「首」— episode 9 —

 ハサンは歯噛みしていた。

 ラウは来なかった。

 部下達は皆、複雑な表情で俯いている。

 エアレは表に出ると、ハサンと目を合わせた。そしてゆっくりと頷く。ハサンはそれだけで悟った。エアレに対し小さく頷き返す。

 篝火の中、ハサンはあえて部隊を再編成した。

 明朝すぐに動き出す体で、いきり立つ部下達を待機させた。

 二日後、族長の屋形では総督の葬儀が控えている。ヌンツィアとルチアは女達に指示をだし、エアレもそこへ加わった。皆、準備に追われている。

 ハサンは焦っていた。

 なんとしても葬儀の前に、旗頭であるナーゴ族の立場を保っておかなければならない。

 空が白み始め、日が上りだした。高い樹木の隙間から、光が射し込んでくる。

 —— まだか……早く戻ってこい。

 その時だった。

 屋形の門の下から、階段を上がってくる足音。

 ラウの顔が見えた。皆立ち上がり、それを見て一斉に凍りついた。

 彼の身体が全身、血で染まっている。

 それが返り血なのか、彼自身の負傷によるものなのかわからないほどに。左手には血で濡れた短刀。そして右手には、血が滴り落ちる男の首—— 。

 金縛りにあったかのような皆の間を、ラウはゆっくりと歩いていく。

 祭壇の前で、その姿をルチアが見つめている。

 その目の前までやって来ると、右手にあるそれを彼女に向かって放り投げた。足元に男の首が転がった。ルチアはそれを見下ろし、じっと見つめている。

 そこへ屋形の中にいたヌンツィアが、表へと出てきた。

 彼女はその場の異常な空気と、皆の青ざめて引き攣った顔を見渡し、その視線の先にある物に目を移した。

 娘の足元に転がっている、血に塗れた肉塊。

 息子、ヤジートの首——。

 それを認めた母ヌンツィアはその場で気を失い、卒倒した。エアレが介抱するのをよそに、ルチアはその首を拾い上げた。まだ準備の終わっていない祭壇。その台の上に、彼女は兄の首を叩きつけるように置いた。正面には沢山の花が飾られ、その中央に棺桶があった。

 首のない……胴体だけの父の遺体。

 その前でルチアは腰から崩れ落ちた。

 誰しもが気が触れたとおもったほど、彼女は慟哭した。ラウはそれを横目に、血糊の付いた短刀を投げ捨てた。

 その様子を息をのんで見詰めていた村人。部下達。彼等の前までやってくると、ラウは大声で言い放った。

「皆の者、待たせてすまなかった。おれは次の総督でも、カリフでもない。ナーゴ族族長ラウだ。異存のある者はいるか?」

 少し離れた所から、ハサンは黙って見つめていた。

 誰も、なにも言わなかった。言えなかった。

 自分達が信頼を寄せていた目の前にいる男が、まるで樹海の古い伝説にでてくるヤマ(死の神)のようだったという。

 祭壇の下で顔を覆い震えているルチア。その後ろにラウは立つと、彼女を見下ろし言った。

「これでいいんだろう」

 氷のように冷たい声。そして目だった。

 ルチアはゆっくりと振り向き、ラウを見上げた。血の涙を流しながら、下からラウを睨みつけた。

“ いつか殺してやる”

 今にもそう言わんばかりの形相に、本当に気が触れてしまったとエアレが思ったほどである。

 ラウは血に染まった上衣を脱いだ。そして己で切り落とした……たった一人の友人の首に、そっとかけた。

 祭壇の上にある棺桶。

 恩人でもあり、また父のようでもあった。

 いつも少し離れた所から静かに微笑み、見守ってくれていた。

 その姿が、瞼の裏に浮かんだ。

 その偉大な男に、ラウは深々と頭を下げた。

 屋形の門を出て行こうとしたところで、ハサンが行手をふさいだ。

 ラウはそれをかわし、ハサンの横で立ち止まった。

「総督とカリフは、あんたに任せる」

 そう言って、ラウはその場を後にした

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