【単行本】天使と石ころ【試し読み】

藍内 友紀

第一章

〈1〉  ①

 リベリアの赤土がむき出しになった道で、極彩色のふわふわとした装束が跳ねている。夕日の赤や乾季の空色、太陽の黄に染めた糸で全身を包んでいるのだ。獣のような見てくれのわりに、この辺りでは滅多に見ない黒い革靴を履いている。跳ねるたびに、わさっ、わさっ、と糸が乾いた音を立てる。糸が空気を含んで、どんどん体が膨れていくようだ。頭には水牛の皮の帽子を被り、顔はヒョウの毛皮で覆われていた。

 僕はそれを三ブロック離れたところから眺めていた。七歳だった僕は、得体の知れないが怖かったのかもしれない。胸に抱えたポリタンクの中で水がゴポンと鈍い音を立てたのを覚えている。

 隣に立つ母は、そんな僕を小さく笑った。

 ちょうど水汲みから戻るところで、母は赤いスカーフを巻いた頭の上に大きな樽を載せていた。母はどんなに重たい樽でも軽々と頭に載せて運んでしまう。市場に落花生を売りに行くときだって、古着を売って新しい古着を買いに行くときだって、母の頭の上はいつも賑やかに商品が載っている。

 僕はまだ、水の入ったポリタンクを抱えるのが精一杯だ。

 母は片手で頭上の樽を支え、もう片方の手には僕が抱えているのと同じポリタンクを提げている。母が歩くたびに、たぽん、たぽん、とポリタンクの中で水が騒いだ。

「あれが」と母が言った。「怖い?」

 僕は母を仰いで、頷いたかもしれない。太陽がちょうど母の頭上に来ていたせいで、まともに眩い光を見上げることになった。母の顔が見えない。逆光で黒々とした樽ばかりが視界を塞いでいる。

「大丈夫よ」母のため息のような笑い声が降ってきた。「あれは、踊る悪魔。先住者の揉め事を解決してくれる悪魔だったの。解放奴隷たちの言う悪魔とは違う存在よ。でも今は……ただの政府の代理人よ。姿ばかりを真似て、せいぜい詐欺まがいの交渉を請け負うだけよ」

「政府の、悪魔なの? 僕たち、呪われるの?」

「カラマは」と母は僕を一瞥すらせず、僕を呼ぶ。「呪いが怖い?」

「怖いよ」と答えるには、僕たちはもっと怖い物を──銃を、知ってしまっていた。

 だから僕は黙って顎を引く。通りの向こうで跳ねる極彩色の悪魔の毛並みを、睨む。

「本物の踊る悪魔はね、人間同士の問題が暴力や銃弾では解決できないときに来てくれるの。いいえ、暴力や銃弾でたくさんの人が傷つかないために、来るのかしら」

 雨季の雷鳴めいて、連続した太鼓の音が響いていた。木製の細長い太鼓を肩から掛けた人々が悪魔を囲んでいる。つま先でぐるぐる回ったり跳ねたりしながら乾季の道を練り歩いているせいで一歩ごとに土埃が立ち、彼らの真っ赤なパンツと革靴とをくすませていく。

「もう、遅いのに……」

 悪魔の姿が土埃に包まれている。そのくせ眩い色彩は汚れることもなく、不気味な鮮やかさを保っていた。

 母の陰鬱とした表情に反し、通行人たちは笑っている。悪魔に近寄りこそしないものの、全身の糸が揺らめくのに合わせて手を叩いたり大きな声で歌ったりしている。政府の代理人を歓迎しているというよりは、単純にお祭り好きの性分が出ているのだろう。

「悪魔は」僕は悪魔の革靴のてかりを見ながら言う。「なにを解決しに来たの?」

 母はゆっくりと首を巡らせた。たぽん、と母の頭上で樽が重たい音を立てる。

「川の、問題よ」

 僕は頬が冷たくなるのを感ずる。悪魔の革靴で自分自身が踏み拉かれるような錯覚を抱く。

 ──二番目の兄であるニオは、川で死んだ。

 つい先週の真昼のことだ。ニオは村のすぐ傍を流れるファーミントン川で働いているところを、撃たれたのだ。撃ったのはマージビ郡の治安維持部隊だったという。

「連中は」と唾棄したのは、ニオと一緒に働いていた父だった。「まるで的当てみたいに、ニオを撃ったんだ。まるで的当てみたいに……」

 まだ十一歳だったのに、と続けた父は、涙をこらえて獣のようなうなり声を漏らした。

 ニオの葬儀には村のほとんどの人が来てくれた。誰もが、ひとつ間違えば撃たれていたのは自分の家族だったかもしれない、と思っていたからだ。

 この村は、ファーミントン川の底から見つかるダイヤモンドで成り立っている。

 毎朝、父とニオ、そして一番上の兄であるモリバとは連れだって川へ出かけていた。父だけじゃない。村のほとんどの働き手が川へと向かう。茶色く濁った川面に小舟を浮かべて、水底へと潜っていく。船を持っていない家族は川岸に横穴を掘って、泥と水の中に潜る。

 潜るのはたいてい、体の小さな子供の役目だった。エアーコンプレッサーにつながれた細いホースを咥えて、ダイヤモンドが隠れているかもしれない砂利をかき集めるのだ。だから川にはエアーコンプレッサーのとつとつという稼働音が絶え間なく響いている。

 父は小舟を操る係だった。川の中程までこぎ出たところで、ニオがエアーコンプレッサーにつながった細いホースを咥えて茶色く濁った水へと潜るのだ。川の流れに負けないように脚を踏ん張りながら、魚獲りの網で作った大きな袋いっぱいに土や砂利を詰め込んでいく。袋がいっぱいになると、ニオは腰につながった命綱を引っ張る。それを合図に、船の上にいる一番上の兄のモリバが土砂の詰まった袋ごとニオを引っ張り上げるのだ。

 船の上にいる父とモリバは、ニオにつながった命綱の様子を気に掛けながら、船から身を乗り出してザルに入れた土砂を丁寧に浚う。

 そうしていると、ザルに光る石が残ることがある。

 ──ダイヤモンドだ。

 黄色くくすんだものや透明なもの、小指の先ほどの大きさから砂粒みたいなものまで、さまざまだ。週に二度、そのダイヤモンドを求めてレバノン人商人が村を訪れる。

 それが村の生活を支えている。

 おんぼろエアーコンプレッサーはときどき前触れなく止まってしまうし、土の入った袋は重たくてうっかりするとニオを押し潰してしまう。船から身を乗り出すモリバも川に潜るニオも、船を操る父だって泳げない。だからみんな、溺れない『おまじない』として足首の後ろに魚のトライバル刺青を入れている。

 もちろん、ひと粒のダイヤモンドすら採れない日だってある。この村はみんな、命がけで川底から小さな幸運を拾い集めて食いつないでいるのだ。

 それなのに、治安維持部隊の連中は安全な岸から、川に浮かぶ小舟を撃ったのだ。

 父とモリバは船の中に伏せて無事だった。けれど濁った水の中にいたニオは、水面から顔を出してしまった。たぶん、コンプレッサーが止まってしまったのだろう。咥えたホースから送られてくるはずの空気がなくなり、必死に手足を動かして浮かび上がったニオを待っていたのは潤沢な酸素ではなく、銃撃だった。

 父とモリバがニオを船に引き揚げようとしたけれど、銃撃が激しくてかなわなかったという。

 ニオはしばらく川面でもがいていたものの、すぐに茶色い川の中に沈んでいった。

 結局ニオが家に戻ってきたのは、治安部隊が去った翌々日のことだった。村からずっと下流、歩いて二日もかかる所まで流されていたのだ。

 葬儀の日、自動小銃の弾と川の水とでぐずぐずになったニオの体からは、埋葬の布で包んでなおじくじくと血がにじみ出ていた。足首の後ろのおまじないは確かにニオを溺死からは守ってくれたけれど、銃弾の前では無力だった。

「どうしてニオが死ななきゃならなかったの?」と問うた僕に答えてくれる大人はいなかった。親戚の女の人たちはみんな泣き崩れていたし、男の人たちは一様に唇を引き結んで怖い顔をしていた。

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