第37話 停学期間 4


   みなと


 生理現象には勝てなかった。

 夕飯を食べた後、また落ち込んでしまった私は再び自室へと引きこもった。

 このまま何もしたくなかった。ずっと寝たままでいたかった。

 だけれども、体が排泄を要求してくる。

 何もする気はないのだから、そのままベッドの上でしてしまえば、垂れ流してしまえばいい。けれど、私の中にかろうじてあった理性がそれを制止する。

 何もする気はなくても、そんなことは恥ずかしいという感情はまだ残っている。

 それでも行くのが億劫ということには変わりない。だから、我慢していた。

 けれど、我慢はいつか限界を向かえる。

 とうとう耐え切れなくなってしまう。今まで全然ベッドから下りたくなかったのに、自室から出たくなかったのに、飛び出していく。

 トイレに飛び込み、用を足す。

 さっきの速さとは間逆な重い足取りで階段を上る。二階がすごく遠く感じる。

「湊ちゃん起きたの。どう? 具合は」

 リビングからお母さんが出てきて言う。階段を下りる時ドタバタとうるさかったのだろう。

 けど、あれ? 昨日、信くんとショッピングセンターに紙芝居を観に行くようなことを言っていたような気がするけど。正確な時間は分からないけど、もうお昼になっているはずなのに。

 それよりもお母さんの質問に答えないと。けど、返事を返す気力はない。だから、首を横に小さく振る。元気なんか湧いてこないよ。

「何か食べる?」

 食べる気なんかおきてこない。そもそも食欲なんかない。

「寝ていて、元気になれそう?」

 多分、このまま部屋に戻ってまたベッドの上に寝転んでも元気になんかなれない。その反対に明日のことを考えてしまい、余計に憂鬱になると思う。

 黙ったままで首を横に振る。

「それじゃ、湊ちゃんが元気になれる魔法をかけて上げようか」

 お母さんは私に笑いかけるように言う。

 けど、魔法って何だろう?

 考えている間に私はお母さんに引っ張られてリビングへ。イスに座らされる。

 私を一人残してお母さんは出て行く。何か準備をすると言っていたような気もするけど。

 待っている間にまた考える。魔法って一体? でも、全然思い浮かばない。ほんのちょっとの時間しか考えごとをしてないのに疲れてしまう。

 考えごとを止めて時計を見る。

 やっぱりお昼を過ぎている。よかったのかな、信くんと紙芝居を観に行かなくて。

 あんなに信くんは楽しみにしていたのに。それをもしかしたら私が奪ってしまったのかもしれない。罪悪感が押し寄せてくる。

 そういえば信くんの姿が見えない。どこに行ったのだろう。結城くんの紙芝居が観られなくなって、拗ねてしまい隠れてしまったんじゃ。

 聞かないと。そうは思うけど、口が動かない、声が出ない。丸一日話しをしていないだけで、こんなにも人の体は劣化してしまうんだ。

 なんとか声を出さないと。結城くんに教えてもらった口の運動をしてみる。

 お母さんが戻って来る頃には、なんとか口が動くようになった。でも、声は小さな音しか出ない。それでも訊いてみる。

「……今日は……信くんと……ゆっ……紙芝居を観に行くんじゃなかったの?」

 もし、私のせいで行けなくなってのだったら申し訳ない。あんなに楽しみにしていたのに。

「今日はね、お父さんに行ってもらったの。休日出勤の翌日で悪いけどね。偶には男同士の付き合いもしてもらわないと。それでこっちは女同士でね」

 ウインクをしながらお母さんが言う。

 元気がない、落ち込んでいる私を気にかけてくれているんだ。

 申し訳ないような気持ちの中に、ちょっとだけうれしさが。

 お母さんが持ってきたのはメイク道具一式だった。

「はい、そこに座って。鏡を見てじっとしていてよ」

 そういった後、お母さんが小声で何かを言う。それはまるで魔法の呪文を唱えているかのようだった。

「それ何の呪文?」

 どこかで聞いたことがあるような気がするけど思い出せない。小さな頃の微かな記憶。おそらく、その当時見ていたアニメか何かのだろうか。

「憶えていないの?」

 全然憶えていない。

「これ、湊ちゃんがちっちゃい時に自分で作った魔法の呪文よ」

 そんなの全然憶えてなんかいない。それにしても……。

「……よく、憶えたね。私そんなこと全然憶えていないのに」

「そりゃ、憶えるわよ。間違えると怒るんだから。それに何回も言わされたんだから」

 何度も言うようだけど、本当に全然憶えていない。

「小さい頃は大人の真似をしたがってメイク道具を勝手にいじっていたのよ。それで自分では上手くいかないから私にしろって。それでその時にかわいくなれるようにって、魔法の呪文を唱えてくださいって言ってたのよ」

 そんなことを言っていたのかな。ああ、そうだ。言われたから少しだけ思い出した。幼稚園くらいの時には大人に憧れていた。

あの頃はお化粧をすれば、大人になれるって思っていた。

 でももう少し大きくなると、今度は大人にはなりたくないと思い始めた。

「それじゃ、そろそろ始めるわよ」

 脳内の回想にストップをかけたのはお母さんの声。

 テーブルの上には私を映す鏡。そこには昨日よりも一層酷い、暗い顔。 

 こんな酷い顔にいくらメイクを施しても良くなんかならない。

 せっかくだけど、無駄な行為になってしまいそうだ。

 好意に応えられそうにない。また。落ち込んでいくような感覚になる。

「その前に、まずは洗顔してこようか」

 そういえば起きてから顔を洗っていない。お母さんの言うことに従う。リビングを出て脱衣所の洗面台へ。そこの鏡に映る私はさっきよりも酷くなっているように感じた。

「……やっぱり、いいよ」

 メイクをしてもらっても無駄なはず。貴重なお母さんの時間を潰してしまう、迷惑になるはず。

 断る。また、自分の部屋に戻ってベッドの上で横になっているつもり。

「いいから、ほら座って」

 手を引っ張られてまたイスの上に。お母さんは手馴れた仕種で私の前髪を上げて髪留めで止める。コットンに化粧水を含ませて私の酷い顔に、乳液をつけ、それからベースメイクを。

 そういえば二ヶ月ほど前にも同じことをしてもらった。あの時は恥ずかしかったけど、すごく楽しみでもあった。それが今は……。

 視線が、顔が勝手に下へと落ちていく。

「ほら、顔を上げて。女の子はね、みんな魔法が使えるのよ。お化粧をするだけで気分は上がるし、いつもとは違う自分になれるの」

 テキパキと手を動かしながらお母さんが言う。

 私の青白い顔の上に次々と色が重ねられていく。

「本当はお化粧なんて高校を卒業してからでもいいのよね。十代の時はそんなことしなくても肌は十分きれいだし」

 目の下の大きな隈もファンデーションで瞬く間に塗りつぶされていく。

頬にチークを。痩せて貧相に映っていたのが、少しだけふっくらしているように見える。

「せっかくだから、眉もちょっと手入れしてみようか」

 太い私の眉毛に刃が入れられる。抜くとその後生えにくくなるそうだから、ハサミで。

 自分の顔のはずなのに、自分の顔じゃないみたい。

「最後はこれね」

 そう言って紫色の生気のない私の唇に紅を塗る。

「はい、できあがり。どう、少しは元気になれたかな」

 貧相で青白く酷かった顔に明るい色が宿る。

 ほんの少し、本当に少しだけど心の中も明るくなったような気が。

「良かった。笑ってくれて。それじゃ、今度はメイクを落とそうか」

 せっかく明るい気分になれそうだったのに、落としてしまうなんて。

「そんな顔をしなくても大丈夫よ」

 無意識に顔に出てしまっていたんだろうか。お母さんに指摘される。

「一度落としたら、今度は湊ちゃんの手でやってみなさい。練習」

 自分でやってみる。お母さんは何も言わない。だから、思い出しながら恐る恐る。さっきまでの鏡の中の私とは程遠いものだった。書いた眉は左右で長さも高さも違う、ファンデーションもむらがあるし、チークも変。きわめつけは口紅。そこだけが異様に目立ってしまいすごく変。

「まあ最初はこんなものよね。それじゃ、それはさっさと落としてもう一度やり直し」

 今度はお母さんがアドバイスをくれる。さっきよりも大分と上手くできたけど、まだまだ下手だ。

 だけど、きれいになっていくのは楽しい。嫌なことを忘れられる。

「もう慣れたみたいね。それじゃ練習は終わり」

 もう少ししていたかったな。自分の部屋に戻ればまた気分が落ちこんでしまうかもしれない。

「湊ちゃん着替えようか。二人でお出かけよ」

 楽しい時間が終わったから落胆していた。そんな私にお母さんが、また声を。

 心配をかけているな。早く元気にならないと。

 だけど、せっかくきれいになれたのに、これを落としてしまうのはもったいないような気が。

「お化粧はそのままでいいからね」

「……えっ?」

「お化粧したままで出かけるの。人に見られるのもきれいになれる秘訣だから」

 そうは言っても、このまま外に出るのは恥ずかしい。人に見られるのは恥ずかしい。

 尻込みをしてしまう。

「女の子はみんな魔法使いなんだけど。それが進化すると天使にも悪魔にも、それから魔女にだってなれるんだから。そのためには人前に出ないと」

 そう言って半ば強引に家から連れ出さられる。

 まずは最寄りの駅へ、それから電車に乗って隣県の大きな都市へ。車内ではずっと他の乗客に見られているようで、ずっと緊張していた。体が強張り、頬も引きつっているような。

「そんなに固くならなくても大丈夫だから。みんな湊ちゃんがきれいだから見ているのよ」

 そうは言っても。

 電車の中でも見られているのは恥ずかしかったのに、駅に着き電車から降りるとより多くの人が街を歩いている。

 行き交う人のうち何人かが振り返り私を見ている。ああ、お母さんは褒めてくれたけど、やっぱり変なんだ。 

 ただでさえ猫背気味なのに、余計に曲っていく。それから顔を見られないように下を向く。

「ほらほら、そんなに丸まらない。背筋を伸ばす。背が高くてモデルみたいだから、みんな湊ちゃんを見るのよ。だから、自信をもって」

 背中を軽く叩かれる。背筋を伸ばされる。

 通り過ぎて行く人の声が耳に入る。その声は私をけなしてはいない。むしろ褒めているような気が。

 メイクをして良かった、来て良かったと思える。そう思うと、久しく感じていない喜びが。

 お母さんがかけてくれた魔法は、すごい効果があった。


 その後、買い物で私のメイク道具一式を買ってもらう。少しだけもったいないような気もしたけど、だけどすごくうれしい。

 それからお母さんと二人でご飯を食べて帰る。

 いつの間にかお腹がすごく減っていた。昨日の夜の煮麺以外何も口にしていないのだから当然なのかもしれない。

 美味しかった。それから楽しかった。

 そんな気分のままで眠りについた。

 久し振りにグッスリ眠れたような気がした。


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