●02・ロナここにあり

●02・ロナここにあり


 翌日から、彼の真の鍛錬は始まった。


 早朝は体づくり。

 体づくりとはいっても、まだアルトは八歳。平里だったころの知見をみるに、幼いうちから体を鍛えすぎると、諸々の悪影響があるという。

 とはいえ、大猪を相手にするのに、現状の貧弱な肉体では難儀には違いない。

 走り込みと速駆け、軽い腕立て伏せ、そして近くの湖を利用した水泳。

 水泳とはいっても、海戦をするためのものではなく、主としては全身を効果的に強くするための訓練である。

「ふう」

 ひと泳ぎした彼は、布で身体を拭き、着替えを荷物から取り出した。


 少し経ってからは武芸の稽古。

 体づくりとは違い、主に技術面の向上であるため、よほど没頭しすぎない限り悪影響はない、とアルトは踏んだ。

「アルト様、まだまだ、さあ立ち上がりなされ!」

 相手は小隊長イグニス。剣術ほか、主要な武器を一通り使いこなせる男。

 もっとも、武芸において素人に近いアルトでも、剣の経験は他と比べて幾分、気休め程度にはある。とすれば、わざわざ他の得物に手を出すべき時機は、少なくともいまではないだろう。

 とりあえず剣を。

 とはいえ熟練の戦士相手に、まさか「とりあえず」で稽古をつけてもらうわけにもいかない。本気である。

 本気で、イグニスの剣を体感し、その技術を我がものとする。

 目の前の勝った負けたは問題ではない。戦っては考え、改善点を洗い出し、その動きを真似て会得する。

 できれば、この「技術を盗む」という行為自体にも慣れておきたいところである。

「はあ、はあ、もう一戦!」

 アルトはイグニスに立ち向かう。


 昼前は魔道具の習熟。

 もっとも、この領地には魔道具の専門家がいないため、自分で学習しつつ、野外、街外れの安全な場所で試すしかない。

 ゲームでもそうだったが、この世界の人類は魔法を使えない。幾多の「魔法に見えるもの」は、一瞬の高度な集中によって魔道具から力を引き出す、という過程を経て発生させる。

 そこに魔力を消費するということはない。ただし高度な集中をするため、精神的に疲労が蓄積されるのは確かである。つまり連続して無限に使える手段ではない。

 ともあれ彼は、ああでもない、こうでもない、と言いつつ、通常の魔道具も使い捨てのものも試してゆく。

 ――あるかもしれない大猪との戦いでは、おそらくこれが戦いの中心になる。

 なかったとしても、野生動物との戦いと無縁のまま一生を終えるのは、少しばかり難しいのではないか。

 ともあれ、撃ちすぎは精神力を削るため、ほどほどで終わりにしなければならない。

 ひとしきり試行錯誤したあと、彼は帰り支度をする。

 と、連れてきていたアルト専属の使用人、ミーシャが深く礼をする。

 女性、年の頃は二十前後、だったはず。アルトは他人の年齢をあまり気にしないたちだったので、あいまいではあるが、大きく外れてはいないはず。

「坊ちゃま、お疲れ様でした。……あの、一つうかがってもよろしいでしょうか」

「あ、はい、僕が答えられることなら」

 そこで、意外な一言。

「坊ちゃまは、八歳の誕生日あたりから、だいぶ向上心にあふれておいでですが……いったい何があったのでしょうか」

 否、意外でもなんでもない質問。

 あの日からの豹変ぶり、自己鍛錬の権化となったアルトを相手に、そのような疑問を抱くのは、至って当然であった。

 しかし答えられない。

「まあ、色々あったんだ。考えるところが」

「そうですか……」

 教えてもらえないことに、ミーシャは露骨に落胆する。

 きれいな女性を落ち込ませるのは気が引けたが、正直に話しても、信じてもらえないか、悪ければ病気扱いされるだろう。仕方がない。

「僕も将来は立派な領主になる。そうしたらミーシャにはお世話になってるから、受けた恩をしっかり返すつもりだ」

「坊ちゃま……」

「さて帰ろう。まだ日課はあることだし」

 彼は、自分を心配してくれた使用人を励ますように、努めて明るく振る舞った。


 昼食後、日が暮れるまでは勉強である。

 この「功安」郡の城では、幸運なことに書庫が充実している。ひとまず学園でも通じる程度の勉強をするには困らない。

 もっとも、アルトが学ぶ知識は、貴族の一般教養や学園用の対策となるものだけではない。

 戦い方。

 対人戦ももちろんだが、特に狂暴な野生動物の狩り方である。

 入学以前に大きな壁……大猪との一戦が控えている、かもしれない、以上、どうしても余力はそちらに回さざるをえない。

 他のことも、決しておろそかにはできないが、ひとまずは当面の壁を見すえるべきだろう。

 彼はほのかに照らす灯りの魔道具を頼りに、本を読み進める。


 時は瞬くうちに過ぎ、十歳の誕生日を迎えた。

 ロックが大猪と戦うのが、ゲーム上は、十歳の頃とされる。そしてアルトはロック、もといロナと同学年であるらしい。

 とすると、今年のうちに最初の難関に直面するかもしれない。

 アルトは夕陽を浴びつつ、心を落ち着かせるべく城内の作業場で剣を研ぎ続けた。


 ほどなくして、アルトの父である功安伯テッドは、アルトほか数人を呼び出して告げた。

「来週の一の曜日に、遼雲伯殿のもとへ鹿狩りに行くことになった」

 時は来た。アルトは思った。

 この世界の鹿狩りは、火縄銃を使うことは稀で、だいたいは魔道具や白兵武器を用いて行うこととなる。

「アルト、お前にはロナ嬢に同行し、ともに組んで狩りをしてほしい」

 まさかの命令である。

 これはもはや、大猪と遭遇するのは確定と思ってよさそうだ。

「父上、理由をお聞きしても?」

「ロナ嬢は、いずれお前が学園で同期、学友となる予定の女子だ。いまからでも絆を固めておいたほうが、有益なものと考える」

 筋はこれ以上なく通っている。反論するのは難しそうだ。

 大猪と遭遇することが相手も分かっていれば、説得は効くのだろうが、残念ながらこのことはアルトにしか予見できない。

「……なるほど、そうですね。しかし万が一、狩りで窮地に陥ることもありえます、そのときにロナ嬢を守り抜くために、城に保管されている魔道具を選んで持ち出すことをお許しいただければ……」

 純粋な剣術では、大人を十人分ぐらい練って固めたような大きさの猪には、歯が立たないだろう。

 そこでアルトは、小遣いで買い集めた魔道具と併せて、城の公有のものを使おうというわけだ。

「真面目だな。いいだろう、宝物庫でも武器庫でも、常識的な範囲ならなんでも見繕って持っていけ。多少の破損は目をつむる」

「ありがとうございます」

 彼は一礼した。

 戦いは始まっている。


 数日後、馬車で移動した鹿狩り勢は、日没前になんとか遼雲城にたどり着いた。

「おお、功安伯殿、ご無沙汰しておりましたぞ」

「遼雲伯殿、お久しぶりでございます。なかなかお会いできる暇もなく……」

 二人があいさつを交わす。

 功安伯テッドの側にいたアルトは、ふと遼雲伯の隣にいる娘を見た。

 活力を感じさせる、きらきらと目を引く風貌。長いまつげ。せわしなく動きつつも、微かに艶のある瞳。風に揺れる、肩までの見事な金髪。

 ロックを女性化するとこうなるだろう、という容姿だった。きっとこの女子がロナに違いない。

「おっと、功安伯殿のご子息は……確かアルト君か」

 話を振られた彼は答える。

「お会いできて光栄です。テッドの息子、アルトと申します。今後よろしくお願いいたします」

「ほう。ロナ、お前もあいさつしなさい」

 言われて、見目麗しい女子は。

「ボクはロナ、遼雲の嫡子です。よろしくね!」

 ずいぶんと、くだけたあいさつである。

「こらロナ、もっと礼節を守ったあいさつをしなさい」

「いえ、そこまでしていただく必要はありません」

 アルトは擁護に回る。

「私としても、未来の友人となりうる方に、堅苦しいあいさつはあまり適当ではないと考えます。……こちらこそよろしく、ロナ嬢」

「ほら、お父様、ボクが正しかった!」

 ロナは満面の笑み。遼雲伯は苦々しい表情。

 なお、ゲーム中でのロックの一人称は、アルトというか平里の記憶をたどる限り、「僕」だったはず。そこはほとんど変わらずに、性別が変わったものだから、言動が貴族らしくないという印象を抱くこととなったのだろう。――と思ったが、性格自体も確実に、ゲームからはかなり変わっている。混線とかいうのは面倒なものである。

 まあ、いずれにせよ、気にするところではないように思える。

「アルト、ロナ嬢をよく守ってやれ。危険はないとは思うが、まあ、話でも聞きながらお互いに理解を深めればいい」

「ロナの父親であるわしからも、よしみを通じることは切にお願いしたい。どうかな、アルト殿」

「願ってもいないことです。ぜひ、こちらこそよろしくお頼みしたく思います」

「ボクは全く構わないよ!」

 呑気なものだ。

 彼の意識は、すぐに、きたるべき大猪との戦いをどう組み立てるか、その計算を始めていた。


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