第5話

「記憶がないって、本当に何も……?」

「! は、い……」


 つむぎはうつむいて、私から目を逸らす。


「何も……覚えていないんだね……」

「五年よりも前のことは何も、覚えていないです」


 私は受け入れることができずに、つむぎに何度も同じことを聞く。つむぎからの返事も全く同じだった。


 何も、覚えていない。


 当たり前かもしれないけれど、つむぎの声は五年経った今でも変わっていない。私はつむぎの透き通るような、優しさで溢れているような声が大好きだった。もちろん今も変わらず、そんなつむぎの声が好き。

 けれど、私を事実で残酷に突き刺していくその声が、今はむしろ聞きたくないと思う。


「そう、だよね」


 突き刺された事実が私の頭の中で嫌でも反芻する。


 つむぎは私のことを、覚えていない。


 つむぎと私が仲良くなったきっかけも。


 つむぎがいろんな香りのシャンプーを迷走して使っていたのも。


 あの日、二人で天体観測しに行ったことも。


 全部、全部、全部。


「忘れて、しまったんだ」


 私はずっと忘れられなかったのに。


 喉が勝手に震える。好きな人に会えたのに苦しくて、うまく息ができない。目頭が熱く、熱くなる。


 悔しいし、やるせないし、悲しいし、さみしいし、辛い。


「星空さん……」


 つむぎの、消え入りそうなか弱い声が聞こえてくる。


「すーー」

「はぁーー……」


 それでも。


 私は涙を引っ込めるように大きく息を吸って、大きく息を吐いた。


 かなりショックで、心臓がずきずきと痛む。けれど、絶望しきったわけではない。


 それはきっと。


「つむぎ」

「! はい」


 私は改めてつむぎのことをきっと見る。

 目の前にいるのは私の初恋の人で、私がずっと好きだった人で、かけがえのない人。星波つむぎに変わりはない。

 たとえ記憶がなくても、私のことも、二人で過ごした日々を少しも覚えていなかったとしても、つむぎにまた出会えたことはやっぱりとてつもなく嬉しいことで幸せなことだと思う。


「ごめんね、取り乱して」


 それに、後で自分で調べたり、つむぎに聞いたりしようと思っているけれど、記憶を取り戻す可能性が全くないなんていうこともないはずだ。


 だからこそ、私はつむぎのことをもっと知らなくてはならない。


 どうして記憶を失ってしまったのか、そして、そのときのこと。いなくなっていた五年間のこと。そして、今のこと。


 私のことだってもう一度、つむぎに知ってほしい。


「……ごめんなさい」


 つむぎはずっとうつむいたままで、小さく私に謝った。


「あやまってほしいわけじゃないんだ。辛いのは、辛かったのはなによりつむぎの方だし……だからもう、あやまらないで?」


 私はつむぎの少し小さな手に自分の手を重ねる。夢とは違って、今度はしっかり感触や体温が伝わってくるし、つむぎの表情もよく見える。


 つむぎは確かに私のそばにいる。


「その代わり、私に教えてほしい。つむぎのこと、いっぱい」

「星空さん……」


 つむぎと視線がぶつかる。目が合うと、心臓がうるさくなるのを感じる。苦しくて、温かい。


 やっぱり私はつむぎのことがすごく、すごく好きなままだ。


 四回も冬が終わって春になっても、溶けないほど強く。


「星空さん、わたし――」

「はい。えー、いったんそこで議論を止めてください」


 つむぎが何か口にしたところで、准教授は議論を止めさせ、スライドを映したプロジェクターを指した。つむぎは「あっ」と気まずそうに声を出して、口に手を当てている。


「は?」


 勝手に声が出た。おそらく人生で一番不満と嫌悪の混じった「は?」が出た。きっとこの後の人生で更新されることはない気がする。

 私は准教授をにらみつける。准教授は当然気づいていない。


 今のはいくらなんでも間が悪すぎる。いくらなんでも。あまりにも。講義中は流石に話せないから、これだとつむぎの話を聞くことができない。


 最悪だ。


 私は准教授のことを呪う。とりあえず、今月の給料が下がっていてほしい。


「つむぎ、あとで時間ある?」


 私が小声でつむぎに聞くと、つむぎはふるふると首を横に振った。


「すみま……、……あ……義が……ます」


 准教授の声であまり聞こえなかったけれど、つむぎは「すみません、この後講義があります」と言ったと思う。つむぎの小声が准教授のマイクに乗った無駄に大きい声でかき消されたという事実も、余計に私を苛立たせる。


 もっと給料が下がっていればいいと思う。


「このあとの休憩時間だけでもいいから、つむぎと話したい」


 つむぎはそれを聞くと、新しいルーズリーフを取り出して、何か書き始めた。


〈次の講義の講義室がここから遠いです〉

「……そっか」


 私の二限の講義室はこの講義室と同じ棟にあるのに、つむぎはどうやら違う棟らしい。学部は同じで、私は次の二限も必修なのに、つむぎは何の講義を履修しているのだろう。


「はっ」


 だからか。

 

 つむぎと私は学部が同じ法学部だったのに、これまで会わなかった理由。学科が違ったのか。私は政治学科で、つむぎはおそらく法律学科だ。

 法学部共通の科目はこれまで、この講義以外で学籍番号での座席指定がなされていなかった。これなら確かに、つむぎと今まで会うことはないかもしれない。


 私はそのルーズリーフをつむぎから受け取って、つむぎへのメッセージを書いていく。


〈じゃあ本当に一瞬でいいから講義室残って〉

〈連絡先欲しい〉

〈なんならここに書く〉


 書いてつむぎにルーズリーフを渡す。するとつむぎは少し書くのをためらってから、ゆっくり書き始めた。


〈私〉

〈機械おんちで教えてもらわないと交換できないです〉

「えっ」


 つむぎのほうを見る。うつむいたつむぎの頬は少しだけ赤くなっていた。


 すごく可愛い。


「……」

「……」


 ……じゃなくて。


 この大学の構内は無駄に広くて、講義によっては休憩時間の十分歩きっぱなしでもぎりぎりなときがある。今日はとりあえず連絡先を交換するので精一杯だ。


〈とりあえずこのあと連絡先だけ交換しよう〉

〈わかりました!〉

〈おねがいします〉


 私はつむぎからルーズリーフを受け取る。つむぎの字は、相変わらず綺麗だった。



 講義が終わり、准教授も片付けをしていなくなったところで、つむぎの携帯に私の連絡先を入れることに成功した。 

 アプリには初めから両親っぽい人以外の「ともだち」とのトーク履歴はなかった。恋人や好きな人がいる可能性はこれでかなり低くなった。


 安堵と同時に、心配にもなる。


 それ以外のアプリは携帯に初めから入っているアプリ以外、ほとんどインストールされていなかった。アプリも機械音痴でインストールできないのだろうか。履修登録や学内メールをどうしているのかも気になる。


 まあ、これからは私がいくらでも教えるけれど。


「よし、できたよ」

「あ、ありがとうございます……!」

「改めてよろしくね。つむぎ」

「はい! 星空さん」

「私のことは……瀬梨香って呼んでほしいな」


 前みたいに。


「え、ええ、と……」


 つむぎは分かりやすくうろたえた。


「あ、呼びにくかったら無理はしなくていいよ、そのうち呼んでくれればいいから」

「は、はい」


 つむぎは小さく頷いた。


「じゃあそろそろ二限始まっちゃうから、行こっか。ありがとね私のために残ってくれて」

「あ、あのっ!」

「うん?」


 不意に、私の少し後ろにいたつむぎに呼び止められる。振り返るとつむぎと一瞬目が合ったけれど、つむぎは目を逸らしてしまった。つむぎはスカートをぎゅっと握りしめている。


「どうしたの? つむぎ」

「さっき、聞こうと思ってたことなんですけど、私、ほ……星空さんのこと何も知らなくて……」

「うん。それは私も同じで、私も今のつむぎのこと、何も知らない」


 そう、私はつむぎといなかった五年間のこと、つむぎは私のこと全て。私たちは私たちのことを何もかも知らない。

 だからこそ私はつむぎのことを知る必要があるし、つむぎに私のことを知ってもらう必要がある。


「だからその、これだけは聞いておきたくて……」

「星空さんは私の記憶が無くなる前、私とどれくらい仲が良かったんですか?」

「お友だち……だったのでしょうか」

「っ――」


 とも、だち……?


「ほ、星空さん?」

「ううん、友だちじゃなかったよ」


「――恋人だったんだ。つむぎの」




星たちの出会い おわり

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