第6話

 司祭のような格好をしたエルフの老人がしゃがみこみ、自分の顎下を触った。年老いた乾燥した皮膚のざらつきに不快感が走った。

 舌を出しなさい、そう言われたような気がして、言われた通りにした。赤い綺麗な舌だ。

 老人はもう片方の手にハサミを持っていた。装飾が施された重たいハサミ、その切っ先がこちらに向く。

 舌に冷たい金属の味が一瞬伝わった。次の瞬間にはばちんっと二つの刃が交差し、激痛が走った。

 歪む視界。自分はそこで気を失った。

「はあ⋯⋯!」

 ばっと飛び起きる。宿の一室でヒューラは額に手をやった。肩から紐が落ちる。

「夢⋯⋯」

 憎々しげに呟くとぎりっと歯を鳴らした。両手で顔を覆うようにして膝を立て、背中を丸めた。

 ヒューラはダークエルフだ。そして誰よりもダークエルフという種族を嫌っている。なのに口から出てくるのは人を傷つける言葉や言い回しばかり、気をつければ気をつける程それは酷くなっていった。

 ダークエルフは性格的に人族全般が嫌いで嫌な言い方をする者ばかりだ。然しそれは単なる“呪い”だと彼女は思っている。

 まだ幼かった頃、舌先を切る前の頃に彼女は村の奥であるものを見た。黒く像のような何か、何千年も前の話だ、記憶はおぼろげで確かな事はなかった。

 然しそれを見てから彼女は親兄弟が他の種族の悪口を言ったり、この種族には関わるなと偏見に近いことを言ったりしているのを不快に思うようになった。最初は「そんな事言わない方がいいと思う」と苦言を呈した、だがその際に向けられた眼は獣のようで、それ以降口を閉ざした。

 ヒューラが嫌味を言うようになったのは、舌を切ってからだ。だが不快だと思う気持ちは残っている、一時は口自体を縫ってしまおうかとも考えた。

「喉渇いた」

 もう殆ど諦めている。私はこのまま人に嫌われる事ばかりをして孤独に死ぬのだと⋯⋯。

「あれ、ヒューラさん」

 廊下に出るとダンジィと出会した。油断していた分驚いて変な声が出る。慌てて口元を押さえた。だが彼は何も気にしない。

「寒くないのかその格好」

 キャミソールにパンツだけという姿に彼は素直に心配した。然しヒューラは途端に恥ずかしさが湧き上がってきたのか、子犬のようにきゃんきゃん吠えながら走り去った。

「なにい? うるさいんだけどお」

 ドアから顔を出したマジャルが不機嫌そうにダンジィを見上げた。

「いや、心配したらヒューラさんが」

 それに軽く溜息を吐く。

「ダークエルフなんかに関わるな」

 冷たい一言のあとドアを閉める音が響いた。ダンジィは首筋を撫でたあと自分の部屋に戻った。

「マスター、ヒューラがどこに行ったか知らないか」

 翌朝、身支度を整え各自降りてきたメンバーのなかに、彼女の姿が一つもなかった。寝坊でもしているのだろうか、マスターはかぶりを振った。

「そもそも降りてきてませんよお。ちょっと見てきます」

 妖精の羽を動かして二階に飛び上がるとそのまま奥に消えていった。ガナルは軽く息を吐きつつカウンターから手を離す。

「もういいんじゃない? 誰かと一緒に冒険するなんて、そんなタチじゃないでしょ」

 マジャルが両手を広げて大きく言う。然しランが否定した。

「ガナルに詰められてそれはないんじゃないですかね。どれだけ強いかも昨日眼の当たりにしたし、そこまでバカじゃないと僕は思いますけど」

 彼の正論にマジャルは「そおだけどさ、」と歯切れの悪い事を返して、広げていた手を後頭部にやった。静寂が流れる。ちらほらと宿から降りてくる人間はいるが、淡々とした空気があった。

 然し奥の廊下から飛んできたマスターが、二階の手すりに手をかけて身を乗り出した。

「大変な事になってる!」

 響き渡る彼女の声に真っ先にガナルが駆け出し、続いてダンジィが後を追った。マジャルはランが残りそうな気配を感じて視線をやったが、冷たい一瞥を貰っただけで彼も階段に向かった。

「あんなオバサンのことなんかほっといてさあ」

 然し誰も聞いてくれやしない。マジャルは舌打ちをすると階段を数段飛ばして駆け上がった。

「どいてください」

 ダンジィとガナルを押しのけて部屋のなかに入る。数歩前に出ると立ち止まった。

「ラン?」

 名前を呼ぶと彼はばっと振り向いた。

「すぐにここから離れて」

 大人しそうな顔には焦りがあり、ガナルは奥にいるヒューラを一瞥した。彼女はベッドの淵に項垂れた状態で座っている、ただそれだけだ。然し彼が言うならと踵を返し、あがってきたマジャルを制した。

 マスターがドアを閉め、静かな音が聞こえる。

「何が起きてんだよお」

 はあっと息を吐き出す彼女にガナルはかぶりを振った。

「あたしも分からん。だが」

 あれだけ実力のあるランがあからさまに焦っていた、それだけでも心の奥がざわざわとする。たった一日、たった一日一緒にいただけでワズィの笑顔と死に際の姿がチラついた。

「ヒューラ⋯⋯」

 ランは彼女の名前を呟きながらそっと手を伸ばした。顔に近づける。顎下に軽く触れ、顔をあげさせた。

 びくっと彼の身体が震えた。彼女の両眼は真っ黒に塗りつぶされており、丸く見開かれていた。かなり深い黒、じっと見ていると気がおかしくなる程だ。

 手を離すとまた項垂れた。身体自体は意識を失っているように力がない。

「まずいな、これ」

 ごくりと固唾を飲み込む、本を取り出しページを捲った。その手は迷っていた。どれが有効なのか、仮にそれを使ったとして上手くいくのか⋯⋯。

 だがこのままではヒューラの精神は侵され消えてしまう。一か八か、ランは特殊な言語を口にしながら背表紙を彼女の頭につけた。

 瞬間、ばっと本が跳ね除けられ、驚いた時には押し倒されていた。頭を強く打ち付け顔が歪む。

 腕は固定され、彼女の長い髪がカーテンのようにかかった。視線をやる。ヒューラの片眼が戻っていた。

「たすけて」

 その眼には光があった。今までの常に人を睨みつけているような鋭さはなく、純粋な光があった。然し一瞬にして飲み込まれ、真っ黒い二つの丸がランを見た。

「ちっ」

 加減する必要はない、どんっとヒューラの身体が飛び上がり天井に磔にされた。めきめきと音が鳴る。ランは立ち上がりつつ息を吐いた。

「胸糞が悪い」

 心が、心の奥がざわざわとした。嘗てのトラウマがフラッシュバックする。魔物に取り憑かれた恋人の姿がフラッシュバックする。

 本を片手に両眼を閉じた。マントや髪が舞い上がる。第三の眼で彼女を見上げた。

 その時、奇声が響いた。それはヒューラの口から発されたものだが、とても彼女のものとは思えない。勿論部屋の外にまで聞こえる。

「悪魔祓いしてるみたいだ⋯⋯」

 マスターの呟きにガナルは腕を組んだ。恐らくその通りだろう、光魔法と白魔法を扱える者なら誰でも出来る。ワズィも何度か悪魔祓いをしてきた、その時の奇声と似ている。

 暫く奇声が続いたあと、ぴたりと止まった。しんっと静まり返る。悪態を吐いていたはずのマジャルはさっきから廊下を動き回っており、こつこつとヒールの音が響いていた。

 ややあってきいっとドアが勝手に開く。マスターが先に駆け出した。

「助けてください」

 気を失ったヒューラがランの上に乗っており、不服そうな顔で救助を要請した。

「魔族の類じゃない」

 ヒューラは部屋のベッドに横たわっており、傍にはマスターの娘が居眠りをしていた。ランは疲れたのか顔色が悪く、硬い背もたれに身を預けながら答えた。

「じゃあなんだ。魔族以外となると、悪霊ぐらいしか⋯⋯」

 ガナルの言葉にランはしんどそうに言った。

「呪い」

 短いそれにマスターも含め全員驚く。

「呪い? マジで言ってんの? そんなの、どんだけ昔のもんだと、」

「ヒューラなら有り得る。彼女は最低でも一千五百年は生きてる。呪い、所謂呪術がまだあった時代と被るし、もし表で消えた頃だとしてもダークエルフなら暫くは使えてたと思う」

 少し座り直しはあっと息を吐いた。ランの言葉にマジャルが眉根を寄せた。

「だとしても、なんで今?」

 彼はすぐには答えなかった。

「分からない。本人に聞くか、呪いを受けた場所に行くかしないと」

 沈黙が流れたあと、ランは身を起こした。

「一先ず落ち着かせたというか、白き太陽神様のお力を借りて本人の精神を保護してる状態だから、多分またどこかのタイミングで呪いが表に出てくる」

「ランの力じゃ、無理なのか。その呪いを消すのって」

 ダンジィの質問に視線をやるとかぶりを振った。

「無理。いつの頃の呪術かも分からないし、僕が扱えるのは今の時代になってからの魔法だけ」

 対呪術の魔法は既に残っていない。残っていたとしても古い文献か、その時代を生き抜いてきたエルフの魔法使いだけだ。どちらにしても難しいし、後者の場合は本人が不要と感じて手放してしまっている可能性もある。望みは薄い。

「なら一生ってこと?」

 マジャルが全員を見渡しながら言った。それには否定した。ランはテーブルの中央を見つめながら呟くように答えた。

「大元だよ。大元を壊せばどんな呪いだろうと解除される」

 確実な方法だ。然しどこにあるかも分からないし、そもそも残っているかも分からない。それに、

「魔王をさっさとやらないとダメって時にそんな寄り道」

 彼女の言葉にガナルが「いや」と被せた。

「このままヒューラに呪いがかかった状態でいけばあたしらも殺されるかも知れない。それにまだ猶予はある。ヒューラの呪いを最優先に動くぞ」

 ヒューラの意識が戻ったのは五時間後の事で、その間マジャルとダンジィは依頼をこなす為に不在だった。彼らは正式に魔王討伐隊として任命された、名声を得るために一般の依頼を請け負う義務がある。

「体調は大丈夫ですか」

 起き上がってすぐはマスターが対応し、受け答え出来る程に落ち着いてからランとガナルが部屋に入った。ランは膝をついて見上げる形で問いかけた。

「ええ。平気よ」

 二の腕を掴みながら答える。顔は俯いているのでガナルから表情は見えない。

「何が起きたか分かりますか。記憶や自覚は」

 それにヒューラはぎゅっと強く握ると肯いた。

「ある。全部」

 確実に呪術の類だ。魔法による所謂デバフは記憶がなかったり意識を強制的に飛ばされたりする。だが呪術だけはそれがない。だから呪いとして機能する。事が過ぎても記憶として一生残り続ける⋯⋯。

 ランは淡々としていたが、彼女に寄り添うように膝に手を置いて質問を続けた。それを嫌がる事もせず、寧ろ時々手を重ねて震えた声で答えた。

 最後に彼は立ち上がりつつ言った。

「貴方の嫌味な言い方は嫌いだ」

 突き放すような声だ。流石にガナルも驚いて壁から背を離した。勿論言われた本人は顔をあげ、眼を丸めていた。然しランは同じ調子で続けた。

「でもそれが全部呪いのせいだと分かれば嫌じゃない」

 彼の声音は寄り添うような優しいものではなかった。他人事でとてもシャーマンとは思えない程に冷たく聞こえた。だがヒューラはそれを聞いて口元を歪ませ、俯いた。

「出ていって。もういいわ」

 その声は震えており、堪えているのが分かった。

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