第41話 闇 3
胃が痛い。
見えない誰かの手が私の胃を握りつぶしているんじゃと思うくらいの痛み。
痛みの原因は分かっている、罪悪感からだ。
教室の一番前の席の結城くんの背中が見えるたびに、私の胃は握りつぶされ、悲鳴を上げる。
我慢する。
痛みが増していく、酷くなっていく。
それでも我慢する。痛い素振りを見せたら周りの人に心配をかけてしまうから。
耐えようとするけど、耐えられない。
罪の意識から逃げるためか、それとも痛みから逃げるためかは、自分でも分からないけど、私は結城くんの背中から無理やり目を逸らした。
だけど逃げられない運命みたいだった。
お昼休み、結城くんが教室からいなくなり、胃痛からちょっとだけ解放されていた時に、不意に恵美ちゃんが、
「屋上ってさ、いいのかな?」
避けたい話題なのに、結城くんのことを。
気持ち良い場所だった。だけどそれは屋上がじゃなくて、結城くんと一緒にいることが。
でも、そのことは言えない。
だから、黙っている。
「あたしも行ってみたいな」
「……どうして?」
避けたい事柄のはずなのに、つい訊いてしまう。胃の痛みに耐えながら。
「たまに独りになりたい時とかあるんだよね」
「……そうなんだ」
いつも大勢の人間の中心にいるような彼女でもそんなことを思うんだ。少しだけ新鮮な驚きだ。
「例えばさ、こないだの部活の団体のメンバーに選ばれなかった時とか……平気なフリをしたけど、本当はすごく悔しかったんだ」
知らなかった。そんな風に思っていたなんて全然気が付かなかった。
考えてみれば、それは当然なのかもしれない。恵美ちゃんよりもはるかに下手な私がメンバーに選ばれているんだから。
「……ごめんなさい」
「へっ? なんで湊ちゃんが謝るの?」
「……えっと……その……」
「ああ、まだ自分が選ばれたことを卑下してるんだ。もっと自信を持っていいからさ。上手くなったし、それに手足が長くて、左利きという武器もあるんだし」
「……けど……」
もしそうじゃなかったら、私なんか選ばれるはずがない。そこには恵美ちゃんが入るはずだ。
「まあでも、もしあたしが湊ちゃんくらいに身長があったらって妄想はするけどね。でもさ、無いものねだりをしてもしょうがないし。湊ちゃんのことを羨ましがってもね」
「羨ましい?」
私の境遇のどこに羨ましい要素があるのだろうか。
「だってさ、レギュラーにはなるし、彼氏もいるし、それに小さな弟の優しいお姉さんで、青春を謳歌してるって感じだし」
恵美ちゃんには私が、そんな風に見えていたんだ。
けど、そんなことはない。
団体戦のメンバーに選ばれたのは私の実力なんかじゃない、たまたま左利きということ、それに無駄に高い身長のおかげだ。
それに、彼氏がいるといっても、未だに先輩のことが好きなのかどうか分からない。それなのに無理強いを……したくもないことをしている。
セックスをしている。
これが、幸せなことなのだろうか。
結城くんが教室へと戻ってくる。
私一人だけではなく、一人の男の子も巻き込んでしまった。
さっきよりも強く、キリキリと胃が痛み出す。
航
トイレから戻ると、教室内に楽しそうな声が。
その中に藤堂さんも。
けど、藤堂さんの声は全然楽しそうに聞こえない。俺の杞憂なのかもしれないけど、まるで周りの人間に無理やり合わせて笑っているような気が。
俺一人が停学になってことを気にしてくれているのだろうか? それとも別の理由があって本心から笑えないのだろうか?
判らない。
紙芝居の上演の時や、屋上で見せてくれたような笑顔じゃない理由を知りたい。
しかしもう、屋上では話せない。
ならば、今度紙芝居を観に来た時にはお腹の底から笑えるような、楽しいものを上演しよう。藤堂さんには笑顔になってもらおう。
よし、決めた。
あっ、紙芝居で思い出してしまった。本当ならこのまま記憶の片隅に仕舞ったままにしておきたかったけど。課題の多さで忙殺されてしまっていたけど、ヤスコからの催促がなかったからすっかりと忘れていたけど、俺は紙芝居を創らなければいけなかったんだ。
ああ、でも、何も言ってこないということは、きっと言い出したヤスコ自身も忘れてしまっているはず。それなら、このまま無かったことにしてしまおう。
湊
朝、起きたくないのに勝手に目が覚めてしまう。このままベッドの中で寝ていたいけど、そうもいかない。学校に行かなくちゃいけない。行くのが学生の本分だし、学費を出してもらっている身、それに両親に心配をかけてしまう。でも、本当は行きたくない。重たい体を無理やりベッドの上から引き下ろして制服に着替える。朝御飯を食べずに自転車に乗って最寄り駅、通学で使用する駅まで。力が出ない。出ない理由は分かっている。行きたくないという気持ちと、朝御飯を食べていないから。食べないといけないことは十分に理解しているけど、体が受け付けない。駅で恵美ちゃんと待ち合わせる。恵美ちゃんはいつも元気だ。私もそれに無理して合わせる。じゃないと、彼女に心配をかけてしまう。教室に入る、授業が始まる。結城くんの背中が目に映る。痛い、見えない誰かの手で、もしかしたらそれは結城くんの手かもしれない、私のお腹の中を、胃を、腸を、子宮を握りつぶしているかのように。鈍い重たい痛みが私の中に。痛みに耐えかねてか、それとも罪悪感から逃げるためか、自分でも分からないけど、視線を机の上に落とす。結城くんの背中を見ないようにする。でも、痛みは私の内から消え去ってはくれない。鈍い、重たい痛みを発したままだ。放課後になる。結城くんの背中が私の視界からなくなる。と、痛みも消えていく。安堵すると同時に、罪の意識がより強くなっていく、私一人だけが停学の処分を免れたという事実。このまま家に帰りたい、布団の中に直行して現実から逃避するように眠りたい。もし、眠れなければクマのマスコットの力を借りて。でも、そうはいかない。部活がある。私は団体戦のメンバーに選ばれたんだから、ちゃんと練習に参加しないと。ただでさえまだ下手なのに、他の人の足を引っ張りたくない。必死になって練習する。指導してくれる先生や先輩から何度も何度もきつい指導の声が飛ぶ。折れてしまいそうになるけど踏ん張って受け止める。この叱咤の声は私に期待してくれているからかけられるもの。それに応えないと。望んでここにいるわけじゃないけど。本音を言えば、あまりしたくないけど。もっと楽しくノンビリとバドミントンをしていたい。けど、しないと。このポジションにいたいと思っているのに選ばれなかった恵美ちゃんの分まで。長く感じたけど、実際には二時間ほどの練習が終わる。だけどまだ、家には帰れない。いつものように先輩が待っている。私は先輩の彼女、付き合っている。疲れた体で部活の皆と別れて先輩の家に。先輩の部屋で裸になる、抱かれる。こんなことはしたくない。でも、しないと先輩は怒ってしまう。そうなると、どんな目にあうのか。だから、我慢する、耐える、先輩が満足するまで堪える。経験を重ねれば、性行為の嫌悪感は消えるかもしれないと思っていた。私自身も少しは気持ちよくなるかもしれないという期待もあった。けど、全然気持ちよくなんかならない。辛さが増してくばかり。行きとは違い、帰りの電車は一人。寂しい、孤独だ。ようやく家に帰り着く。信くんが待ち構えている、本を読んでほしいとねだってくる。疲れているから部屋に戻りたい、それよりも先にシャワーを浴びてまだ肌に残っている嫌な感触を一刻も早く落としたい、消し去りたい。けれど私はお姉ちゃんだ。幼い弟は大切にしないと、大事にしないと。夕ご飯の準備で忙しいお母さんを助けないと。仕事で遅いお父さんを除いて三人でテーブルを囲む。胃は受け付けないけど無理やり押し込む。食べないとお母さんに余計な心配をかけてしまう。やっと、自分の部屋に戻れる、安心できる場所に帰ってきた。けど、安心なんかできなかった。また明日も同じことがあると思うと憂鬱な気分に、落ち込んでくる。
机の上に大切に飾ってあるお守り代わりのクマのマスコットをギュッと握りしめる。勇気を、力をもらうために。
どうしてこんな目にあっているんだろう?
他人の目から見れば、羨ましがられる立場のはず。
それなのにちっとも幸せになんか思えない。その反対に不幸と感じてしまう。
本心から望んだことができないからだろうか? けど、周りの人からすれば恵まれた環境にいるはず。
これ以上を望むのは罰当たりなのだろうか。
分からない。
きっと明日も、明後日も、その次の日も、これから先もずっと同じ。
けど、我慢しないと。
私は彼女だから、私は後輩だから、私は友達だから、私はお姉ちゃんだから……。
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