〈1〉  ②

 ──だから悪魔が来たんだ。

 苛烈な太陽の下で水の入ったポリタンクを抱えながら、僕はそう理解する。

 悪魔が、真面目に働いていただけのニオを殺した連中を同じ目に遭わせてくれる。もう誰も川で撃たれないように、悪魔がその力で守ってくれる。

 そう思ったのに、母は疲れた声音で「あの悪魔は」と続けた。

「きっと、わたしたちからダイヤモンドを奪っていくよ」

「どうして? 先住者僕らの、悪魔なんだよね?」

「そう。解放奴隷たちからこの国の政治を取り戻した先住者の、代理人よ」

「……先住者の代理人なら、僕らの味方じゃないの? どうして僕らからダイヤモンドを奪うの? それじゃあニオを撃った連中と同じじゃない」

「そうね」ため息の延長で頷いた母は、そのくせ慌てた調子で「いいえ、いいえ」と否定を繰り返した。「悪魔は暴力を振るわないの。ニオのように銃で撃たれて殺されたりはしないから、大丈夫。ただ平和に、話し合いで、わたしたちをここから追い出すのよ」

 僕は、ひょこひょことおどけた調子で歩く悪魔を見る。わさ、わさ、と悪魔が歩くたびに体を包むカラフルな糸が音を立てる。不気味なヒョウ柄の顔は、虫食いだらけだった。いや、貝殻だ。河原で死んだ魚を貪っている貝たちの殻が縫い付けられて、まるで無数の目のようだ。

 あれに追われて村から逃げ出すことを想像した瞬間、ニオをどうすればいいのだろう、と思った。

 ニオは村の端にある墓地に埋まっている。お腹が破れたニオをたったひとりで土の中に残して、僕たち家族はどこに行けばいいのだろう。

 ニオは優しい兄だった。自分はいつだって裸足なのに、僕にはゴムのサンダルを履かせてくれた。僕の、魚のトライバルが入っていない足をにぎにぎと揉みながら「カラマはまだ皮膚が柔らかいから」と笑うのだ。

「すぐに怪我しちゃうだろ。川底の砂利は痛いんだぞ。そのうち、おれたちみたいに足の裏が硬くなるから、そうしたら一緒に働こうな。兄弟でいっぱいダイヤを採って、もっと母さんに楽させてやるんだ」

 そう語っていたニオは、素足のまま土の下にいる。もう二度と、彼と僕が一緒に川底を歩くことはない。

「でも大丈夫」という母の声で、我に返る。ニオの優しい幻は、太陽光にかき消されてしまう。

「踊る悪魔は所詮、踊る悪魔だもの」母は、どこか歌うように言う。「呪いを掛けるっていうけれど、銃は持っていないの。銃は怖いのよ。簡単に死んでしまう。簡単に殺せちゃう。だから」

 だから、と続ける母の声に、乾いた破裂音が重なった。

 ──発砲音だ。

 まるで母が銃声を呼んだようなタイミングだった。

 それなのに、母は驚いた様子で周囲を見回した。母の頭から樽が落ちる。道で跳ねて、水を撒き散らしながら転がっていく。

 母が頭の上からものを落とすところを見たのは、初めてだった。

 呆気にとられる僕の手を、母がつかんだ。指の骨が折れるんじゃないかと思うほどの力だ。思わず僕もポリタンクを取り落とす。ゴムサンダルを履いた足の甲にぶち当たって痛かったのに、母はお構いなしに僕を引っ張った。

 たたた、と連続した銃声が降ってくる。鈍い爆発音もした。家々の壁で音が反響して、どこから撃たれているのか皆目わからない。

 少し走ってから、母は一軒の家の前で足を止めた。土とレンガとで組まれた低い塀が前庭を囲んでいた。バナナの葉で葺かれた庇が、プラスチック製の椅子とテーブルに影を落としている。いつもなら、そこでは老人たちが茶を飲み交わしている。今は誰もいない。転がったプラスチックのカップが、じっとりと土を濡らしているだけだ。

 母は僕の手を引いて、塀の陰に身を潜めた。

 どぉん、と腹の底に響く爆発音がして、ぱちぱちとなにかが爆ぜる音が聞こえる。

 母は自分の脚の間に僕を座らせると、ぎゅっと胸に掻き抱いた。母の心臓の音が頬から伝わってきた。さながら踊る悪魔の周囲で打ち鳴らされていた太鼓のようだ。

「大丈夫」母の囁き声が妙に甲高い。「大丈夫。少しだけ隠れていれば、そのうち止むわ。雨季とおんなじ。静かにしていればっ」

 たたた、と発砲音が近くで上がった。母は体を竦ませて言葉を切る。ぞうぞう、と母の呼吸音は増水した川みたいにうるさい。爆発音の雷鳴と、トタン屋根を激しく叩く雨音に似た銃声で、本当に雨季のただ中にいるようだ。

 何人もの人が駆け抜ける足音、女の人の悲鳴、男の人の怒鳴り声。子供の名前を必死で叫ぶ親や、見捨てないでくれと懇願する老人たち。そういうものがぼんやりと遠くで響いていた。

 母の「大丈夫」という声が、肌から直接伝わってくる。

「大丈夫。そう、自分に言い聞かせて。大丈夫」

 妙に芝居がかった言葉に、あれ? と思う。母の囁きが小さく抑揚を帯びている。母がキッチンに立つとき、よく流している磁気テープに収録されている曲だ。でも声が震えて、全然歌えていない。それでも母はおまじないみたいに、大丈夫、と馴染みの音階で繰り返す。

 どれくらい時間が経ったのか、息苦しさを覚えて僕は母の腕の中で身動ぐ。意外にも母の腕は簡単に緩んだ。

 あれほど明るかった世界は薄紫色になりつつあった。もう夕方に近いのだ。銃声や爆発音も聞こえない。甘苦く、なにかが焼ける臭いが充満していた。

 川に行っている父や兄はどうなっただろう、と首を伸ばしたとき。

 ざり、と低い塀の向こうで足音がした。母が勢いよく僕を引き寄せた。突然のことだったので僕はバランスを崩して尻餅をついてしまう。

 低い塀の陰から子供が見えた。通りを歩く女の子だ。年の頃はニオと同じくらいだろう。この辺りでは珍しく、スニーカを履いている。ハーフパンツとTシャツ、腰には大きなバッグを吊るして──自動小銃カラシニコフを腰に構えていた。

 女の子は僕らが隠れる家の前を数歩行き過ごしてから、振り返った。なにかを探すように視線を巡らせる彼女と、眼が合った。

 あ、と思ったときには遅かった。彼女はつかつかと足早に僕らの前まで来る。銃口で母の頬を突く。母が小さく息を呑むと、彼女は白い歯をこぼして笑った。

「まだ、いたんだ」

 明るい口調だった。笑顔と相まって、古くからの友人に再会したような錯覚を抱く。でも、そんなはずはない。彼女の右手の人差し指は引き金に掛かっている。今にも撃ちたそうに指の腹でリズミカルに引き金を叩いている。痙攣しているだけなのかもしれない。

「ねえ」彼女の声は親猫に甘える仔猫のようだ。「立って。一緒に行こ」

「……どこに?」と答えたのは、僕だ。母は荒い呼吸を繰り返している。体が震えて歯がカチカチと小さな音を立てていた。

 彼女は声を上げて笑った。母の怯えっぷりが面白くて仕方がない、という様子だ。

 彼女の銃口が母の口に突っ込まれた。「じゃま」と彼女は銃で母を突き飛ばす。駄々をこねる子供特有の軽い調子だったのに、母の前歯は簡単に地面に散らばった。一拍遅れて母の口から血があふれ、乾いた土に染みこんで紫色になる。

 慌てて母の血を受け止めようと手を伸ばしたけれど、彼女のほうが素早かった。僕の二の腕を強く引っ張って僕を母から引き剥がす。

「ねえ、きみ、なまえは?」

「え?」と間の抜けた声が出たかもしれない。彼女のあまりにも親しげな態度と笑みに混乱して、彼女と血を流す母とを見比べる。

「ねえ」彼女は焦れたように銃を抱えた肘で僕を小突いた。「なまえ。きみの。ことば、わかる? えいご、わからない?」

 答えなければ撃たれる。そう反射的に理解した。

「……カラマ」

「いくつ?」

「……七歳、か八歳」

「ああ」彼女は急に顔を曇らせた。「じゃあ、ダメかなぁ。大佐が、ダメっていうかも……せっかく家族を見つけたのに……カラマがもうすこし、おおきかったら、よかったのに……」

 彼女は「ダメかなぁ」と繰り返しながら僕を手放すと、母の頭に巻かれた真っ赤なスカーフを掴んだ。乱暴に引き剥がすと、ふわりと風を含ませてから自分の首元に巻き付ける。くるりとその場で回って「にあう?」と僕に訊いてくる。

 全然脈絡のない彼女の行動に戸惑いつつも、僕は、うん、と頷いた。

 彼女はそれで満足したらしい。スカーフを奪われた母の頭を銃口で突き、「立って」と妙に平淡な抑揚で言った。

 母が、ふらりと立ち上がる。彼女の銃口に背を押されて、つんのめるように歩き出す。

 僕は彼女の隣を歩いた。まるでお使い帰りの友達同士のようだ。僕と彼女の影が地面に伸びていた。その先に、母がいる。母から滴る血を踏んで、僕と彼女が歩いている。

 村のあちこちから真っ黒い煙が立ち上っていた。あまりにも薄暗いから夕方だと思っていたけれど、太陽はまだ高い場所にあった。村を覆う黒煙のせいで陰っているのだ。

 戸口から激しく火を噴き出している家が何棟もあった。家の前の低い壁は崩れて、赤黒いなにか──たぶん人の体だ──が垂れ下がっている。あちこちに血と銃弾の痕があった。

 道の真ん中に、大きな獣がうずくまっていた。家々で飼われていたどの犬より大きくて、ハイエナのたてがみみたいな長い毛に覆われている。

 ぎょっとした僕を、彼女が笑う。

「だいじょうぶだよ」

 もう死んでるから、と事もなげに言って、彼女は銃を抱えていないほうの手で僕の手を握る。

 べっとりと濡れた掌だった。汗かもしれない、と思いながら、本当は別の可能性にも行き当たっていた。彼女の手は、血で濡れているのだ。

 僕の心臓が大きく早く脈を打つ。怖くて仕方がなかった。彼女の笑みが、友達と話すような口調が。どことなく呆けているような呂律も、目に映る全てに興奮しているような声の甲高さも、全てが状況と噛み合っていない。

 彼女に手を引かれて、道にわだかまる毛玉の横を通り抜ける。そのとき、血で束になった毛の隙間から、青白い掌が覗いていることに気がついた。人間の手だ。獣のような衣装を被った人間が、死んでいる。

 ──踊る悪魔だ。

「わたしが」彼女は誇らしげに顎を上げる。「ころしたの」

「呪われるわ」母のくぐもった声が応じる。「人間が悪魔を殺すなんて、きっと呪われる」

 彼女は、たたん、と空を撃った。体を強張らせる母と僕とを「よわむし」と笑って、力強い足取りで黒煙の下を歩き続ける。

 きっと彼女も、悪魔の呪いより銃弾の力を、その恐怖を、身をもって知っているのだ。


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