第12話

 今日の講義が全部終わって、あたりはすっかり暗くなっていた。日の短さを実感する中で、私は暗い夜の道を歩く。


 ――またあとでね。つむぎ。


 あの講義のあと、星空さんから連絡はまだ来ていない。私から連絡してもよかったけれど、なんとなく星空さんから連絡を待つ方が良い気がした。


〈私はつむぎのこと、好きだよ〉

〈好き〉


 星空さんの筆跡がずっと頭に残っている。

 踏んだ落ち葉がくしゃりと鳴る。


 星空さんの心の中を覗いたみたいで、これまでどこか分かりそうで分からなかった星空さんの気持ちを知ることができて。今思い出すだけでもすごくドキドキする。


 好き。


 たったの二文字。たったの二文字なのに、優しくて温かい。


 好きって伝えられると、こんな気持ちになるんだ。


 きっと、相手が他の誰でもない、星空さんだからこんな気持ちになるのだと思う。

 それはお医者さんの言っていた潜在的な記憶によるものではなくて、今の私が今の記憶だけで感じたものなはず。


 そう、思いたい。

 

 でも、少し落ち着いて考えてみるとなんだか、私たちの関係はもっともっと分からないものになっている。


 星空さんは私のことがずっと好きだったことが、さっきの一限の講義ではっきりとした。星空さんのこれまでの表情とか言葉から分かるように、それは絶対に嘘ではなくて、私と離れていてもずっと変わらず想ってくれていた。

 そんな星空さんと違って、私は星空さんを好きという気持ちでさえ忘れてしまっている。


 それでも、私に二文字の気持ちがなくても、私が星空さんの恋人になりたいと願えば「星波つむぎと星空瀬梨香の関係」に名前がつく。


 私は星空さんの気持ちに応えたいし、忘れているだけで私は前に星空さんのことを好きだったのだから、私たちの関係にまた名前をつけてもいいように思える。


 けれど、星空さんはそれを絶対に許さないはず。星空さんは私が星空さんのことを好きじゃないことを分かっていて、そして私が好きじゃないと星空さんは名前をつけたくないと思っている。


 恋人、という名前を。


 そうじゃないと星空さんは〈確かに恋人とも、友だちとも違うかも〉だなんて言わない。

 気持ちが一方通行のときの接しかたが恋人やお友だちよりも複雑で、もっと分からないことが私は分かってしまった。


「はあ……」


 星空さんの優しくてまじめなところに、本当に申し訳なく思う。

 そして、仕方のないことだって分かっているのに、忘れたくて忘れたわけではないのに五年より前のことを忘れてしまった自分が嫌になる。私はもう一つ大きく溜息をつく。


 私の恋が、春に溶けなければよかったのに。

 

「で? なんで先週の断ったわけ?」

「え?」


 後ろから低めの声が聞こえる。振り返ると、暗い夜道に遠くから高いブーツを鳴らしながら歩いてくる人と、もう一人歩いてくる。何かお話しているみたいだけれど、もう一人の方の声は聞こえない。


 ……怖い。


 運良く私の家に着いたから、私はエントランスにさっと入る。悪いことをしたわけでも、あの二人に追われているわけでもないけれど。


「ああ、そうなん? てっきり瀬梨香がヌケガケ、男ができたのかと思った」

「……え?」


 せりか?


 私はこっそりエントランスから二人の女の人を覗く。だんだん近づいてきて、怖いそうな人が見た目も怖そうなのが見えてきた。

 そしてその隣にいたのは、あまり見えなくても分かるほど綺麗な人。


「ええ~!?」


 星空さんだ。


 星空さん、あんな明るい茶髪の、いかにもふまじめ! みたいなお友だちいたんだ。

 そういえば、星空さんの交友関係を全く聞いていなかったから、そもそも星空さんにお友だちがいることすら全く知らなかった。

 星空さんの性格をよく考えれば……よく考えなくても、星空さんにお友だちがいないなんてこと、あるはずがなかった。


 歩いていた二人は運悪く私のエントランス前で止まる。どうしてここで止まるんだろう。今度は近くにいるから、星空さんの声も聞こえてくる。


「男って……私そんなに怪しい?」

「そりゃ。先週友達とご飯食べに行くって断ったって言ってたけど、ちょっと信憑性に欠ける」

「しかも一回も来たことないし」


 星空さんはけだるそうに溜息をついた。星空さん、この怖い人に何かしたのかな。

 

 この二人のやりとりを近くで見ると、あまりお友だちという風には見えない。いったいどういう関係なんだろう。


「申し訳ないとは思ってるよ? でもさー、私まだ未成年だし」

「いやそもそも本当にたまたま予定が入ってたり寝てたりするんだって!」


 星空さんは両手を合わせる。怖い人の方はそんな星空さんを目を細めて見ている。きっと疑っている。


「未成年で飲んでる連れもいるし。そーいうところもマジメだわ」

「でしょ? まじめな人、誘っても楽しくないって! そもそもさ、って言うけどそれさ――」

「いやいや、最初女だけで集まって飲むんだけど、そしたらたまったま! 誰が誘ったかは分かんないけどたまたま同じ数だけの男も同席してて――」

「はいはい、合コンね」


 怖い人は舌打ちをする。怖い。そんな怖い人をうまく受け流している星空さんはどこか慣れているように見えた。


 こういう場面に巻き込まれることが多いのかな。


「瀬梨香って男嫌いなん? あたしの連れにはむしろ男いた方が喜ばれるんだけど」


 星空さんはわざとらしく肩をすくめる。


「嫌いとか好き以前に大人数でワイワイするのがあんまり好きじゃない。だから相澤さん一人だけと居酒屋行くとかなら全然行くよ? 予定がなければ、だけど」

「ふーん、予定、ね」

「あ、もちろん後から男の人来たら帰る」


 怖い人は相澤さんという名前みたい。相澤さんはまた舌打ちをして、「男女22ならいけると思ったのに」と言った。


「そう言うってことは男が嫌いってことじゃないん? 高校とか彼氏いなかったの」


 相澤さんが星空さんに聞く。さっきから相澤さんは私も気になったところを聞いてくれる。


「男の人は嫌いじゃない。でも女子高だったし彼氏はいなかった」

「ほんとか?」

「疑いすぎじゃない?」

「うーん。まー別に合コン来なくてもいいけど。これだけは教えな。実は男いる?」

「合コンって言っちゃってるじゃん……」

「いないよ」


 星空さんはきっぱりと言い切った。私はほっと息をつく。


「あれ……?」


 どうして今、安心したのだろう。


「今の言いかたとか表情、信用してもよさそうだな。瀬梨香マジで可愛いしモテそうだから一瞬で男作りそう……おっと、ヌケガケしそうでさー」

「もてませーん」


 私は星空さんことを感情が豊かで、すぐ顔に出るタイプなのかなって思っていた。

 けれど、今の星空さんは私とお話しているときとうって変わって、星空さんの感情は全く動いていないように見える。実際、星空さんは真顔で表情一つ変えずに、のらりくらりと相澤さんの言葉をかわしている。


 今見ている星空さんと、私といるときの星空さん、どっちが本当の星空さんなんだろう。


 私はあのルーズリーフの入ったバッグをぎゅっと握る。


 少しだけ、怖くなる。


「じゃあ大学入ってから何人に告白された? ナンパは?」

「えー、そんなの」

「わざわざ数えてない」

「は!?」

「え!?」


 相澤さんと私の驚いた声が重なって、あたりに響く。私はとっさに口を覆った。


 うまく受け流していたり、こういう話に慣れている感じがしたのって、そういうことだったんだ。


 私は表情一つ変わらない星空さんを見る。未成年って言っていたから、今だけは私よりも年下なのに、その綺麗な横顔はなんだかとても大人びて見えた。


「はあ!? か、数えてないって、こっ、この女やっぱり隅に置いておけね~……」

「なんかの罰ゲームでしょ」

「んなわけないだろ……もういいわ、あたしは帰る」

「え、ああ、うん」

「……定期的に連絡するから!」

「ああ、うん」

「もし男できたら自己申告しろよ!」

「するする。じゃあね」


 相澤さんは星空さんにひらひら手を振ると、今度は私の家のエントランスに近づいてきた。


「え?」


 相澤さんの家ってもしかして――。


 相澤さんはエントランスを開けて、202号室のポストを開けた。相澤さんが封筒とかプリントを片手に持って前を向いたところで、私は相澤さんと目が合う。


「こんばんはー」

「あっこ、こんばんは」


 相澤さんは私の横を通って、階段を登って行った。


 私と家、同じなんだ……。


 相澤さんの背を見送って、またエントランスの外を見る。星空さんはまだそこにいて、携帯を触っていた。


 ブブブッ。

 バッグの中の携帯が鳴る。電源をつけると、星空さんからメッセージが立て続けに送られてきた。


〈連絡遅くなってごめん〉

〈晩ごはんまだだったらまたどこか食べに行かない?〉

〈今どこにいる?〉


 星空さんは、私と違って文字を打つのがすごく速い。


 私は返信しないで、エントランスの重たいガラスの扉を開けた。

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