悩んでいる。可愛い。
「色は!」
「白とか緑」
「えー緑!? 緑ですか!? 白はまだしも、身が緑のお魚さんっていったい……」
「お、その疑問はあってる。魚じゃないよ」
「なるほど……? あっ」
「かっぱ巻きですか!?」
「ぶー」
「ううっ」
つむぎは悔しそうに握りこぶしを机の上で作った。我ながら楽しいな、このクイズ。
つむぎはすぐに握りこぶしをほどいて、組んだ。つむぎの表情が変わる。
「……つむぎ?」
何か、様子が変だ。
「星空さんは優しいです」
「へっ!?」
がたんと私の椅子が音を立てる。フローリングに傷がついていないか念のため確認してから、つむぎの方を見た。
「ど、どしたの突然」
私は今つむぎに、意地悪していたのに。
「星空さんの言う通り、私は恋人同士がするようなことを全く分かってませんでした」
「!」
私は痛いところを突かれて目を伏せる。
「星空さんは私にいつも私の分からないことを真摯に教えてくれます。それに、私のことを大切に考えてくれて、優しい人です」
つむぎがどんな表情で話しているか分からないから、私はすぐにつむぎの顔を見た。
つむぎは柔らかくて、優しい笑顔をしていた。その眩しさに私は胸が痛む。
「きっと、好きじゃないのに恋人がするようなことをするのって、健全じゃないと思う。初めてならなおさらだよ。そういうのってきっとずっと忘れられない出来事になるだろうし」
私はつむぎに伝えると同時に、自分にも言い聞かせる。
そう。もしつむぎが私とキスをしたのなら、きっとつむぎの人生に私がいなくなったとしてもつむぎの心のどこかに残り続けてしまう。キスをするということは、大切な人とだけする、それほど大切な行為だ。
それだけ大切なことをつむぎの好きという気持ちなしにするなんて、間違っている。
「そうですよね。やっぱり星空さんは優しいです」
「……今日いっぱい言うね?」
「だって、優しいので」
なんだか調子が狂う。
「私はつむぎが思ってるより優しくないよ」
「そんなことないです……あっすみません、中断しちゃって」
つむぎはいつも通り深く頭を下げた。整えられた金色の前髪が揺れる。
「全然大丈夫だよ。くだらないし、私の好きなネタクイズ」
「そんなことないですよ? でも、見当がつかないので教えてください!」
「うん。正解は〜……」
「はいっ」
「芽ねぎ」
「え?」
つむぎは「芽ねぎ」と呟いてから呆気に取られたように、口をぽかんと開いた。
「どう? なかなか珍しいでしょ」
「珍しいというか〜……かなり渋いですね」
「でしょ?」
「はい……ふふ」
「あははっ」
つむぎと目が合う。私たちはどちらからともなく笑った。
二文字の気持ち おわり
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