コウスケ 4
午後十時をすぎた。空腹感はあるのに食欲はまったくない。オレはベッドの上で仰向けになり、暗い天井を見上げながら、大学のカフェで聞いたシンジらしき人物の目撃情報のことを考え続けていた。
三日前 県道十二号線。
二日前 桜木町の国道。
きのう 梅本町三丁目の歩道橋。
おおざっぱな位置情報だが、確実に言えることが一つある。目撃された場所が西から東へ移動している。もっと具体的に言うなら、つつじヶ丘の展望公園の方角から、このアパートに向かっているのだ。
馬鹿馬鹿しい。
その人物がシンジであるはずはないのだ。みんな離れた場所から見ただけで、直接話しかけて確認したわけではない。
よく似た別人というのが真相だろう。
しかし、そうだとしたら、その人物はいったい何者なのか。
背格好や歩き方がシンジにそっくりで、夜になると国道沿いの歩道を歩き、あたかもこのアパートを目指しているような行動をとる男。
シンジ本人だとすれば話は合う。だがやっぱりそれはない。シンジは死んだのだ。
本当か? シンジは本当に死んだのか。
図書館のパソコンで調べた死の判定基準を思い出す。
展望台の下にある遊歩道で首を変な方向に曲げ、目を見開いたまま倒れていたシンジ。
あのとき、オレは――
心臓の拍動停止を確認したか。
していない。背負いはしたが心臓が動いているかどうかなど意識しなかった。
呼吸の停止を確認したか。
鼻先に手をかざすとか、胸が上下に動いているかどうか、なんてことはしていない。
瞳孔散大・対光反射停止の確認をしたか。
まぶたを指で開き、ペンライトの光を当てるってやつ。
馬鹿な、あの状況でするわけがない。
そんなちまちました確認なんかしなくても、あの状態を見間違うはずがない。
シンジは死んでいた。あれは死体だった。
でも、その死体が生き返るという事例があることを今日の調査で知ったのだ。
――掘り起こした棺桶の中の死体には、二十体に一体の割合で死体の向きが変わっていた。向きが変わっていた死体の中には、外に出ようと必死にもがいたような形跡が残っているものもあった。
昼間は馬鹿馬鹿しいと思えた話が、生々しい映像をともなって頭の中に浮かび上がる。
ガガッ、ガガッ、ガガッ。
耳障りな振動音が部屋中に響き渡り、グロテスクな妄想が断ち切られた。
音のする方に目を向ける。コタツの上に置きっぱなしにしていたスマートフォンが、白い光を放ちながら天板の端に向かってじりじりと移動をはじめていた。
電話か。
早く出なくちゃとは思うのだが、体がだるくて起き上がる気力がわいてこない。
あと少しで天板から落ちるというところで着信のバイブレーションが止まった。続いて留守番電話の対応が開始された。そうそう、用件があればメッセージを残してくれればいいんだ。オレは天井を見上げたまま気だるいあくびを一つした。
それからどれくらいの時間が経っただろうか。室内はすっかり冷えてしまい、少し前から感じている尿意が切実なものになってきた。
オレはのろのろとベッドから体を起こし、フローリングの上に足を下ろした。
ヒタリ。
冷え切ったフローリングが足の裏に吸いついてくる。
そうだ、さっき電話がかかってたな。
ヒタリ、ヒタリとコタツに向かい、赤いLEDが点滅を続けるスマートフォンを手にとり、液晶画面を確認した。
〈着信あり シンジ〉の表示が目に飛び込んできた。
うわっ。
思わず投げ捨てたスマートフォンが金属製のくず入れにぶつかり派手な音を立てた。
耳の奥が脈打ち、吸い込んだ息がうまく吐き出せない。
オレはベッドに駆けもどり頭から布団をかぶった。
なんだ今のは。
シンジから電話だと?
ありえない。趣味の悪い冗談だ。
まてよ、表示されていた名前は本当にシンジだったか? 別な名前を見間違えたんじゃないのか。そうだよ、ちょっと前までシンジのことばかりを考えていたし、頭もボーとしていたじゃないか。
息が整い、動悸がおさまるにつれて、頭の方も冷静に物事を考えられるようになってきた。
もう一度ちゃんと確認しよう。
オレはかぶっていた布団を跳ね除け、ベッドを降り、部屋の片隅に投げ捨てたスマートフォンを拾った。
見間違いではなかった。
液晶画面の中央に〈着信あり シンジ〉の表示、さらにその下には〈メッセージ 1件〉とあった。
どうする? どうしたらいい?
再生するべきか、それともこのまま消去してしまう方がいいのか。
メッセージなんて聞きたくない。絶対いやだ。もしもシンジの声でなにかが録音されていたらどうするのだ。
でも、メッセージの内容を確認しないまま消去してしまったら、この先ずっと気になって気になって、きっと後悔する。
聞こう。
オレは大きく深呼吸し、スマートフォンを両手で顔の前まで持ち上げた。メッセージの再生アイコンを親指でぐいと押し、すばやく右の耳にあてた。
息を止め、耳に全神経を集中する。
なにも聞こえない。
だが、無音でもない。
音にならない気配が伝わってくる。
なんだろう、初めてではないこの感じは。
記憶を探ろうとしたそのとき、メッセージの再生が終了した。
オレはスマートフォンを手にしたまま、暗い部屋の真ん中で首を傾げた。
わからない。まったくなにもわからない。
このシンジからの電話に対して、オレはいったいなにをすればいいのか。
まてよ、正確にはシンジからの電話ではなくて、シンジの携帯電話からの着信じゃないか。シンジの携帯電話が使われたことは間違いないが、かけてきた人物がシンジであるとは限らない。
それは、つまり――
シンジと一緒に埋めたと思っていた携帯電話が、誰かに拾われてしまったということではないのか。
それは十分にありえることだ。
展望台から落ちたショックで、ジャンパーのポケットから携帯電話が飛び出してしまったのかもしれない。
背負って運んでいる途中に落ちたのかもしれない。
雑木林で引きずったときに落ち葉の中に紛れ込んでしまったのかもしれない。
それを誰かが拾って、電話帳にある適当な番号にかけてみたのかもしれない。
あのバンパーのかけらの写真を見られたかもしれない。
そして今、警察に届けられようとしているかもしれない。
警察が調べれば持ち主はすぐに判明するだろう。そしてその持ち主が一週間前から行方不明になっていることがわかり、事件性が疑われ、携帯電話が落ちていた場所の近くが徹底的に捜索されると同時に、持ち主の交友関係が調べられるはずだ。
まずいな。いや、まずいどころじゃない、最悪の状況だ。
カン。
ん、なんだ?
オレは耳を澄ませた。
カン、カカン。カン、カカン。
外の階段を誰かが上ってくる音だ。
足音のリズムが左右で微妙にずれている。片方のつま先が続けて二度階段に当たれば、おそらくこんな音がする。
やがて足音は階段から廊下へと移った。
どんどん大きくなる。一つ目のドアを通り過ぎた。二つ目も越えた。あきらかに一番奥のこの部屋を目指している。そして――
足音はドアの前でぴたりと止まった。
ダン、ダン、ダンと三回、ドアが叩かれた。夜中だというのに、なんの遠慮もなく、ドアが壊れるかと思うほどの激しさで叩かれた。
そしてぱたりと静かになった。
オレは止めていた息をそうっと吐いた。
行ってしまったか。いや、立ち去る音は聞こえなかった。ということはまだいるのか。
一、二、三と、十まで数えた。なんの物音もしない。念のためもう一度同じ数だけ数えてみる。静かだ。
ドアの防犯スコープが目に入った。
確かめてみるか、それとも回れ右をして布団に入りじっと朝を待つか。一瞬悩んだが、このまま布団に戻ると想像ばかりがたくましくなり、一睡もできないことは明らかだった。
とりあえず、外の様子を確認するところまではやってみよう。
足音を殺して部屋を横切りドアの前に立った。
防犯スコープに向かって顔を寄せようとしたタイミングで床がぎいと軋んだ。静まりかえった室内に耳障りな音が大きく響いた。
しまったと思うと同時に、ドアノブがガチャガチャと激しく動き出した。
オレは「ひっ」と短く叫び、耳を押さえてその場にしゃがみ込んでしまった。耳に押し当てた手のひら越しに、ドアノブを激しくまわす音が聞こえてくる。
やめろ、やめてくれ。
オレはひざの間に顔を埋め、これ以上は無理という限界まで体を縮めた。
どれくらいの時間、そうしていただろう。
オレはそうっと手のひらを耳から引きはがした。もうなにも音はしない。周囲は静寂に包まれている。
今のはシンジだったのか。
それとも、オレの心が生んだ幻覚か。
部屋の真ん中でひざを抱え、スマートフォンを片手に、しんと冷えた心で考えた。
階段を上る足音、ドアを叩く音、ドアノブが激しく動く様子。それらはもしかしたらオレの心にある恐怖と罪悪感が生み出した幻覚かもしれない。でも、このスマートフォンには、シンジの携帯電話からの着信記録と無言の録音メッセージが残っている。そうだ、電話だけは間違いなくかかってきたのだ。
もし、もう一度電話がかかってきたらどうする。明日の夜もドアが叩かれたらどうする。あさっても、その次の夜も、この先ずっと今夜みたいなことが繰り返されたらオレはどうなる。
無理だ。そんな状況が続けば確実に頭がおかしくなる。
確かめるか。
こうなったら、自分自身の目で、シンジが確実に死んでいるということを確認するしかないではないか。
あれから一週間近く経っている。土に埋められた死体はどんな状態になっているのだろう。想像することすらおぞましいその状態を、自分のこの手で、目で、鼻で、確かめる。
そんなことができるのか。
いや、やるしかない。
やらなければ、この状態が永遠に続くかもしれないのだ。
それは、もう、耐えられない。
やろう。
雑木林を掘り返し、シンジの死体がそこに埋まっていることを確認しよう。
時計を見た。
午後十一時二十分。今から車で展望公園に向かえば、ちょうど日付が変わる頃につくはずだ。絶対人に見られるわけにはいかない確認作業だ。ならば今しかない。来月の処分の日まで、あの車にはもう二度と乗ることはないと思っていたが、もう一度ハンドルを握らなくてはならないようだ。
オレは床に投げっぱなしになっていたジャンパーを拾って腕を通し、下足入れの上から車のキーをつかみ取った。
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