第9話

「あ、あの〜つむぎさん?」

「う〜ん……」


 つむぎは私の呼びかけに反応せず、唸りながらメニュー表とにらめっこをしている。

 お店に着いて、席に案内されて、メニューを見始めてかれこれ15分。オムライスを食べに来たはずなのに、つむぎは何を食べるか悩み続けていた。


 そこは変わったところだ。


 つむぎは前、一度決めたら絶対にやりきるタイプだった。オムライスで言えば「オムライスを食べに行く」と決めたら、たとえオムライス専門店が臨時休業でも別の洋食屋さんに行くほどには。


 そして、メニューをほぼ見ないでオムライスを即決していた。


 コミュニケーションがあまり得意じゃなくなったり、目を合わせるのが苦手になっていたことの他に、私はまたつむぎの新しい、変わったところを知る。


 これからもたくさん関わっていくうちに、変わっていないところと変わったところを知ることが増えていくのだと思う。


「つむぎはどれとどれで悩んでる?」

「あ、えっと、普通のオムライスと、たらこスパゲティと、ビーフシチューで悩んでます……」

「どれも美味しそうだもんね。私オムライス頼んでつむぎにもあげるから、つむぎはオムライス以外を頼みなよ」

「あ、ありがとうございます! すみません、こんなに時間をかけて」

「全然。気にしないで」


 つむぎはたぶんメニュー表の後ろで深く頭を下げた。メニュー表で見えないけれど、また深すぎて前髪がテーブルについていそうな気がする。


 そういえば、よく謝るのも変わったところだ。


「ほら、メニューの前で悩むことこそが外食の醍醐味だ! なんて言う人もいるし、たくさん悩んでていいよ」

「や……やっぱり星空さんは優しいです」

「……そう?」

「はい」


 優しい。つむぎにとって私のどこがそう映ったのか私には分からなかった。それをつむぎに聞こうとしたところで、つむぎは「決まりました!」と、メニュー表をぱたんと閉じてテーブルに置いた。


「決まった? すみません、注文お願いします」

「はい、ただいま」


 おぼんを持って厨房のそばに立っていたウェイトレスさんが近づいてくる。

 つむぎと行っていたお店は夫婦でやっているところがほとんどだったから、奥さん以外の人が注文を取るのがなんだか新鮮に思える。


「お待たせいたしました。ご注文をお伺いいたします」


 丁寧な言葉遣い。それを慣れたように言うと、どこからともなくボールペンと伝票を構えた。動きがプロのそれだ。プロを実際に見たことないけれど。


「オムライス一つと、」


 つむぎの方を見る。細くて長い人差し指はビーフシチューを指していた。


「ビーフシチュー一つ。あと何かいる?」


 つむぎはふるふる首を横に振った。


「以上で」

「かしこまりました。お料理ができるまでもうしばしお待ちくださいませ」


 ウェイトレスさんは一礼をして、厨房へ消えた。


「そうだつむぎ、つむぎの話したいことってなに?」


 私はつむぎを見る。つむぎと一瞬だけ目が合って、つむぎは目線を下に逸らした。


「は、話したいこと……ええっと、特に、ないです」

「……え?」

「あっ、そういう意味じゃなくてその……これについて話したいっていうのはなくって……ええと」

「うん? うん」

「私、星空さんと恋人だったんですよね?」

「っ……」


 つむぎは私がついた嘘で私を突き刺した。滅多に目の合わないつむぎとぴたりと目が合う。その視線が熱い。


 つむぎと話せることは嬉しいし、つむぎは少なくとも私のことを知りたいと思ってくれていることはとても幸せなことだと思う。


 それでも、私は素直に喜べなかった。


 私がつむぎについた嘘――私とつむぎが恋人だったという嘘を決して忘れていたわけではなかったけれど、こうしてつむぎの口からそれを言われると罪悪感がまた心を支配していくような感じがする。


 つむぎのまっすぐで、どこまでも透き通るような瞳を見ていると、つむぎに見つめられると本当にごめん、嘘だったんだと告白したくなる。


 けれど。


 こんな最低な嘘を許してくれるとはとても思えない。つむぎは優しいからひょっとすると許してくれるかもしれないけれど、もしつむぎが許してくれなかったら。許してくれたとしても嫌いになられたら。

 つむぎに何かしらの事情があった五年前とは違って、次は私のことが嫌いで離れていくから、きっと二度と会うことができなくなる。


 やっぱり、私はつむぎにまたいなくなられるのがものすごく怖い。


 私はその可能性が少しでもある限り、つむぎにこのことを言い出すことができそうになかった。


 私は混乱していたとはいえ、一限のときの自分を咎める。


 最低だ。


 私がつむぎの問いかけに「うん」とも、「違う」とも言えなくて固まっていると、つむぎは前に乗り出した。いろんな料理のにおいがする中で、優しい金木犀の香りが近くに感じる。


「私、できる限り知りたいんです。私が好きだった星空さんのこと」


 つむぎは私の好きな声でもう一度私の嘘を私に突きつける。また、じくじくと罪悪感が私の心をえぐっていく。


 それでもつむぎは、息をすることさえ忘れてしまいそうなほど綺麗だった。


「…………私も、つむぎのこといっぱい知りたい」

「あの、星空さんから質問してくれませんか? その……何から聞けばいいか分からなくて」

「ああ、そうだよね。えーっと……」


 つむぎに聞きたいこと――。


「逆に嫌いな食べ物ってある?」

「えっ」


 なんで?


 私は自分で言っておきながらそう思ったし、たぶんつむぎも思った。


 記憶のこととか、私の知らない五年間のこととか、もっと聞くべきことがたくさんあったのに、なぜか当たり障りのなさすぎることを聞いてしまった。


「えーっと、え、特にない……です!」

「! そうなんだ」


 グリーンピース、今は食べられるんだ。


「星空さんは……?」

「私も主要な食べ物は全部食べられるんだけど、オイルサーディンだけが苦手かな」

「オイ……?」


 つむぎは首を傾げている。確か前につむぎに言ったときも同じ反応をしていた気がする。


「うーんとね、イワシをオリーブオイルとかに漬けてある缶詰め。たまにスーパーで売ってるよ」

「初めて聞きました。今度食べてみます!」

「あまりおすすめはしないよ……?」

「でも、どういうときにそれを食べたんですか?」

「リエットって料理を作ったときに使ったんだよね~……」

「リエ……?」


 つむぎはまた首を傾げた。すごく可愛い。

 そして話しながら思う。


 何の話をしているんだろう。


 こんな話をしたいわけではない。けれど、つむぎがあまりにも面白そうに話を聞くからオイルサーディンとそのリエットの話題が止まらないし、私も私で逸れた路線を変更できない。


 つむぎがお冷を飲む。喉が小さく動いて、当たり前なのにつむぎが生きていることを実感した。


「あのさ、つむぎ」

「は、はい」


 私は話題を変えてみる。

 私の知りたい、もっと大切な話。


「つむぎは一人暮らししてて寂しいなって、孤独が嫌だなって思うときある?」

「私は、けっこう一人でいることが当たり前なのでそんなに……」


 つむぎは困ったように笑った。私もぎこちなく笑う。


「そうなんだ。なんか、安心した」


 つむぎは「安心ですか?」と首を傾けた。私が必要以上にそばにいる理由がなくなって、がっかりもしたことは言わないでおいた。


「それと、つむぎは天体観測、今も好き?」


 つむぎは持っていたグラスを音がならないくらいそっと置いた。本当は少しの緊張をはらんだ、私の心臓の音で聞こえなかっただけかもしれない。


 つむぎは五年前、星座とか惑星が好きで、週末によく天体観測をしていた。天体観測とは言っても学校に天文部はなくて、近くにあった天文台に二人で行って、二人で星を見ただけの、簡単なものだったけれど。


「嫌いではないですけど、してません」

「でも、きらきらしたものは好きです!」

「そう、なんだ」


 そこも、変わったんだ。


 私はつむぎのグラスを見る。氷が暖色の間接照明をてらてら反射している。

 私はつむぎのことをなぜか、見ていられなくなった。


「……改めて聞いてもいい? つむぎのその……記憶の話」

「あ、はい」

「記憶って、戻ったりするの?」


 私はお冷を少し飲む。冷たい感覚が喉を通り抜けていって、胃に落ちた。


「そう説明を受けています。でも、長い時間がかかったり、完全に記憶が戻る可能性は低いみたいです」


 つむぎは顔色を変えず、淡々と言う。


「……なるほど」


 きっと主治医がつむぎと両親に希望を持たせるために言っただけであって、本当はその可能性がゼロに等しいと、私は理解した。


 つむぎの記憶は戻らないと考えていた方が――。


「記憶が戻らないわけじゃないんだね、よかった」


 今の言葉は本心でも嘘でもなかった。


「もう一つ聞きたいんだけど、いい?」

「あ、はい」

「つむぎが記憶をなくしたときの話、いい?」

「はい。私も両親から聞いた話なんですけど、私は事故とかで記憶を突然、一気になくしたわけではなくて、だんだんなくなっていったみたいです」

「え? え……?」


 初めて知る事実に、私の頭に衝撃がはしる。

 私はつむぎにそんな話をされた覚えはないし、私が見逃していなければそんな素振りを見ていない。


 つむぎは私に、ずっとずっとそのことを隠して私と過ごしていたのだろうか。

 

 記憶を失いながら。思い出せなくなっていくまま。


「それほんと? 嘘なわけないか……」

「原因は、分からないみたいで……」

「記憶がなくなりはじめたのはいつから?」

「あっ、それも分からないです、すみません……」

「そっか」

「でも、記憶が完全になくなる前にこっちに引っ越してきたと聞いてます」

「……それは、どうして?」

「すごいお医者さんがここにいるっていうのと、私の希望で。『みんなに迷惑をかけたくなかった』みたいです」

「! ……そっか」


 私はお冷のグラスを強く強く握る。手のひらが結露で濡れて、冷たくなっていく。


「そっか」


 つむぎの希望。に迷惑をかけたくないから。だから担任はあのとき、つむぎの転校理由を曖昧に説明したのだと納得がいく。でも。


 どうして?

 どうして私に何も言ってくれなかったの?

 どうして私を頼らなかったの? 


 迷惑だなんて、思うはずがないのに。


 ……と、今のつむぎに聞いたって意味はないし、ただただ困らせてしまうだけだから心のうちに留めておく。

 その心に留めていた言葉が、だんだん悲しみとも、やるせなさとも違う、言葉にできない感情へと変わっていく。


 私は確かにすごいお医者さんでもなければ、なくなっていくつむぎの記憶を繋ぎとめることも、それを蘇らせることだってできない。

 つむぎの両親みたいにお金のこととか、本人の希望を叶えることで支えてあげることもできない。


 でも、つむぎのそばにいることなら私にもできたし、不安なつむぎの手を握り続けることだってできた。つむぎの知らないつむぎのことだって、教えてあげられた。


 初恋の人である以前に、つむぎのことを好きである前に、友だちとして。親友として。


 それでもつむぎは私を頼ろうとしなかった。


 私ははつむぎに望まれていなくて、つむぎにとって私は、それだけ弱い存在だったのかな。

 つむぎにとって私ものうちに入っていて、さして特別じゃなかったってことだろうか。


 友だちとしても。もし、私を好きだったとしても。


「……つむぎのばか」

「ええ!? ほ、星空さん――」

「大変お待たせしました」


 ウェイトレスさんが料理を運んできた。けっこうこだわっていそうなお皿に乗っているその料理たちを、涼しい顔をして片手に一品ずつ持っている。


「オムライスと、ビーフシチューでございます」

「あっ、ありがとうございます」

「伝票失礼いたします。ごゆっくりどうぞ」

「とりあえず食べよっか。いただきます」

「……いただきます」


 私はつむぎが大好きだったオムライスをすくう。

 当たり前だけれど、つむぎとよく行っていたお店と味付けは全然違った。



 それから少し他愛のない話をしてつむぎと別れた後、私は二日連続であの夢を見た。


 つむぎと星のない夜空で天体観測をする夢。

 きっと、つむぎにまた会えたからだと思う。


 けれど、つむぎに会えたのに夢の内容は変わらなかった。

 いつも通りつむぎの顔は不鮮明で、いつも通り私はつむぎに気持ちを伝えるどころか、何も声を出せないところで終わってしまった。


 不思議な夢だな、なんて思いながら目が覚める。ベッドから出て、私は冷たいフローリングを踏んだ。




変わっていないところ、変わったところ おわり

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