「ルチアの想い」— episode 8 —

「本当に、これでいいのかい?」

 エアレはラウの館に来ていた。

 ランタンの灯りの中、ラウは荷物をまとめている。

「ああ。もうここにいる理由がない」

「何をしている?」

 扉の前にハサンが立っていた。彼はエアレに頭を下げた。

「ボア村に帰る」

 ラウはそう言って皮袋の紐を縛った。

「だめよ」

 ハサンの後ろから、ルチアが部屋へと入ってくる。その声にラウはゆっくりと振り向き、じっと彼女を見据えた。

「父はあなたを後継者にと言っていたわ」

「おれは聞いていない」

 ルチアがおもむろにラウの腕を掴んだ。

「お願い!兄を殺して!」

「…… 証拠がない」

「何を言ってるの…あなた気はたしか!?行方をくらましているのが何よりの証拠じゃない!!」

「いいかラウ……」

 ルチアの後ろにいたハサンが口を開いた。

「いま必要なのは証拠ではない。死体だ」

 恩人の息子の死体。たった一人の、心を分かり合えた友人。

「一刻の猶予もない。貴様もわかってるはずだ」

 西側のあらゆる部族が、次期総督の座を決めるその発言権を得る為、必死になってヤジートを探している。

「早く行って。そして私の目の前に兄の首を持ってきて」

「おれには……できない」

 ヤジートは、ラウにだけは心を開いていた。ラウもそうだろう。ルチアが天井を見上げ、大きく溜息をついた。

「そう、わかったわ。もう貴方には頼まない。貴方がそこまで腰抜けだとはおもわなかったわ」

 ルチアがそう言い終わるや否や、ラウは振り向き彼女の首を掴んだ。その左手には刃が握られている。

「手を離すんだ、ラウ!」

 ラウの手が震えている。ルチアの目から、一筋の涙が流れた。

「ラウ!やめな」

 エアレの声に我に帰ったのか、ラウはさっと手を離した。よろめいて苦しそうに咳き込む彼女をエアレは受け止め、ベッドに座らせた。ルチアは両手で涙を拭いながら言った。

「私は……ずっと貴方を想ってた。初めて出会ったときからずっと。だけど貴方はそうじゃなかった。初めて東へ向かった時も、私に一言もなかった。だけど私は待つと決めた。貴方が父の意志を受け継ぐその日まで……」

 彼女はゆっくりと立ち上がった。

「だけどもう待たない……もういや」

 ラウは背を向けて俯いている。

「私は総督の娘よ。非常の後継者として、今ここで戒厳令を敷くわ。いいわね、ハサン」

 ハサンは何も言わなかった。

「最後にもう一度言うわ。あの男を殺して。その後どうしようが貴方の勝手よ。好きにすればいいわ……これは、命令よ」

 ルチアはそう言うとエアレの肩にそっと触れ、部屋から出て行った。

「ラウ…」

 ハサンが静かに口を開いた。

「そのままでよい。聞け。表には貴様がやってくるのを、今や遅しと待っている者たちがいる。貴様はその信頼を裏切るのか?皆、家族がある。妻や子がいて、想い人がいる。老いた母親を、たった一人で面倒を見ている者もいる」

 ラウはじっと黙ったまま、身じろぎひとつしない。

「その者たちが命を懸けて守ろうとしているものが何なのか……。貴様がそれをわからぬ人間ではないということを、貴様に初めて出会った日から、私は知っている」

 静かな虫の声。角灯の焔が風で揺れた。ラウは黙っている。

「今ここに至って、もう後戻りはできぬのだ。貴様も、私も……」

 ハサンはラウに背を向け、扉の前で立ち止まった。

「表で待っている。あの者たちの信頼を裏切ることは、断じて許さん」

 そう言い残し、出て行った。

 目の前にあるランタンの焔を、ラウはじっと見つめていた。

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