第15話

「お話する前に、晩ごはん食べますか?」

「おなかすいたしそうしよっか。つむぎは何食べたい?」

「ええっと……」


 つむぎがテーブルの下に視線を落とす。それでも、つむぎと目が合っている時間がだんだん長くなっている。逆に私が合わせられない場面もあるけれど、つむぎが変わってきているのを少しだけ実感する。


「星空さんの好きな和食が食べたいです」


「えっ」


 つむぎは「この前は私の好きなものだったので」と両手の人差し指を合わせながら言った。可愛い。

 そしてちゃんと私の好きな食べ物を覚えてくれていて、しかも私に気を遣ってくれて。


 好き。


 その二文字を言いかけたところでなんとか飲み込む。


 今日の一限から――つむぎに好きだと伝えてしまったときから、好きだと思った瞬間不意に口から出そうになっている。私の中で好きと伝えるハードルが分かりやすく下がってきている。


「でも、作るのめんどくさくない? 宅配はお寿司しかないし」


 私はカーディガンの袖をぎゅっと握る。


 好き。

 この二文字はきっと、つむぎを困惑させてしまう言葉だ。


 ルーズリーフにこの二文字の気持ちを書いて渡したとき、つむぎのほうを見なかった……正確には見ることができなくてつむぎの反応を見ていないから分からないけれど、きっと困らせてしまったと思う。講義が終わってから挨拶程度に話して、つむぎがさっと二限の講義に行ってしまったのも気になる。

 好きかどうか聞いてきたのはつむぎの方だから、好きだと伝えて嫌われたなんてことはないと思うけれど。それに何より。


 ――好きです、付き合ってください!


 先週くらいの、全く知らない人の顔と声が浮かぶ。


 好きじゃない人に好きと言われて困惑するのは私にもよく分かる。


「お寿司、嫌いなんですか?」

「ううん? むしろ好……」

「き」

「え?」


 まずい。


 好きを意識しすぎて、普通に好きと言ってもいい場面で変に言葉に詰まってしまう。私は一つ咳払いをする。


「む、むしろお寿司が好きで、和食が……。す、好きって言ってる節はあるかな」

「あっ……そ、そんなに好きなんですね」

「好っ!? ……あ、そうそう」

「ん……?」


 つむぎは不思議そうに私の顔を覗く。私は慌てて何でもない、と付け足した。


「それなら、お寿司にしますか?」

「そうしよっか。私お寿司頼むね」

「お願いします」


 私は苦し紛れに誤魔化して携帯を取り出し、お寿司を注文し始める。携帯のガラスフィルムには、新しい大きな亀裂が縦に一本入っていた。


「星空さんは、私のこと好き?」


 私の心臓がこんなにうるさいのも、つむぎが言う「好き」ですら私が変に意識してしまうのも。全部全部あんなことを突然言うつむぎのせいだ。


 私はつむぎの方をちらりと見る。つむぎと一瞬目が合ったけれど、つむぎはすぐに麦茶に視線を向けた。私もなんだか居心地が悪くて視線を携帯に戻す。


 つむぎはメニューを迷いに迷って、結局私が提案した一番安いものにしてくれることになった。

 つむぎの家の住所を入力して、完了を押す。すると、画面に待ち時間が表示された。


「あと30分くらいでお寿司来るって」

「分かりました、ありがとうございます! ほんとうは私が頼むべきなのに……」

「いやいや気にしないで。つむぎはこういうの苦手だし、私が食べたいんだし」

「いえ……やっぱり、星空さんは優しいです」


 また、つむぎに優しいと言われた。つむぎ以外に優しいと言われることがないから、なんだかくすぐったくなる。


「あの、星空さんっ」

「うん?」

「さっきのこと、聞いてもいいですか?」

「……うん。私たちの関係について、私がどう思ってるか、だよね」

「それも聞きたいことではあるんですけど……」

「うん? うん」


 てっきりその話かと思っていた。どうやらつむぎの聞きたいことはまだ他にもあるらしい。


「あの、星空さんはどれくらいもてるんですか!?」

「えっ」


 その話?


「き、気になるので……!」


 帰り道で相澤さんとの会話をそんなところまで聞かれているとは思わなかったし、それをつむぎに深掘りされるなんて思っていなかった。


 つむぎは私を真剣な眼差しで見ている。どうやら本当に聞きたい話らしい。


「つむぎもそういうの気になるんだ……」

「ええっと、」


 つむぎは言い淀む。


「大丈夫だよ。つむぎもそういう話、私よりは好きだったからさ」


 とてつもなくめんどくさいことになりそうだから相澤さんに話したときは「好きな人がいるから断り続けている」とは言えずに、適当に受け流していた。でも、つむぎは相澤さんと違って好きな人そのものだ。つむぎには正直に言っても問題ない。


 それに、つむぎにはもう嘘をつきたくない。


「つむぎがどれくらいのを想像しているか分からないけど、街に買い物に行ったらちょっと声をかけられるくらいだよ。あと、大学でも少し」

「え〜、ほんとうにそんなことあるんですね。どれくらいの人に声をかけられるんですか?」

「一日に多くて三人とか? あんまり意識してないから分かんない」

「わっ……」


 つむぎは口元を押さえて、驚いて見せた。


「そ、そんなに……星空さんはやっぱりもてるんですね」

「ほんとなんかの間違いだと思うよ。それこそつむぎほど可愛かったら声かけられそうだけど?」

「ええっ、可愛いなんてそんな私なんか……」

「いやいやいや。つむぎは可愛い」

「ええ……」


 つむぎは困りながらも、頬を赤くしている。きっと照れている。


 すごく、すごく可愛い。


「でも、大学とかでもそういうのはないの? 高校の頃とかでもいいから気になるな」


 私が気を取り直して話を振ると、つむぎは麦茶の入ったグラスを握った。

 つむぎは持ち前の人当たりのよさで、中学生の頃の時点で何人かに告白されていた。私はそんな話を聞かさせるたびに冷や汗をかいては、つむぎの断ったという言葉を聞いて安心していた。


 今のつむぎは前と打って変わってコミュニケーションが苦手だ。それでも相澤さんみたいな人たちはこの時期恋人を作ることに躍起になっているから、あまり想像したくはないものの、つむぎにもその魔の手が伸びている可能性が高い。


 もしつむぎが愚かな人たちによるナンパ等に遭っていたらすごく嫌だ。そんな事実があったら不快すぎておかしくなりそう。


「大学ではないです。高校では~……私共学だったんですけど、ない……ですかね?」

「! そうなんだ!」

「は、はい。もしかして星空さんは高校の頃も?」

「うん。女子高だったけど何回かはあったよ」

「え、ええ~」

 

 感心しているのかよく分からない反応を見せているつむぎを見ながら、私は内心でガッツポーズをする。どうやらつむぎの魅力に気づいているのは私だけらしい。


 これからもつむぎを可愛いと思うのは私だけでいいし、つむぎのことを好きだと思うのは私だけでいい。


「つむぎ可愛いから、もしそういうのに巻き込まれたら頼って。いつでもつむぎの元へとんで行くから」

「あ、ありがとうございます」


 会話がそこで途切れて沈黙が降ってくる。私は膝の上で握りこぶしを作った。


「あのさつむぎ」

「あの、星空さん」

「あ」

「あ」


 つむぎと声が重なる。また少し気まずい沈黙が続いて、私はつむぎに「つむぎからいいよ」と、つむぎに話を譲った。


「じゃあ私から……。洋食屋さんのときにも言ったんですけど、私は恋愛の経験とか全くなくて、どういう感情が好きで、人を好きになるとどういう気持ちになるのか全く分かりません」

「うん」


 私もそれはとてもよく覚えている。私の知らない五年間でつむぎに好きな人がいなくて、そして今もいなかったことは、私にとってこれ以上ないほどの朗報だったから。


「きっと好きって言葉にはいろいろな意味があると思うんです。私は人とお話しすることが苦手だからその意味をうまく汲み取ることができなくって……だから分からないんです」

「星空さんがあのとき書いた好きって、どういう意味ですか」

「はっ」


 そうだったんだ。


 つむぎは好きを私に向けられたことに困っていたのではなくて、好きの意味が分からなくて困っていたんだ。

 私はてっきりあの嘘――私が五年前につむぎと恋人だったという嘘が、好きに恋愛感情としての意味を与えてしまっているとすっかり思い込んでいた。けれど、どうやらつむぎにとってはそうではなかったらしい。

 それに、文字で伝えたことも、きっともっとつむぎを困らせてしまったのだと思う。


 それなら、私のすべきことは明らかだった。


「私からも合わせて伝えるね、そのことと、一限で私が書いた『星波つむぎと星空瀬梨香の関係』のこと」

「! ……はい」


 つむぎが注いでくれた麦茶を飲む。普段水しか飲まないから、なんだか久しぶりに飲んだ。つむぎも私に合わせて麦茶を飲んだ。私は音が鳴らないようにグラスを置く。


「確かに、今の私たちの関係は曖昧だと思う。友だちでもないし、恋人でもない」

「私も恋愛の経験なんて全くないから『星波つむぎと星空瀬梨香の関係』を『星波つむぎと星空瀬梨香の関係』としか表現できないし、好きの意味だってきっとつむぎにうまく伝えられない」

「人と人の関係にはいろいろな名前や意味があるのと同じで、つむぎが言った通り好きにもいろいろな意味がある。好きって言葉は食べ物にも使ったりするよね、私ならオムライスも、これから来るお寿司も好き」

「……そうですよね、いろんなものに言います」


 私は少し間を置いて、つむぎの目を見る。視線は外れない。


「でも、好きな食べ物がたくさんあるのと違って、恋愛感情での好きって、ある一人にしか抱かない特別な気持ちのことだと思う」

「特別な、気持ち……」

「そう。特別」

「私はつむぎの記憶がだんだんなくなったって話をつむぎがしてくれたとき、悔しかったというか、私はつむぎが望むのならいつまでもそばにいるのにって思った。どんな些細なことでも力になったのにって」


 私は膝の上の握りこぶしをより強く握る。


「愛おしいとか可愛いって思うのももちろんそうだけど、そういう悔しいみたいな気持ちも、つむぎのそばにいたいって気持ちも、つむぎだけにしか抱かない特別な気持ち」

「……これは私の場合ってだけで、特別な気持ちになる人がいっぱいいてもいいと思うよ」


 つむぎには絶対にいないで欲しいけれど。


 つむぎは相槌を打つ代わりにこくりと頷きながらまじめにじっと聞いている。


「今のつむぎとの関係もそう。こんな関係はつむぎとしかなりえないし、そもそもつむぎ以外の人となりたいって思わない。だから私は『星波つむぎと星空瀬梨香の関係』を他の誰のとも違う、つむぎ以外に築けない特別なものだと思ってる」

「……はい」

「ごめん、言いたいことがうまくまとまらなくて……。とにかく、好きってその人を特別だと思う気持ちのことで、つむぎは私にとって特別で、かけがえのない人なの」


 私はつむぎをじっと見つめる。つむぎも私を見ている。視線は絡んでほどけない。


「だから、改めて言うよ。私は――」


 私はあのときの夢、または記憶を、ふっと思い出す。

 雪の降る外で、つむぎと見えない天体を観測する夢。


 私は――。


 あのとき、現実でも夢でもつむぎに言えなかった、たった二文字の気持ち。


 雪は降っていない。星空も見えない。でもつむぎのことならはっきりと見えている。


 私の気持ちは今なら声になる。


「つむぎが好き」


 私ははっきりとつむぎに伝えた。つむぎの瞳が大きく見開かれて、揺れる。


 つむぎはずっと黙っている。

 それでも、絡まる視線はほどけない。

 何か言ってほしいけれど、何も言ってほしくない。


 全身、特に顔が熱い。今、自分がどんな顔をしているか分からない。自分の顔を見たくないと思う。


 やがて、つむぎはゆっくりまぶたを閉じて、開けて、口を開いた。


「ありがとうございます。星空さんの好きの意味、伝わったような気がします」

「う、うん」


 私は一瞬ほっとして、すぐに背筋が伸びる。


 つむぎが何か決心したような表情をしていたから。


「あの、別に返事が欲しいとかそういうわけじゃなくて、ただ、私の気持ちを知って欲しかっただけだからね!? 完全に私のわがままだから」


 お別れのような嫌な予感はしないけれど、私は予防線を張る。緊張が喉に張りついている。熱くて滲んだ汗が一滴、私の頬を滑り落ちていった。


「……星空さん、お願いがあります」

「お、お願い?」

「はい」


「恋人になってください。私の」

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