37 その心は

 華香は当番をしていた図書委員に、戸締まりはするからと頼んで鍵を借りた。側にいた一成いつきを見て、なにかを察したようにニヤニヤとされたが、華香はそれすらも気にならなかった。誰にも邪魔をされない場所を確保できた満足感で一杯だったからだ。


 鍵を締めて電気さえ消してしまえば、外部からは無人の図書室にしか見えない。サボりスポットとしては、これ以上ない場所だった。


「こんな形でまた、ここに訪れる日が来るなんてな。なんだか感慨深いや」


「わたしも、ここでまたイッセーくんとお話できる日が来るなんて、思いませんでした」


 受付の中でふたりは、改めて再会を喜びあった。


「まさか本の話題に口を挟んだせいで、バレるとはね」


「双子の入れ替わりをするには、詰めが甘かったですね」


「でも、華香相手に本の話でバレるなら、それもらしいかな」


「そういう些細なことで、入れ替わりがバレるのはお約束ですから。一成さん、イッセーくんより沢山本を読んでる人ですし」


「つまり兄さん相手のほうが話し甲斐があるってことか」


「そ、そんなことありません!」


 華香は慌てながら、大ぶりに両手を振った。


「読書量が多ければとか、作品への造詣が深ければとか、それで偉いとは思いません。一番大切なのは、大好きな話をできる相手がいるってことです。だからイッセーくんが、勧めた本を読んで、感想を聞かせてくれるだけで、本当に嬉しかったし、楽しかったです」


「華香が勧めてくれる本は、全部面白いからね。僕も楽しかったよ」


「イッセーくんにそう言ってもらえたなら、それだけで報われます」


「報われるなんて大げさだな、華香は」


「いいえ。大げさなんかじゃありません。イッセーくんだけが今まで、わたしの大好きな話に付き合ってくれる人でしたから。だからイッセーくんがいなくなってから……寂しかったです」


 華香はポロリと本音を漏らした。


 申し訳なさそうに眉を動かしながらも、一生は憂いのない面持ちで微笑んだ。


「でも今は、違うんだろ?」


「はい。一成さんという話し相手ができました。その先で、天梨とノエルとお友達になれました」


「そうそう、ふたりと仲良くなってるから驚いたよ。ノエルとは一昨日、家に来たときに仲良くなったとは聞いてるけど。天梨とはなにがあったの?」


「十角館の漫画を読んだ天梨が、その感動をわたしにぶつけてくれたのがキッカケで」


「あー、あの本か。たしかに天梨だったら、語れる相手を欲しがるだろうね。でもまたなんで、華香に? その時点では、関わりはなかったんだろ?」


「一成さんが、そうなるように取り計らってくれたんです」


「ああ、兄さんが」


 それなら納得だと一生は頷いた。


「そうやって本の話で盛り上がって、そのまま仲良くなったんだ」


「いいえ。それはあくまでキッカケ。天梨とはもっと別な話で、気があうことがあったんです」


「どんな話で気があったんだい?」


「乙女の秘密です」


 人差し指を唇に当てながら、悪戯っぽく華香は笑った。


 仲間外れにされた子どものように一生は渋い顔をする。


「それ、やっぱり男子禁制なわけ?」


「一成さんは知ってますから、イッセーくんだけ禁制ですね」


「みんな揃って……僕だけが仲間はずれってわけか」


 不快感を示すことなく、一生は苦笑した。


 誰にだって、特定の相手に知られたくないことはある。その秘密主義が生まれてくるのは、嫌悪や忌避感からだけではない。嫌われているわけではないのなら、無理に暴く必要もない。


 この学園を離れてる間に生まれた秘密。それが助けてあげたくなるようなものだとしても、一成がなんとかしてくれる。そんな信頼だけはあったから、大丈夫だろうとこれ以上追求するのは止めた。


「そうだ。華香が絶対に食いつきそうな体験をしたんだけどさ」


 だから今度は、自分が向こうで体験した話をする番だ。ミステリマニア垂涎の土産話である。


「この前、殺人事件に巻き込まれたんだ」


「え、殺人事件!?」


「しかも僕以外、犯行不可能な密室だったんだよ」


「密室!」


 口元を両手で覆った華香は、前髪の間から覗く瞳がキラキラと輝かせた。


 人死が出ているから不謹慎かもしれないが、ミステリ小説に出てくるような探偵が、華麗に謎を暴いた日のことを一生は語り始めた。




 想い人とのふたりきりで過ごす時間は、夢心地のように尊かった。


 好きな人と好きな話をする時間は、華香にとってかけがえのない宝石のようだ。


 ずっと彼を想い続けてきた。


 その想いが報われたいと願うのは、夢見るだけに留めてきた。


 なにせ一生は魅力的な女性に囲まれている。あの子は一生のことを好きなんだなと、遠目から見ているだけで気付いたから。特に天梨はその筆頭だから、初めから諦めるには十分すぎる理由だった。


 いつか必ず、一生には恋人ができる。それは承知の上で、この想いはずっと秘めると決めたのだ。


 一生に恋人ができるまでの間だけでもいい。こうしてふたりの時間を作って貰えるだけでも幸せだと、華香は満足していた。


 一生に恋人ができたときは、素直に諦めよう。どうしようもない状況になれば、諦めがつくものだと信じてきた。


 結果は、自分の思っていたものとは違った。


 未練たらしく未だ、一生を想い続けている自分がいた。


 その恋は、自分の中で終わっていなかったのだ。いつまで引きずればいいのか、ずっと答えが出ないままだった。それが天梨と交流を重ね、自分たちの報われない想いを、散々吐き出し続けてきた。その先でなんとなく、理由が自分の中に浮かんできたのだ。


 久しぶりに一生とこのような時間を過ごした中で、ようやくそれが言語化された。


 きっとそれを行えば、自分の中で決着を付けられる。この恋を終わらせられる。


 素晴らしい恋だったと、思い出にできる。


 でも、それはひとつ間違えれば、一生の重荷になりかねない。だから華香は悩んだ。


 幸せな時間を過ごす裏で、悩んで、悩んで、悩んで、悩み続けて、答えを出した。


「おっと、もうこんな時間か」


 五時間目の授業の終わりを告げるチャイムを聞いて、一生は時計を見上げた。楽しい時間はあっという間だったという顔で微笑んでいる。


 どちらからでもなく立ち上がり、一生は受付から出ようとしたところで、


「イッセーくん、好きです」


 華香は秘め続けてきた想いを告げたのだ。


「え……」


 脈絡もなく、あまりにも唐突なものだから、一生はそれが告白だと認識する前に振り返った。


 華香は胸元で手を重ねた、口元に微笑を零しながらもう一度想いを告げる。


「ずっと、あなたのことを想い続けてきました」


「華香……」


 目を点にした一生は、名前を呼ぶ以上のことはできず、言葉を詰まらせた。


 自分には既に恋人がいる。それを承知の上で、想いを告げてくる華香に、一生はただただ驚くばかりだった。別れて自分と付き合ってくれなんて、思いつきすらしない性格だとわかっているからこそ、告白の真意がわからず戸惑った。


 なにより華香が、自分にそんな想いを抱いているなんて、想像すらしていなかった。


「いきなり、驚かせてごめんなさい」


 申し訳無さそうな声音ながらも、華香は微笑みを崩さなかった。


 一生は動揺を落ち着かせるように、後ろ首を掻いた。


「いや……うん、たしかに驚いたよ。そんな風にまるで見えなかったから」


「イッセーくんは鈍い人ですからね」


「そんなことないさ。僕、人の気持ちには鋭い方だと思うよ」


「全然鋭くありません。一成さんも『俺の弟は鈍感すぎるだろ』って呆れてましたから」


「兄さんが呆れるほどって……そんなに鈍いの、僕って?」


「自分が思ってる百倍は鈍いと思ってください。誇張なしにですよ」


「そんなにか……」


 自覚せぬ一面を突きつけられて、一生はショックを受けた。


 そんな一生の顔が面白かったのか、華香はくすりと笑った。


「でも、わたしはそれでもよかったんです。イッセーくんのことが好きなのは、周りにはバレバレだったから。イッセーくんが鈍いから、今まで楽しい時間を過ごせたんです」


「それは……褒めてるってことでいいのかな?」


「わたしにとって都合がよかったというだけで、褒めてはいません」


「華香、そんな手厳しかったっけ?」


「今だけは、素直になろうって決めましたから」


 華香は前髪越しに、一生を見つめた。


「答えはわかっていることだからいりません。最後に思い出をくださいとも言いません。この気持ちを覚えていてほしいわけでもありません」


「なら、なんで?」


「伝えたかっただけなんです。御縁華香は瀬川一生くんのことが好きだったと。イッセーくんがいなくなってから、未練がましくずっとこの想いを引きずってきたから。この恋を、終わらせたかったんです」


「そっか……」


 一生はただ、それだけしか言えなかった。


 華香の想いは気付けなかったけど、性格はよく知っているつもりだ。ずっと秘めてきたものを今更さらけ出すのだ。どれだけの覚悟が必要だったのか、それだけは一生には測れなかった。


 せめてその覚悟を受け止めようと、一生は顔を逸らすことだけはしなかった。


「この想いだけでも伝えさせてくれなんて、重荷にしかならないかもしれないですけど……それでも最後に、あなたの優しさに甘えさせてください」


「うん、わかったよ。僕なんかを好きになってくれてありがとう、華香」


 ごめんなさい、なんて言葉は聞きたくないだろう。せめてその気持ちに感謝を伝えた。そうやって一生は、華香の気持ちを受け止めた。


 華香はふいに、人差し指を立てた。


「最後に、ここで謎掛けをひとつ」


「どうぞ」


「『御縁華香』とかけまして、『瀬川一生』と説きます」


「……その心は?」


「この度は、『御縁ごえん華香はなか』ったということで」


 心臓を握られてしまったかのように、一生は目を見開いた。


 返事に困っている一生に、華香は笑みを絶やさぬまま言った。


「どうか笑ってください。御縁華香の一世一代の自虐ネタです」


 当てつけなんかではない。あなたの前でこんなことができるくらいには大丈夫だと、華香は伝えたかった。その気持ちを額面通りに、一生は受け止めた。


 ケラケラ笑いはしないけれども、一生は微笑を零した。


「華香は強いね」


「あなたの厳しいお兄さんに、鍛えられましたから」


「兄さんはスパルタだから、大変だったろ」


「イッセーくんが、あれだけ越えられないというだけはありました」


 顔を見合わせたふたりは、ひとりの男を思いながら笑った。


 笑いが落ち着くと、華香は言った。


「先に行っていてください。このまま一緒は、さすがに気まずいですから」


「わかった。じゃ、またね、華香」


「はい、また」


 こうしていつものようにまたと言い合い、一生は図書室を出た。


 扉が閉まってしばらくしてから、華香の頬から伝った雫が床に落ちた。


「さよなら、イッセーくん……今まで、ありがとうございました」


 そうやって、未練がましく胸に残り続けていた想いに別れを告げた。


 なんとか笑って、その背中を送り出すことはできた。


 なんとか最後まで、涙を堪えることができた。


 一生の前で泣いてしまったら、きっと重荷になってしまう。たとえ選んでもらえなくても、一生の幸せを心から願っているからそれだけは嫌だった。


 ちゃんと気持ちを伝えた上で、笑って送り出す。たとえそれが強がりであっても、それだけは貫きたかったのだ。


 これでやっと一生への恋を終わらすことができた。ようやく前に進めると、自分の中に確信を持てた。


 でも、胸にぽっかり穴が空いたようなこの痛みだけは、今日明日で引くものではない。


 今が一番痛いからこそ、誰も見ていないこの部屋で、顔を覆って泣きじゃくる。そうやって次の授業も、華香はサボることになったのだった。

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