第1話
二〇六七年 一〇月 ○△小学校・校庭
「景ちゃん!」
空高く上がったサッカーボールは、太陽と重なりそうで、一瞬目がくらむのを感じた。それでも僕は怯む必要などなく、ボールが落ちてくるところへ脚を合わせるだけでよかった。
よし、上手くいく。『アイツ』から受けたパスなら、僕が外すことは絶対ない、その自信があった。
パシュルル……
「ゴーォォル!!」
ボールはきれいな弧を描いて、ゴールの右上へと吸い込まれた。
「やったな、景ちゃん!」
バシッ。と、僕の背中は勢い良く叩かれた。叩いた当人は、僕が痛がるのも見ずに、何度も笑いながら叩いている。
「痛いってば」
「おう、ワリぃ!」
浅黒い肌に明るい茶色の瞳、活発そうな印象を受ける黒髪の持ち主、三笠 入真(みかさ いるま)は、僕の一番の友達だ。親友、と言ってもいいかもしれない。
明朗快活、天真爛漫。そんな言葉が似合うこの少年は、われらが六年三組のリーダー的存在だ。勉強もできるし、運動神経も抜群、男女問わず人気があって、誰にでも分け隔てなく接するから大人たちからの評価もとても高い。
「でもな、お前とこの喜びを分かち合いたいんだ!」
こんな恥ずかしいこと言えちゃうのも、こいつの人の良さの表れだ。
「わかったけど、お前と勝利とを喜び合いたい奴はたくさんいるんだぞ?」
「え?」
気づくと、僕たち二人の背後からクラスメイトの男子たちが一斉にとびかかっていた。
もみくちゃになった僕たちだけど、一人残らず、その顔は笑顔だった。
今日は小学校生活最後のスポーツ大会。この行事の目玉であるサッカーの部の最終戦は僕たち六年三組の勝利で幕を下ろした。と同時に、僕たちはスポーツ大会の総合優勝が決まった。
やがて閉会式が終わり、各々自分の教室に戻ると担任の話を聞いて、解散した。
「なあ、今から入真たちと校庭で遊ぶんだけど、景介はどう?」
帰り支度をしているところに、クラスメイトが声をかけた。「いいね、すぐに行く」と二つ返事で答え、ランドセルに無理やり体操服などを押し込み、教室を飛び出る。
「お兄ちゃん」
廊下を出たところでそう呼び止められて、振り返る。
「あ、恵美か」
麻生 恵美(あそう えみ)は僕の妹だ。僕と同じ髪色をツインテールにしている。まだ一年生ということもあって、今日着ている体操服はひどくダボついている。ランドセルに体操服という組み合わせは、今日みたいな行事ならではの光景だ。
「お兄ちゃんは帰らないの?」
恵美がランドセルのベルト部分を掴みながら首をかしげる。
「うん、今日はみんなで遊んでから帰るよ」
「え!恵美も遊びたい!」
「僕の友達だよ?恵美、いてもつまんないと思うけど」
ぶっきらぼうにそう返すと、恵美は頬袋をめいっぱい膨らませた。
「お兄ちゃんのけち」
「しょうがないだろ、歳が違うんだから」
僕は早く校庭に行きたかったので、ちらちら廊下の奥の方を見た。
「んー。わかった。じゃあ、ママたちにも言っておくから。あまり遅く帰っちゃだめだよ」
恵美はそう言って、僕より先に昇降口に向かって走っていた。
「お母さんみたいなこと言うなよ」
そう呟いて、僕も昇降口へと向かう。
この日の僕らは、総当たり戦だったスポーツ大会で嫌というほど試合をやった。だから、今すぐにでもお風呂に入ってご飯を食べて布団に直行したかったはずなのに、結局僕たちは一七時のチャイムが鳴るまで校庭で遊びまわっていた。思うに、子どもの体力は楽しいことであればあるほど、無限大なんだと思う。
夕暮れは予報外れの大雨だった。いつも見る茜色の空は少しも顔をのぞかせることはなくて、なんだか僕の気分まで下がってしまうような重たい灰色の空だった。
「また明日ー!」
いつも遊ぶ友達たちと、十字路で別れ、帰り道を駆ける。靴の中は砂利と雨水でぐちやぐちゃで、体操服も肌にピッタリくっつくほど濡れていたけれど、お構いなしに走った。父と母に、少しでも早く今日のことを話したかったのだ。僕はちょっとだけにやけたり、スキップしたりしながら父と母が話を聞いてどんな風に言ってくれるか、想像して帰った。
そして、僕の家の門にたどり着いたところで、僕は気付いた。
――――明かりがついていない。
母は専業主婦、父も在宅の仕事をしているから、二人はいつも家にいる。その上、今日は恵美が先に帰ったから、家に誰もいないなんてことはあり得ない。
「買い物……?でも、連絡は入ってなかった」
僕は再度、首から下げている小さな連絡用のデバイスを確認する。やっぱり通知は入ってない。うちは家族で一人一台ずつ持っているから、出かけているとするならば、連絡がないのはおかしい。
門をくぐろうとしたところで、もう一つ異変を見つけた。
普通の家には大抵、指紋認証や虹彩認証などのセキュリティシステムを使っているところが多い。マンションやアパートみたいな場所にも、最低でもパスワード式のロックがかかるようになっている。僕の家にも、虹彩認証、つまり目の部分が鍵になっているロックがかけられているので、たった今僕はそのロックを解除して中に入ろうとした。けれど、そのシステムがあった門の壁に拳大の穴が開いている。
――――嫌な予感がした。
いや、予感であってほしかっただけで、殆ど確信に近かったのだと思う。僕はランドセルをその場に投げ捨てるように走り出し、門を越え、玄関の扉を開け、靴も脱がずにリビングへと飛び込んだ。
そこには、電灯を交換する父と、それを手伝う母、そしてそれを見ている妹の姿がある。肩で息をしながら飛び込んできた僕を見て、目を丸くする三人。そう、何かしらが原因で電源がショートして、玄関のセキュリティが壊れ、家全体が停電になっていただけだった。
全身びしょ濡れの上、土足で家に上がった僕を見て、母が叱りつける。
――――なんだ、よかった。僕の勘違いだった――――
僕はホッと胸をなでおろして、母の説教を聞く。
――――そんな『勘違い』、だったら、よかったのに。
最初に気づいたのは、足に、雨とは違う生暖かい液体が触れたこと。靴下に染み込んで、肌に触れたそれは、少しドロッとしていて気持ちが悪い。そして、ツンと生臭さを感じて、僕はとっさに鼻を腕で覆った。それからその先、そのどす黒い液体の道の先を、ゆっくりと目で辿った。
――――違う。
同じような色の液体が、壁にも、椅子や机、テレビなんかにも飛び散っている。机の上には今日の夕食だっただろうクリームシチューが皿ごとひっくり返されて、机の端まで広がり、端から零れて滴り落ちる。落ちたシチューは、やがて黒い液体と混ざって不気味に変色する。
――――違う。
僕の目は、部屋中に飛び散っている夥しい量の得体のしれない液体をゆっくり、ゆっくりと辿る。いつの間にか、心の声が口に出ていることにも気づかずに。
――――違う。
――――違う。
「違う、違う……」
しかし、その否定には何の意味もない。その光景を目の当たりにしたとき、体の中心から外へと大きく一回跳ねるのを、僕は感じた。
部屋の奥の壁で、もたれるように倒れこむ男女が二人。二人の胴体には、握り拳ぐらいの風穴が一つずつ開いている。黒い液体は全部、そこから流れたようだ。――――父と母が、血溜まりに沈んでいた。
僕の鼓動は段々と、打つ速さが上がってゆく。落ち着きたいのに落ち着かなくて、喉の奥に何かいるみたいに息苦しくなる。全身の穴という穴が開いて汗がじっとり出ているのが分かる。口をパクパクさせても、叫び声も上げられない。
「父さっ……母、さっ……!」
やっとの思いで出した声は掠れてしまっていて、殆ど言葉に聞こえなかった。血だまりに滑って思い切り転んでしまいながらも、赤黒い海に沈む変わり果てた父と母を抱きかかえる。肌は土色に染まり、目は見開き、どれだけ揺さぶっても少しも動かない。
なぜ。何が。どうして。誰が。頭の中は疑問で埋め尽くされて、今にも破裂しそうだった。頭が痛むし、息苦しさは加速度的に上がる。
「うぁ……あっ……あぁぁぁああぁぁぁああ――――ッッ」
「おい」
突然耳に入った声に、刹那、僕は静止した。そして半ば反射的に声のする方を振り返った。
そこには、フード付きのローブを纏った人影が二つ。声の主は大柄で、身長一八〇センチメートルは優に有りそうだった。
「こんなのまで消す必要あるのか?まだガキじゃねえか」
大柄の人物はそう言って、背後の小柄な人物のほうを見る。小柄な人物は体のシルエットが一切見えないことから、痩身であることがうかがえる。
「指示は絶対だ」
小柄な人物はゆったりとした声でそう言う。
「お前ら……何なんだ……」
二人の人物は会話をピタリとやめ、同時にこちらを向いた。小柄な人物はふぅ、と小さくため息をついて、半ば呆れたような声色で答えた。
「私たちが何であるかを説明することに意味はあるのかね?これから君も死ぬというのに」
その言葉に続けて、小柄な人物は指を鳴らす。同時に、いや、それよりも早かったかもしれない。僕の視界から大柄な人物が消えた。
「強いて名を告げるなら、私たちは『カミサマ』の御名のもと――――その手足となる『天使』、といったところかな」
大柄な人物が消えて、また視界に捉えた瞬間、視界が揺らぎ、気づけば僕は後ろの壁に背中から叩きつけられていた。
「ごっっ!アぁ……!?」
腹部がじんわりと熱を帯び、覆い被さるように鈍い痛みがする。続いて、腹の奥から異物感が喉にまでこみ上げ、その場に思いっきり吐瀉物をまき散らした。口の中は鉄の味と吐瀉物の味で入り混じる。嘔吐なのか、吐血なのかもはや判断がつかない。痛みより吐き気が強い。何をされたか理解するのに数秒を要するほど、大柄な人物のスピードは速かった。僕は吐くものなんて腹の中に少しも残ってないのに、血と一緒に何度もえずいた。
「運が悪かったな、小僧」
大柄な人物は僕から一歩離れた。そこに間髪入れず、小柄な人物が大柄な人物を叱責する。
「一発で仕留めきらぬとは、遊ぶのも大概にしろ!」
その言葉を皮切りに、二人はまた会話を始める。しかし、今度は二人とも声を荒げている。ただ、僕にはその内容はよく入ってこなかった。理解が追い付かないのと、留まるところを知らない吐き気のせいだ。
しかし、そんな体でも分かることはある。この二人が両親に危害を加えたことだ。そして、暗い部屋に目が慣れず、はじめは気付かなかったが、小柄な人物の肩に、見覚えのあるものがある。
うちの小学校の体操服を着た小柄な人物の肩に子供が担がれているのだ。その体格と、何より右のポケットに刺繍された「あそう」の文字は見覚えがあって当然だった。
恵美だ。
そう理解するやいなや、床にぶちまけた吐瀉物を掴むように立ち上がり、小柄な人物に向かって飛び掛かった。
「恵美ィぃぃいいいいいいい!!」
――――時間にして一秒もない一瞬の出来事ではあった。
手を伸ばせば届く距離。
届けッ、届けッッ、どうか届いてくれ!
そう願いながら、僕はただ、自身の手を腕が痛むほど伸ばした。
しかしその手が、願いが、届くことはなかった。
小柄な人物のフードの影の奥で、不気味に赤く灯る三つの光源。瞬間、それは赤い閃光となって、僕の右側へと逸れてしまった。僕の手は空を掴んで、次の瞬間には、後頭部の衝撃とともに床に叩きつけられてしまっていた。
「ぐあ!?」
後頭部に激痛が走る。視界がブレて、よく見えない。思考もまとまらず、また吐き気を覚えた。震えながら力の入らない腕で起き上がろうとする。
「クソッ。どーも感じ悪いぜ、これ」
「おい。きちんととどめを刺せ」
そう言われた大柄な人物はまた一度、ため息をついて振り返った。
「嫌だね、こんなガキ殺しても寝覚めが悪ィ。それに、この血の量だ。放っといても死ぬさ」
大柄の人物は頭の後ろに手を組んで、ぶっきらぼうにそう言った。
チッ、と舌打ちして、小柄な人物は僕を一瞥する。もう、赤い光源は灯ってはいない。
「これは命令だ。しっかりトドメをさしてから来い。私は先に外に出る」
小柄な人物はそう言うと、ローブを翻して足早に玄関へと向かった。
「なあにが命令だよ。もう少し遊んだっていいだろうに」
「……妹……恵美……をッッ……返せ……!」
残った大柄な人物は既に虫の息の僕を見下ろす。
「麻生景介、か」
僕のこめかみを踏みつけて、足を押し付ける。
悔しさと怒りと、気持ち悪さと痛みとでごった返した感情が涙となって零れて伝う。
「何……で、何でこんな……?」
この期に及んでまだそんなことを言うんだな、お前は。大柄な人物はそう言いたげにため息をつくと、こめかみから足を離し――――僕の右腕を踏み抜いた。
「ぐ、あがぁぁぁぁああああ!!」
激痛が僕の右腕を走り抜け脳天まで達する。右腕はベキベキと音を立てて、もう出ないと思っていた叫び声が、僕の喉を突き破るように飛び出した。
痛い、痛い、痛い痛い痛い。右腕は不気味な紫色に変わり、ひじの骨が突き出して変な方向に曲がっている。
床をひとしきり転げまわり、絶叫してもう声も出なくなったところで、大柄な人物は話し始めた。
「いつまでそうしてるんだ?妹が行っちまうぞ?助けたいんじゃなかったのか?」
僕は腕がジンジンするのを何とか歯を食いしばって我慢していた。僕に質問に答える余裕はなかった。
「だんまりか」
ゴキッ!
「~~~~~~~~~~~~~ッッ!!」
絶叫。もう、声にならない声を上げた。僕の喉はとうに壊れていた。大柄な人物によって潰された左腕は右腕同様、おかしな方向に曲がって、関節がもう一つ増えたみたいに見える。
「おいおい、あと2本しか折れないんだから大事にしろよ」
殺虫剤をかけられた羽虫のように、壊れた喉で絶叫しながらまた僕はのたうち回った。彼の言う「あと2本」とは両足のことを指しているのだろうが、先ほど床にたたきつけられた際に、もうどちらも力が入らなくなっていた。
「わかってねぇ……理解し(わかっ)てねぇな、お前」
深呼吸にも似た大きなため息をついて、大柄な人物は僕の髪を掴み、持ち上げた。
大柄な人物のフードの影から青い横一線の光が灯っている。よく見ると、そこには目も、口も鼻もなく、黒っぽい仮面みたいだった。
「なんで、なんて詰まりもしねえセリフ吐くなよ、なぁ?そんなもん知ってどうする」
失望のような、焚きつけるような、不思議な言い回しだった。
「知って納得出来たら潔く死ねるのか?違うな。理由は何であれ俺たちはお前の家族を奪った。その事実は何も変わらない。なら、お前がするべきことは理由を聞いてさっさとおっ死んじまうことじゃなく、今出ていったあのジジイを、ふらつこうが追いかけ、足が捥げようが追いかけ、腕がちぎれようが掴みかかり、お前の妹を助けることじゃないのか?」
もはや意識などとうに途絶えていたのかもしれない。ただ、何もできなかった自分が憎い。何の力もなかった自分が憎い。こいつと、あいつが両親に手をかけ、妹を連れ去ったことが憎い。
「なぁ。このまま地面に這い蹲って、惨めに、一人で死んで、それで終わりか?」
大柄な人物は、やれやれ、とでも言わんばかりに首を振る。
「くそ……ッッ、クソぉ…・…!!殺してやる……お前、ら……一人残らず、殺してやる……!」
満身創痍の体で僕はようやく、そう吐いた。埃のように吹けば飛ぶような、か細い声で。
それを聞いた大柄な人物は顔が見えないはずなのに、なぜだか笑ったような気がした。
「お前が、くたばらなかったらな」
大柄の人物はそう言って、僕をリビングの窓から投げ捨てた。飛ばされた先は、庭だ。母が毎日朝早く起きて水をやり、剪定していた植物がたくさん生えた庭。恐らくもう、同じように手入れされることは二度とない。
庭の土は泥濘んで、雨のにおいが染み込んでいる。雨粒が落ちるたびに泥が撥ねて、僕の体を汚していく。僕は口に入った泥を吐き捨てて、立ち上がろうと腕に力を入れるが、瞬間、僕の体内に通った電源がショートしたみたいに、その場に倒れこんでしまった。
「ちったあ詰まる存在になったら、また遊んでやるよ」
大柄な人物はそう言うと、玄関の方へと歩き出し、やがて僕からは見えなくなった。
◇◇◇
辺りはすっかり暗くなり、各家々からの明かりがぽつぽつと見える程度だ。雨は弱まるどころか、先刻麻生宅に入る前よりも強くなっているように感じる。
麻生宅の門の前に、黒い車が一つ、停まっている。人工知能が搭載された政府専用の電動自動車だ。ただ、基本的にこれを使うのは政府の職員などで、自分たちのような存在が使うことはめったにない。
「何をしていた、天空寺」
後部座席から小柄な人物が顔を出す。顔といっても、赤く光った三つの目がある、仮面だ。
天空寺(てんくうじ)、そう呼ばれた大柄な人物は、両手をくい、と上げてみせた。
「何でもいいじゃねえか。それよか、本名で呼び合うな、って話じゃなかったか?」
「ふん。それにしても、貴様はいつにもまして雑な仕事だったな」
へいへい、雑ですみませんね、と天空寺は言う。そして、頭の後ろで指を組んで、怠そうにした。
それを横目に、小柄な人物は助手席の背面部に設置されたポケットに入ったタブレット端末を操作する。そこには『報告』の文字が表示されている。
「私はこれから『カミサマ』のお膝元へと向かうが、貴様はどうする」
「俺?いいや、報告は任せた」
「ふん。あまり妙なことをするなよ。今日はニホン国の歴史に残る大切な日……いよいよ、我々が表舞台に立つ、その記念すべき日だ」
小柄な男はそう言うと、窓を閉め、電動車を走らせる。そして、一緒に乗せられた恵美とともに、夜の闇の中へと溶けてしまった。
一人残った男は小柄な人物が消えていった方に目をやる。
「『神の友人』だか何だか知らねぇが……お前の方こそ、何企んでんだか」
クックック、と含み笑いのような小さな声を上げて、彼は今度、麻生宅の方に目(と呼んでいいか些か判断に困る青いそれ)を向ける。
「種は蒔いた。水もやった。――――よく芽吹けよ、小僧」
◇◇◇
どれくらいの時間が経ったのか。力が入らない全身に雨を受けながら、僕の頭の中はあいつらの言ったことが何度も何度も巡り廻った。
父と母を失った。
妹が攫われた。
全身に広がる痛み、今なお感じる恐怖や悲しみ、悔しさが僕に現実をぶつけてくる。このまま、死ねたらきっと気は楽だ。四肢は動かそうとするたびに痛んで使い物にならないし、仮に再びあいつらと相対したところで、怖くて立ち向かえやしない。
やがて、知らない何かが語り掛けてくるような気がした。
『諦めろ』
――――うるさい。
『諦めろ、麻生景介』
――――なんで、恵美が。
『麻生景介、お前は弱い』
――――黙れ。
『お前が弱いから、父と母は死んだ』
――――違う。
『お前は勝てない、負けるとわかっているから』
――――……違う。
『お前の弱さが、お前の妹を奪った』
――――違、わない。
容赦なく打ちつける雨が僕の無力さを物語る。耳障りな雨音を追い払うように腕を振ってみても、何も変わらない。
泥と血と吐瀉物に塗れたこの体はきっともう、永くない。
なぜ、父と母は殺されたのか。
なぜ、妹は攫われたのか。
僕には分からない。僕は、何も知らない。
それは弱いからだ。心も、体も。
僕にはすべてが足りない。すべて足りないから、すべてを奪われた。
――――強くなりたい。父と母の死の謎を知るため、父と母の敵を討つため、何より、妹を、恵美を救うために。
「恵美を……返せよ……」
僕はゆっくりと立ち上がった。まだ全身は大きく震え、痛みで体の内側から裂けてしまいそうに感じるが、今はもう、叫んだりはしない。
笑う膝を押さえながら、汚れた体を一歩ずつ一歩ずつ、前へ進める。
門を越えると、僕は右と左とを見渡した。当てがあるわけではない。それでも、前に進まずにはいられなかった。
体は重い。一歩進むだけで、悲鳴を上げてしまいそうだ。いつ、一歩を踏み出したまま倒れてしまうかわからない。それでも、もう僕は歩むのを止めない。
先ほどまでとは打って変わって、雨は何だかやわらかくなった気がした。何故かは分からなかったが、不思議と気分は悪くなかった。雨に濡れているのは変わらないけれど。
――――恵美を助ける。絶対に。
やがて、僕の意識は途絶えた。
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