第4話

 この人が星波つむぎだと名乗ってしまえば私はあっさり信じてしまうに違いない、とさっきの私は思った。それは嘘だった。


 信じられるはずがない。


 目の前にいる、星波つむぎと名乗る人はきょとんとしている。それもそのはずだった。


 彼女からしてみれば、自己紹介をしただけで目の前の人がここまで動揺しているのだから。


「あっ、もしかして体調、悪いんですか?」


「えっ! あっ、い、いや、そういうわけじゃ……」


 今度は私がたどたどしく、目も合わせられなくなった。彼女は心配の表情を滲ませている。


 変な汗が止まらなくて、心臓が熱くて、うるさい。


 落ち着け、落ち着け。


 確かにつむぎに似すぎているし、この大学も私とつむぎの地元から遠く離れたところに位置している。だから、もし生きているのなら、つむぎの引っ越し先次第ではこの人が文字通り夢にまで見た、私がずっと、ずっともう一度会いたいと願った人――星波つむぎである可能性が高い。


 でも、腑に落ちないところがある。


 まず、あれだけ私と仲が良かったつむぎが私のことを覚えていないはずがない。

 私はあれから背が少し伸びたくらいで、髪型も、見た目も五年で認識できなくなるほど変わっていないと思う。つむぎなら後ろを通ろうとしたときにつむぎが振り向いた時点できっと私だと分かるはず。それどころか、「星空瀬梨香」にまるで初めて聞いたかのような反応を見せていた。

 それに、つむぎは人懐っこい性格だったし、コミュニケーションも得意な方だった。


 この子は、外見がつむぎにあまりにも似ていて、名前も同じだけという、同姓同名のそっくりさんの可能性がある。


 汗が引いて、心臓がだんだん落ち着いていく。


 私は彼女のこと――のことを、もっと知る必要がある。


「ほ、ほんとにだいじょうぶですか……?」

「ごめんごめん大丈夫……。ねえ、つむ……星波さん。議論するまえにいろいろ聞いてもいい?」

「あ、はい」


 私はあえてこの人がつむぎだとしていろいろ聞いてみることにした。


 背理法。高校数学の1Aだった気がする。


 とりあえず星波さんをつむぎと仮定し、その仮定に矛盾があることを示して、星波さんがつむぎじゃないことを証明する。そっちの方が……つむぎのことの方が私も知っていることが多いし、話しやすい。


 ……命題の証明ほど単純にはいかないと思うけれど。


「星波さんは一人暮らししてる?」

「え……? あ、はい。大学の近くに」


 星波さんは不思議そうに首を傾げた。唐突にこんな質問をされたら疑問に思うのも無理はない。


「そうなんだ。私も一人暮らししてるんだよね。出身はここの近く?」

「いえ、北海道です。中学三年生の冬にここの近くに引っ越してきたと聞いてます!」

「ええ、え、ええ!?」


 全く同じだ。

 出身が北海道というのも、中学三年生の冬、つまり五年前の冬に引っ越したというのも、つむぎと。


 あまりにも一致しすぎていて星波さんは正真正銘つむぎじゃないかと思う。もしそうなら一限なんて切ってしまって、今すぐどこかに連れ出してしまいたい。


 でも、星波さんにはやっぱりまだ引っかかるところがある。


 引っ越してきたとだなんて、まるで――。


「あの、もしかして私の知り合いの方でしたか……?」

「え、あ、うん。私も地元が北海道で、しかも星波さんと中学校が同じだったんだよね」


 もっと言うと、クラスも同じで席も近くて、親友で……。


 そんなことをつけ足そうかなと思った矢先に、星波さんは私の言葉を聞いて丸い目をもっと丸くしたあと、ばつが悪そうに目を逸らした。


「そ、そんなぁ……どうしよう」

「……え?」


 星波さんはうつむいて、机の下でスカートをぎゅうっと握りしめている。


「どうしたの、ほしなみさ」

「ごめんなさいっ!」

「わっ」


 星波さんは突然机におでこがぶつかってしまいそうなほど深く頭を下げた。綺麗に整えられた金色の前髪が机にぺたりとくっついている。


 何に謝っているのか、私には全く分からない。


「ええっ、どうしたの? 急に謝ったりして。星波さんは何も――」

「……私、記憶がないんです。五年前までの」


「…………え?」


 記憶がない。


 頭の中で、その言葉が反芻する。

 その事実は腑に落ちないところも、私の引っかかりもいとも簡単に無くしてしまった。

 そしてまた、新しいことが分かる。


 目の前の子は間違いなく私の初恋の相手、星波つむぎだ。


 今、私の証明は失敗に終わってしまった。


 でも、天文学的な奇跡で再会できて嬉しいとか、好きだとか、そんな感情になるよりもむしろ、がらがらと何かが崩れていったような気がした。


 五年前までの記憶がない。


 それがどういうことか、何を意味しているのか、分かるけれど分かりたくない。


「だからごめんなさい」


 つむぎは私の意思とは全く逆に、分かりきったことで私にとどめを刺す。


「私、星空さんのことを何も覚えていないの」


 確かに私の初恋の相手は、まるで流れ星のように私の前に突如として現れた。


 ただし、砕けて流れ星になる前は、自分がどんな星だったのかも忘れて。

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