第2話

某日





父と母と妹、それから、僕。両親の休日に、皆で旅行に出かけた。

国内の誰もが知っているテーマパークに行った。

皆で被り物を買って、いろんなアトラクションを楽しむ。

朝早くから並んで、閉園まで遊びつくした。

閉園のアナウンスが鳴って、母が「もう帰りましょう」という。

両親の間で、妹が「楽しかった」と満面の笑みを浮かべる。

それを聞いて、父が「また来年も来ようか」と返した。


僕は、「まだ帰りたくない」といった。けれど、その声は家族には全然届かなくて、僕は置いていかれてしまう。父と母と妹は笑顔で、僕を置いて行ってしまうんだ。

段々と、三人と僕の間に深く、底の見えない溝ができて、そして皆帰ってこなくなった。





……――――ピコン。


「……?」


――――ピコン。


――――ピコン。



目を覚ますと、そこには見覚えのない天井が広がっていた。

「夢……か」

僕はベッドに寝かされていたようだ。辺りには白い机に白い椅子、僕の足側にはスライド式の扉が一つ見えた。それから薄型のモニターがある。どうやら周期的に音を鳴らしながら、何かを計測しているようだ。机の上には透明のビニールが吊り下げられ、そこから伸びた細い管を視線でなぞっていくと、僕の腕へとつながっていることが分かった。

「病院……?」

殆ど白いもので統一されていて、僕はベッドに寝かされている。しかも、体中管だらけだ。ここが病室でないとしたら、何かの実験室にしか見えない。

何故、こんな所にいるのだろうか。


何となく、僕はこのままここにいるのはまずいのではないかと思い始めた。だから、僕はすぐにでもベッドを抜け出さなければならないと考えた。そして、別途から勢いよく跳び出――――

ガタン。


僕は気付くと床に転がっていた。

「あれ?」

思わず、そんな声が出た。僕は今、確かにベッドから降りようと腕に力を入れ、足を床の方に放り出して着地しようとした。しかし、僕は天地逆転して頭が床にくっつき、足は天を向いている。

体に力が入らなかったのだ。現に今も、起き上がろうとしても自分で体勢を変えることすらままならない。一体、僕の体はどうなってしまったというのか。

僕がひっくり返った状態で腕を組んで思案していると、突然、スライド式の扉が勢いよく開け放たれた。



「誰だ!!」

扉の奥から現れた男はそう声を荒げて、僕に拳銃を向けている。

「あ、ど、どうも……ハハ……」

僕はガチガチの硬い笑顔で挨拶するしかできなかった。拳銃を向けられていたし、殺されてしまうと思った。

部屋に入ってきたその男は恰幅がよく、ぴちぴちに張った青いチェックのシャツ、黒いスラックスを身に纏い、その上には白衣を羽織っている。頭は禿げ上がっているが、顎髭がまるでもみの木のように茂っている。赤い眼鏡の奥の目は細くて、目を開けているかどうかもわからない。

「目が覚めた……のか」

その白衣の男はない目を丸くして、そう呟いた。そして、向けていた銃を腰辺りまで下ろし、ベッドのそばの机の上に置いた。それから、彼は眉間にしわが寄ってしまうほど目を細くして、僕の頭からつま先までをまじまじと眺めた。

「おはよう、よく頑張ったね」

そう言って、彼は僕の両肩を掴んだ。その両手は大きく、まるで熊みたいで、僕の肩はつぶされてしまいそうだったが、その手はとても優しく、温かく、包み込んでくれた。

「あの、え」

男の小さな目の奥で、じんわりと涙が溢れ出してくるのが見えた。そして、彼は僕を抱きしめながらオイオイと泣き出した。

僕には何故この人が泣いているのか、よく分からなかった。



彼の鼻が真っ赤になるほど涙を流した後、彼は一度深呼吸をして、改めて僕の方を向いた。

「自己紹介がまだだったね。初めまして。私は久我原(くがはら)。皆には『博士』って呼ばれることが多いかな。君の名前は?」

久我原、そう名乗った彼は顎にたくわえた髭をいじりながらそう言った。

「景介です」

 僕が答えると、いい名前だ、と言って彼はまた笑った。それから、お茶を持ってくるね、と言って博士はそのまま部屋を出た。


数秒、無機質な機械音だけが響く部屋を見回した。この部屋にある機械のどれもが、僕のための医療器具であることはどうやら間違いないようだった。


やがて、再び博士は戻ってきた。その両手には銀のトレーに載せられた緑色のマグカップと、水色の茶碗。

「すまないね。私は一人暮らしだからマグカップも一つしかなくて」

そう言って彼は茶碗を僕に差し出した。茶碗の中にはお茶がなみなみ注がれている。

「まあほら、お『茶』碗っていうくらいだし、変じゃないよ!多分」

ちょっとバツの悪そうな顔をして、博士はマグカップに口をつけた。僕もそれを見て、どうも。とだけ返した。茶碗に入ったお茶を飲むのは、なんだかおかしな気分だった。


「ある夜のことだ。君は道の真ん中で倒れていた。トラックに轢かれたみたいな酷いケガだった」

しばらく無言で茶碗に口をつけていると、博士は突然口を開いた。彼の糸みたいな目じりはちょっと下がって、悲しそうに見える。

「とても尋常ではない量の出血だったし、僕自身、仕事柄人体の構造には知識があったから、君をここに連れ帰ってきて一先ず治療することにしたんだ。ただ君の場合は……容態が容態だったから、その、少し時間がかかってしまってね」

彼は少し視線を落とした。まるで、取り調べで罪を告白するみたいにしていた。僕はそんな彼を不思議に思いながら、

「そうだったんですね。お世話になってしまって、すみません」

と言って、頭を下げた。それを見た彼は目を丸くして、頭と両手をぶんぶん振った。

「いやいやとんでもない!何も気にすることはないよ」

ところで、と彼は話題を切り替えた。彼が聞きたいのは当然、何故僕が大けがをした状態で倒れていたのか、その経緯だ。たしかに恩人の彼は話を聞く権利がある。

「君は本当に酷いケガでね、もうろうとした意識の中で、『恵美』と、念仏のように繰り返し呟いていたんだよ」


『恵美』――――。

――――そして唐突に、すべてを思い出した。


赤い海に沈む変わり果てた父と母の姿を、暗闇に現れた二人のローブの人影を、その肩に担がれた妹の恵美の姿を、僕は全部思い出した。写真をぶちまけて水に流したみたいに、あの夜のシーンがいくつもいくつも、ごちゃ混ぜになってフラッシュバックする。噎せ返るような血の匂いが、赤黒く染まったリビングが、折られた腕、殴られた腹の痛みが、一気に情報の土石流になって脳に流されてくる。

「うっ……!」

激しい頭痛と吐き気に襲われ、僕はうずくまった。博士が僕の隣に座って、背中をさすってくれる。

「すまない。嫌なことを思い出させたようだね。もっと慎重になるべきだった」

また目じりと眉を下げて、博士は謝った。

僕は頭痛と吐き気が弱まったところで、あの夜のことを話し始めた。父と母の死、ローブの人物からの暴力、攫われた恵美、這いつくばることしかできなかった、無力な自分。そのすべてを話し終えるまで、博士は同情するような、悲しそうな顔をしていたが、みるみるうちにその表情は怒りの色へと染まっていく。

「大変だったね」

膝の上の拳をふるふると震わせて、博士はそう言った。

「そんな酷いこと……いったい誰が」

「わかりません。ただああいつらの顔は……まるでロボットみたいでした。青い横一線の光と、赤い三つの光が特徴的でした」

 そう言いながら僕は指で自分の顔を指さす。

「――――なんだって」

 零れ落ちるみたいに博士の口から出たその一言。僕にはその言葉のさす意味が分からなかった。

「ほかに、ほかに何かないか。何か言ったり……」

 およそ、質問とは思えない聞き方だった。何かを恐れて、できることならその質問の答えを聞きたくないかのような。

「何か……。そう。そうだ、あいつらは自分たちのことを『天使』と呼んでた・……『カミサマ』の思し召しとかなんとか……」

そう聞くや否や口をぽかん、と開けたまま彼は静止してしまった。それから、下唇がふるふると震えだして、僕に縋りつくようにしゃがみこんだ。その大きな背中は小さく震えていた。

僕にはなぜ彼がここまで震えているのか見当もつかなかったが、なんだかとても可哀想に見えてしまって、僕はまた、彼が落ち着くまで待つことにした。


 その後、落ち着きを取り戻した博士とベッドに二人座りなおした。

「『カミサマ』っていうのは聞いたことがあるね?2050年に開発された国家運用型人工知能『運命の歯車システム』の俗称だ」

 先に口を開いたのは博士だった。その表情は硬い。

「はい。学校で習いました。演算能力だけなら世界一の人工知能だって」

「そう。実質世界一の人工知能なんだ、『カミサマ』は。それが十二年後の二〇六七年のことだよ。突然暴走した。世界一の頭脳を持つ存在が、自我を持ったんだ」

 その後行われた施策について、難しくて理解できない部分も多かったが僕にも分かるように博士は何度もかみ砕きながら説明してくれた。

「それで、その話は何の関係があるんですか?」

「つまりね、君のご両親の仇、そして妹さんをさらった連中は……この国の中枢なんだよ」

「え」

「君の話してくれた特徴や所業は、まさにその連中と合致するんだ」

 つまり、国を動かすほどの人工知能、ソレに僕の親は殺され、妹は攫われた。結論はこういうことになる。言っている意味は理解できる。だが、平凡な父と母がなぜ標的になった?なぜ、妹が攫われた?その理由について、僕は勿論、久我原も知るところではない。

 何より、敵というにはあまりに強大すぎる。国を乗っ取った人工知能なんて。僕はうつむくことしかできなかった。

「奴らの目的はいまだ不明だ。人工知能が国を乗っ取って、その先に何を見出すのか。ただ……君のように理不尽なことがまかり通っていいはずがない」

 博士は唐突に、終わりの一言だけを、怒気を孕んだ声で言った。

 君は――――。そう言いかけて、博士は口をつぐんでしまう。少しだけ顔を覗き込んでみると、彼は何故だか、迷っているような、悲しんでいるような、憐れんでいるような、そんな顔をしていた。

そして彼は僕に問うた。


「君はどうしたい」


その問いには、これからどうするのか、どう生きるのか、そもそも生きていたいのか、そんな様々な意味が与えられているように思えた。

「もし君が望むなら、僕は君の保護者として、君が自立するまで面倒を見よう」

ありがたい申し出だった。親戚なんているのかさえ知らないし、何より、事情を知っているという点が大きい。ただ、それでも僕は「お願いします」ということができなかった。

「僕は」

そう呟いて、あの雨の夜のことを思い出す。いつもみていた父と母の笑顔と、血だまりに沈む二人の姿が交互にフラッシュバックする。

辛い記憶を心の奥底に閉じ込めて幸せに生きるか、両親の仇に復讐を誓うか。僕にとって、どちらが“僕らしく”在ることができるか。僕は決めかねた。

復讐なんてやめろ、亡くした人もそんなこと望まない、なんていつの日か見たドラマのセリフを思い出した。

 じゃあ、この怒りは、憎しみはどこにぶつければいい。大切なものを奪われた悲しみを、ただただ耐え続けて生き永らえろというのか。

「どのみち復讐しか……」

そう言いかけて、僕は留まった。あぁ、そうだ。復讐より前にやることがある。

「僕は、妹を――――恵美を取り戻したい。」

「え?」

「僕が家に帰った時、恵美は……担がれていた。父と母の遺体は打ち捨てられていたのに恵美は奴らが担いでいったんです。恵美は、きっとまだ生きている。まだ利用価値があるから」

恵美が生きている。理由はわからないが、まだ“生かされて”いる。これは、希望とすらいえない細くて脆い光明だ。しかし、僕に生きる活力を与えるには十分だった。

「妹を助けたい……だから、僕は生きなくちゃいけない。それで妹を助けられるだけの力が欲しい……!」

「道は決まったようだね」

博士の言葉に僕は静かにうなずいた。

「それならば、景介クン。僕は君に、全面的なバックアップをしよう。当面の生活は面倒を見るし、君の妹を助けるための力をつける場所も、用意するよ」

博士は自分の大きく張った胸を拳でたたいた。僕は慌てて、

「いやいや!そこまでしてもらうわけには」

 と、言ったが博士はずい、と近づいて

「子どもが何を言うんだ。いくら覚悟があったって、今の世の中のことを知らない君が、一人で妹を助け出すなんて無謀だ。何なら、君一人で生き抜くことすら至難の業だよ」

と言った。もっともだった。僕は苦笑して、

「じゃあ……よろしくお願いします」

と言った。

博士はまた、目を細くして笑った。



「あの」

僕はふと疑問に思った。博士の言葉の節々にあった、引っ掛かり。

「ん?」

「ところで僕はどのくらい眠ってたのでしょうか。三日、一週間とか……?」

博士の言葉から察するに、それなりの時間、僕は昏睡状態とやらに陥っていたことが窺える。

「あー……」

僕を見て、彼は言い出しにくそうに視線を泳がせた。

「あれ、もっとですか?二週間とか……まさか、一か月も!?」

博士に寄って問うと、博士は小さく首を横に振った。そして、本当にばつの悪そうな顔で、


「三年」


と言った。




◇◇◇



麻生景介はそこまで話し終えると、私に向き直った。

「久我原博士に出会わなければ、僕はおそらく死んでいたことでしょう」

私には、何も言葉にすることができなかった。

今目の前で微笑を浮かべて話している、幼き少年。その背後に広がる、触れれば吸い込まれてしまうような深い闇。どうして今、彼は笑んでいられるのか。

私が同じ年の頃、同じような目に遭ったとして、果たして正気を保っていられるだろうか、いや、とうに自害してもおかしくないだろう。

強い子だ、私は月並みながら彼を見つめ、そう考えた。




「眉間」

動と静が水面下で混ざり合うような沈黙の後、彼はそう発した。

「え」

「しわが寄ってますよ、癖なんですか?」

彼はそう言って、自らの眉間を指で二回叩く。我に返って、私は反射的に自分の眉間をさすった。

「あ、あぁすまない。妻にもよく言われる。考え込むと眉間を寄せてしまうらしい」

私がそう答えると、彼は口元を手で押さえてクスッと笑った。

「そうなんですね。いえ、博士も同じ癖があったので」

笑ってしまったことを恥じた彼だが、そんな彼はどこか懐かしげにそう言った。


「しかし、その博士、いったいなぜそこまで協力的なんだ?こう言ってはなんだが、君に協力することは、国家に刃向かうようなもの。リスクが高すぎるように思えるが」

 少し、不快に思えるかもしれない疑問だったが、私の投げた疑問に対する答えを勿体つけるように、不敵な笑みを浮かべて言う。


「それじゃあ、話を続けますね」



◇◇◇



 それから、僕は博士の家で居候することになった。博士は何でもやってくれようとしたけれど、何分、生活力というものが皆無であった。綺麗にされていたのは、僕が寝ていた病室(のような部屋)だけで、それ以外は……筆舌に尽くしがたい。

しかし、彼は本当に人の好い人だ。面倒見がいいというべきか。兎にも角にも、本当にたくさんのことをやろうとしてくれる。僕が寝ていた病室もどきを、一日で僕専用の部屋に模様替えしてくれたり、一日外出していたかと思えば、山のような書籍を買ってきて、僕の為に学習環境まで整えてくれた(初日には、年齢感覚が掴めなかったのか、絵本まで買ってきた)。

当初は、三年間も眠りについていたこともあって体を動かすことすら苦労していた。

それでも、一か月が経つ頃には、僕自身、施しを受けてばかりの身にむず痒さを感じて、

「家事、僕やります」

と提案した。

最初のうち博士は、犬みたいに顔をぶんぶん振って断っていたが、「やります」と強めに言っていたら、

「そこまでいうなら、お願いしようかな」

と、少し困ったように笑って、許してくれた。

それからは、家事の中心を僕がやって、博士は住む場所と僕の生活の支援、それから暖かさをくれる。そんな生活が続いた。



 二〇七〇年 十二月



それまで見えていた景色が、すべて白いヴェールを纏う季節になった。家の中にいても、窓際はやはり体が震える。

僕は、淡い橙色の光を放っている最新の暖房器具の前に手を当てて、暖を取っていた。

もう日も高い時間ではあるが、最高気温、氷点下一度は伊達じゃない、僕は朝の天気予報を思い出してそんなことを思った。

今、博士は自室に籠って、また何かやっているみたいだ。


思えば、不思議な話であった。

彼――――久我原 誠司(くがはら せいじ)は余りに僕に協力的過ぎる。

人間は目の前で人が転べば、そしてその場に自分しかいなければ、恐らく大抵の場合、声をかけるだろう。

しかし、明らかな犯罪、自分に害が及ぶ可能性があるとすれば話は別だ。誰だって我が身は可愛い。助けたいという気持ちはあれど、余計な首を突っ込むような真似はまずしない。

僕のような境遇は普通の人ならまず、関知しない。最低限のサポートをしたら、「さぁ、出て行ってくれ(どうか私の知らない土地へ)」というようなことを、かなりオブラートに包んでぐるぐる巻きにして差し出してくる筈だ。僕自身、それを覚悟さえしていた。

自分ではもう充分色々支援してもらったし、最低限の生活スキルは身についたと思ったので、「さぁ、追い出されるのはいつだ」と、いつでも出ていける準備を整えていた。

しかし、三か月経った今でも、僕はこうして博士の家にいる。

家事を終えると、博士からもらった本を読んでいるか、運動をするか、こうしてボーっとしているか。最近の僕はもっぱらこんな感じで一日を過ごしていた。

焦りもあったのだと思う。恵美が生きている、というのは可能性の話であって確定ではないし、あの頃は利用価値があっただけ、かもしれない。ともかく、何も進んでいない現状を脱したかった。

 だから僕は博士が自室を出て、一緒に昼食をとった後、彼に話を持ち掛けた。



「え、で、で、出ていく!?」

今日付けで家を出ようと思う旨を告げると、博士はその恰幅の良い体でドタバタしながら慌てだした。

予想のまったく反対の反応だった。

「どうして!今日!?何か不満があったのかい?ご飯!?確かに僕は普段、ファストフードばかり食べてるからあまり得意じゃないけど……」

「あ、いえ、ご飯は最近僕が作ってますし」

「じゃあ……そうか!最近君は一人で色々できるようになっちゃったから家事を任せきりにしてしまったことかい!?すまない、思いのほか飲み込みの良かった君につい甘えてしまったね……」

「いえ、僕が言い出したことですし。割と好きなので」

「えぇ……」

と、彼はまた、頭を抱えて部屋をうろうろし始めた。

「あ、じゃああれだね!?僕のいびきだ!今まで一人暮らしだったから気にする必要なかったけど、もっと君に気を配るべきだったね……ごめんよ」

「あぁ、それは確かにしんどいです。寝室別なのに」

「ええ!?」

「~~~っじゃなくて!沢山お世話になったので、そろそろ家を出ようと思っただけです!」

 ずっとあっちこっち動き回っていた博士は、僕の大声でやっと静かになり、そして僕を見た。

「じゃあ、特に不満は……?」

「……ないですよ。いびきは直してください」

「よかった」

彼はそう言って、ふーっ、と息を吐きながら、近くの椅子に深く腰掛けた。

「でも、どうして急にそんなことを?」

博士は、本当に純粋に、思い当たる節がないようだった。

「どうして、って……僕がずっとここにいたら、博士にもそのうち危険が及ぶかもしれないじゃないですか。僕がこれから戦おうとしている相手は、一つの国家だって、博士が言ったんですよ。だから」

「だから、出ていこうと?」

続く言葉を博士に紡がれ、僕は小さく頷いた。

「そうか」

 一言だけ、博士はそう言うと口を真一文字に結んだ。そして部屋には澱んだ重たい空気が流れた。


「僕はね」

博士が口を開く。両手を組んで、背中を丸めて椅子に座っている。

「最初に約束したろう。全面的なバックアップをするって。まだ、やってないことがある」

日が暮れたら、ちょっと出かけようか、そう言って彼は自室に籠ってしまった。


「……」


博士が閉じてしまった彼の自室の扉をひとしきり眺めると、僕も自室に戻って、ベッドに仰向けに倒れこんだ。

博士を傷つけてしまった、とか、もっと言い方を考えればよかった、とか、これからどうやって恵美を探そうか、とか。そんなことを考えていた。

それから、僕は心地よい微睡みにうつらうつらとして、やがて、淡い夢の中へと沈んでいった。



◇◇◇



準備の済んだ僕は、玄関で博士が来るのを待っていた。近頃は本当によく冷えるので、黒いダウンジャケットを羽織った。ちょっともこもこで動きづらいけれど。

昼間、食後に昼寝をしてしまったせいだろうか、何だか頭が重たい。


「お待たせ」

博士は外に出る格好としては僕と差異がないにも関わらず、なぜかいつもの数倍、球体に近づいて見えた。

「ちょっと動きづらいんだよね」

博士が僕の視線に気づいてそう言う。

僕はたまらなくおかしなって、吹き出した。そして、それを見た博士もつられて笑った。


ひとしきり二人で笑った後、じゃあいこうか、と博士がその顔に先ほどの余韻を感じさせて言う。僕は頷き、博士に続いて外に出る。

暮れた夕日が地平線から少しだけ顔を覗かせ、遠くからこちらまで、茜色から青、黒とだんだんと移ろう空。日中降っていた雪は止んだようだが、まだ道路脇には入道雲みたいな雪が積もっていた。

博士と僕は、博士の自家用電動車に乗って、家を出た。

電動車の静かな駆動音に耳を傾けながら、僕は窓の外を眺める。

家々は、窓から暖色の明かりが漏れ、その淡い明かりは次々と僕らの後方へ過ぎ去ってしまう。

断続的に車内に光が入ってきて、明るくなったり暗くなったりしている。

どこにいくのかは勿論気になるが、聞かなかった。これから向かうのに聞いても仕方がないと思ったからだ。




そうして、昇り始めた月から逃げ隠れるようにして、僕らは夜の道を進む。

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カミサマ @eat_cream_puff

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