第11話
「んんっ!?」
「え?」
星空さんは飲んでいた水を無理に飲み込んで変なところに入ったのか、激しく咳き込み始めた。すごい勢いで咳き込んでいるから、前の席の人がちらりと振り向いた。気まずい。
いや、そんなことより。
「ごほっ……」
「だ、大丈夫ですか!?」
「っ……はぁ、え、だいじょぶじゃない全く……つむぎ、いまなんて?」
「え、私のこと好――」
「げほっ! ごほっ!」
「ああ!」
星空さんの咳は止まらない。私はどうしたらいいか分からなくて、とりあえず咳が止まるまで星空さんの背中をさすった。
星空さんの咳が落ち着いたのは、講義が始まって数分経ってからだった。
落ち着いたとはいっても、先生が淡々と講義をする中で、たまに星空さんの「けほっ」という小さな咳がまだ聞こえてくる。
大丈夫かな……。
私は星空さんを見る。星空さんはそんな状況でも、口を手で押さえながらノートを取っている。
星空さんはまじめな人だと思う。
こういうところだけじゃない。メッセージの中の些細なところとか、星空さんの言葉の端々には、そんなまじめなところが見え隠れしている。
まじめで、優しい。それが今の私から見た星空さんの内面。
その一方で、星空さんから見た私の内面は五年前の私のそれから、きっとかなり変わっている。
性格、考えかた、癖、好きなもの、嫌いなもの。同じところ以上に、違うところが多いと思う。
星空さんはこの五年で変わったところがあるのかな。
星空さんはちゃんと記憶がある。それでも、星空さんの内面はこれまでずっと同じだったのかな。
変わらずまじめで、優しかったのかな。
私のことを、今も変わらず――。
「えっ」
星空さんを見ていると、左の端からルーズリーフがぬっと視界に入った。
星空さんはまっすぐ前を向いたまま、私にルーズリーフを差し出していた。私はそれを読む。
〈さっきの、どういう意図で聞いたの?〉
私はまた星空さんを見る。星空さんは黒板の方をまっすぐ見ていて、目が合わない。私は目線を落として、シャーペンを走らせる。
〈困らせましたよね、〉
〈すみません〉
私はルーズリーフを星空さんに返す。星空さんからの返事はすぐに送られてきた。
〈すごい急だったから驚いただけ〉
〈困ってないよ〉
「困ってない……」
星空さんはまた小さく咳をした。
〈やっぱり、星空さんは優しいですね〉
〈今の私と星空さん〉
〈どんな関係なのかなって思って〉
〈聞きました〉
〈考えたことなかった〉
〈確かに恋人とも、友だちとも違うかも〉
〈そうなんですよね、〉
〈でも、私とつむぎの関係に名前なんて〉
〈いるかな〉
〈星波つむぎと星空瀬梨香の関係は〉
〈星波つむぎと星空瀬梨香の関係だと思う〉
〈私と星空さんの関係は、私と星空さんの関係〉と、書いたところでルーズリーフに余白がなくなった。私はルーズリーフを裏返しにすると、連絡先交換とか、先週の星空さんとのやり取りが残っていた。
星空さん、この前の取っておいていたんだ。
私が新しいルーズリーフを取り出そうとしたところで、先生が話題を変えた。
「えーそれではですね、例のごとく隣の人と議論してもらいます。まあ、どちらかといえば憲法学上の議論だったりしますが。死刑制度に賛成か反対か、よりアカデミックな議論をしたい方は合憲か違憲か。それでは始めてください」
先生がそう言った瞬間、星空さんは議論するのを分かっていたみたいに素早く、体ごと私の方を向いた。
「つむぎ」
「はいっ」
「先聞くけど議論したい? まじめに」
「えっ、えーっと……」
私は先生に言われたとはいえ「議論しないといけない」という気持ちよりも、「星空さんとお話したい」という気持ちの方が強かった。
「私はつむぎと話したい」
「! ……はい、私もです」
星空さんは確かにまじめだけれど、どこかそうじゃない気もした。
「さっきのことなんだけど、曖昧なこと言ってごめん。確かに、つむぎとしても関係性に名前があった方が私と接しやすいよね」
星空さんはルーズリーフを見ながら、私にそう言葉をかけた。なんだかカルテを見て診察するお医者さんみたい。
「いえ、単純に気になっただけです。私はその……」
「恋人とか好きな人どころか、お友だちすらこの五年間でいなかったので、どんな関係になっても接しかたなんて、よく分からないと思います」
「! ……そっか」
星空さんは嬉しそうな、でもそれをこらえるような、感情の読み取れない不思議な表情をしてから少し間を空けて、水を飲んだ。
「それなら、つむぎはつむぎのままでいいよ。いや正直敬語はやめてほしいし、瀬梨香って呼んでほしいけど」
私が謝ろうとしたところで、星空さんは細い首を横に振った。私が謝ろうとしていたことを見透かしていたみたいで、「謝らないで」と、星空さんはつけ足した。
「この前話した通り、この五年間、私にはつむぎが何をして生きているのか、そもそも生きているのかさえ分からなかった」
「だからこうして、つむぎがまた私のそばにいてくれるだけで、私には十分だよ」
「は――」
そっか。
「……はい」
星空さんが優しく目を細めて、微笑む。
私はその笑顔を認めるとなんだか胸が熱くて、きゅうっと締めつけられるような感じがした。人とお話するときの緊張とはまた違う、優しくて温かい感じ。
どうしてこれまで気づかなかったんだろう。
「はい、少し早いですがそこで止めにしてください。時間が押しているのでね。先に進みます」
「え、みじか。またあとでね、つむぎ」
先生がスライドを新しいページにすると、星空さんは不満げに体を黒板のほうへゆっくり向けた。
それを見て、遅れて私も黒板の方を見る。
「星空さんは、私のこと好き?」
私が星空さんに聞いた、あの質問を思い出す。
星空さんが私にばかだと言った理由が今、はっきりした。
疑問に思う余地なんて、聞く必要なんて、全くなかった。
言葉と行動の端々にいつも見え隠れしていたまじめなところも、優しさも。
私の言葉をいつも真剣に聞いてくれて、そのたびに星空さんの感情が大きく揺れ動いていたのも。
いつも私のことを気にかけてくれるのも。
私が気づいていなかっただけで、直接伝えられていなかっただけで、星空さんの気持ちはいつも変わらず、私に優しく、それでも確かに伝えられていた。
星空さんの方を見るとまた、視界の端にルーズリーフが入った。それを差し出した星空さんは前じゃなくて、紅葉の映る窓の方を見ていた。
私は差し出されたルーズリーフの方を見る。
〈さっきの答えだけど〉
「えっ」
私は勝手に声が漏れる。
〈私はつむぎのこと、好きだよ〉
〈好き〉
また、心臓が強く跳ねる。
私はなんだかどこも見ていられなくて、私は星空さんが書いた二文字に白紙のルーズリーフをそっと重ねた。
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