第17話 秘密の場所 4


   こう


 思い出したくもない、忌まわしい記憶。

 あんな記憶は一刻も早く脳内から除去したほうが精神衛生上好ましいと判っているのに、全然消えてはくれない。

 それどころか日ごとに脳内で色濃くなっていく。

 思い出すな。

 そう思っているのに、勝手に脳内であの時の嫌な記憶が再生されていく。

 さっきまでのちょっとだけ幸せな気分が一瞬で瓦解し、代わりに嫌な感覚が全身に広がっていく。

 ヒーローショーの後の一回目の上演は藤堂さんが言う通り最上のできだった。大勢集まってくれたお客さんを満足させるだけの紙芝居ができたという手ごたえと自負があった。

 その時俺の中で生まれた自信は、後に大きな落とし穴へと。

 あれはショーとショーの合間だったから成功したんだ。

 俺には人を楽しませる術なんか持ち合わせていない。

 その証拠が二回目の上演だった。

 一回目の上演が上々だったので前田さんに急遽二回目の上演を打診された。成功に味を占めてしまった、慢心してしまった俺はそれを承諾してしまう。

 これが間違いの素だった。この時断ってさえいれば。もしくはヤスコ達に連絡して相談をしていれば。

 もしかしたら、あんなことにはならなかったのかもしれない。

 二度目のヒーローショーの後、再び俺は紙芝居の上演を。

 けれど、二度目の上演は、最初の時とは状況が違った。

 俺の目の前にあるのは観客席として敷かれたブルーシートの青色だけ。

誰もいない。

 時間になればまた大勢の人が集まって、俺の紙芝居で楽しんでくれるはず。

 その時はまだそう思っていた。それなのに開始時間が近付いても人っ子一人いない。

 マイクを使って呼び込みの声を上げる。

 不安が声に乗ってしまう。

 変なのは声だけじゃなかった。

 最初の上演との時にはちゃんと感じていた足の裏の感覚がおかしい。不安定に。堅い床の上にいるはずなのに、ぐらつくような感じが。

 いつもの声が出せない。

 それでも無理をして声を出そうとすると、固く怖い音になってしまう。

 こんな声の呼び込みでは誰も寄ってこないのは道理。

 俺の目の前はブルーシートの青が広がっているだけだった。

 その青はまるで冬の海のよう。不安と恐怖という波が俺に襲い掛かってきた。

 開始の時間になる。けど、まだ誰もいない。

 なんとか人を集めないと。焦る気持ちが声をより一層酷いものにしていく。悪循環だった。

 五分経過、十分経過。早いのか、遅いのか、よく判らない時間経過。

 そんな俺の前にようやく待望の観客が。三四歳くらいの女の子と、そのお婆さん。

 ここで気持ちを変えることができていたら。もしくはこの年代の女の子に合わせた紙芝居を選んでいたら。

 そんな後悔をしても今更遅い。後の祭りだ。結果は、途中で帰ってしまった。

 その後も誰も来ない、観ようとしない。不安定な心と身体で立ち尽くしているだけ。

 ショッピングセンターの中から人が全員一斉に消えてしまったわけじゃない。現に俺の見える範囲にも大勢の買い物客が。

 でも誰も足を止めてはくれない、誰も紙芝居を観てはくれない。

 賑やかな音が俺を馬鹿にしているように嘲笑しているように聞こえてしまう。被害妄想に襲われた。

 ……怖かった。

 上演予定時間はまだあるはずなのに前田さんから終了の声が。

 せっかく追加の上演を依頼されたのに、あんなにも褒めてもらったのに、こんな無残な、情けない結果になってしまうなんて。

 考えなしにお願いした自分が悪い、それから時間帯が悪かった、前田さんはそう言って俺を慰めてくれたけど、多分違う。

これが俺の実力だ。

 最初の上演で受けたのはマグレ、ヒーローショーのおかげ。それなのに慢心し、天狗になってしまった。

 追い風の中帰路についたけど、ペダルがすごく重かった。

 ここで気持ちをリセットできていれば、紙芝居はまだ続けていただろう。

 だけど、翌日になっても嫌な感覚は俺の中に残ったまま。

 次の日になっても、誰も俺の話なんかしていないと判っているのに、嘲笑されているような錯覚に陥ってしまう。

 それから逃げるために屋上へと。

 だけど、静かな場所に逃げてきても、あの苦い記憶をずっと引きずったままだった。

 日曜日、通常の紙芝居。

 いつもの場所での上演なのに、いつもと違う場所のように感じてしまう。目の前に設置したベンチがすごく遠くにあるように見えてしまう。

 弱気に、不安になってしまう。

 また足元が安定しない、ぐらつく。

 変な、固い、怖い音になってしまう。

 これまで簡単に、それこそを息を吸うのと同じくらい、意識しなくても、当たり前にできていたことが、全然できなくなってしまう。

 ボロボロの紙芝居の上演に。

 俺はこれまでどうやって紙芝居を上演していたんだっけ? それよりどうやって声を出していたんだっけ?

 判らない

 判っているのは、こんな紙芝居を観ていても楽しくも面白くもないことだけ。

 事実、ベンチに座って観ていた子供達が次々と去っていく。

「まあ、こんなこともあるさ」と一緒に上演していた舞華さんに言われ、たまたま観に来ていた先生にも「調子の悪い時もあるから」とフォローされたが、ちっとも慰めにはならなかった。

 自己嫌悪に陥るばかり。

 それでもまだ少しでも浮上するようなきっかけでもあれば、こんなことにはならなかっただろう。

 翌週の紙芝居も酷い、いや最悪な上演になってしまった。

 誰も観てくれない。そんな状態でやる気なんか出てくくるわけがない。呼び込みの声がより酷い音になっていく。

 見事なまでの悪循環だった。

 その上ヤスコにやる気のなさを咎められてしまう。

 普段ならば、一応聞くのだが、反発してしまう。

 売り言葉に買い言葉でないが「そんなもの、ない」と言ってしまう。

「そう。アンタもうこれから紙芝居に来なくてもいいから。やる気のない人間が上演しても観ている側は楽しめないから」

 と、首を宣告されてしまう。

 だから、俺はもう二度と紙芝居の上演はしない。


 藤堂さんは俺がもう紙芝居をしないとヤスコから聞いたのだろう。

 その真偽を確かめるために、こうやって連日のように屋上へと足を運んでいたのだろう。

 何故ずっとそのことを口に出さなかったのかという疑問はあるが、多分仏頂面の俺が怖かったとかだろうが、とにかく来た理由は判明した。

 だったら、言わないと。

 そうじゃないとこれからも藤堂さんは屋上へ来るはず。

 それを迷惑とは感じないけど彼女にしたら……。

 だから、言わないと。

 本当は口になんか出したくない記憶だけど。


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