30 たったの一年
結果として、あの男は警察の世話になった。
どうやら子持ちの既婚者だったらしく、独身と偽って母さんとお店で出会ったようだ。そんな男が他人の子供に、タバコを押し当て虐待した。面積は広くてもコミュニティが狭い街だから、瞬く間に噂は広がり、釈放された後は生まれ育ったこの土地にいられなくなったらしい。
一方、母さんは止めようとしてくれた、という証言を俺がしたので、同罪にはならなかった。精々噂が広まっても、変な男に引っかかったバカな女止まりか。ただ、それでカノンは終わらせなかった。
カノンが父親に頼んで、母さんになにか働きかけたようだ。それ以来、母さんは俺と会う度に顔色をうかがい、ビクビクするようになった。
ひとりの母親が、息子相手にこうなったのだ。なにをしたのかは追求しなかったが、それを行える人間のことは知りたくなった。
「カノンの父親って、ヤクザかなにかなのか?」
「そんな物騒なものじゃないよ。ただの誰もが知ってるようなグループ企業の会長さん」
「それは『ただの』じゃないと思うんだが……」
誰もが知ってるようなと言われても、会社のことなんてわからない。やんごとなきお方とカノンは評したくらいだから、名前を聞き出すのは止めた。
以来俺は、住民票に載っている家に戻ることはなく、本格的にカノンの家に暮らすようになった。
そうやって家庭の問題を解決したら、今度は学校に不満を覚えるようになった。くだらないことで言い争い、対立して、小競り合いを起こし、誰かが泣く。その度に関係ないものを含めて、全員が連帯責任のように叱責され、足並みを揃えなければならない環境が、バカらしく思えたのだ。
ようは他人の不始末で、なぜ俺まで放課後も長々と残らされなきゃならないのか。帰りが遅かった説明もかねて、カノンにその不満を漏らしたら、
「だったら行かなきゃいいよ。勉強くらい、僕が見てあげるから」
そう言ってくれたので、俺は次の日からあっさりと行かなくなった。どうせ学校から対応を迫られるのは母さんだし、それで起きる問題なんてどうでもよかった。
それからはずっと、四六時中カノンといた。
この環境を与えてくれたカノンに報いるように、家のことや身の回りのことはすべて俺がやった。できることが増えていくにつれて、カノンはだらしなくなって、わがままになっていく。そんなカノンに振り回されながら面倒を見る俺は、完全にお母さんになっていた。
それでも不満らしい不満は、一度も覚えたことはなかった。――嘘だ。突然手作りチョコを作れと駄々をこねられたり、思いつきで今から旅行に行こうと言い出したり、地雷とわかっている本を進めてくるのは不満でしかない。そうめんを茹でているとき、ちょっと鍋を見といてくれと頼んで、五分後に戻ってきたら火だけ消して放置されていたときは、初めてカノンに殺意が湧いたくらいだ。
でも、嫌気が差したことは一度もない。
この先ずっと、カノンと一緒にいるものだと、当たり前のように信じていた。その側を離れることなんて、自分からは考えもしなかった。
あの日、イツキから連絡が来るまでは。
イツキとの電話が終わってからも、リビングでしばらくの間、ソファーに座り込んでいた。
「浮かない顔してどうしたのさ?」
「そんな顔してたか?」
いつの間にか隣に腰掛けていたカノンに尋ねられ、そう返した。
「うん。弟くんと電話してたんでしょ。なにかあったの?」
「なにかあったはあったな。めでたいことがな」
そんな顔をすぐ取り繕いながら、どうめでたい内容だったのかを語った。
「へー、遠距離になった彼女ちゃんのもとへ行けるんだ。よかったじゃん弟くん」
他人事のように拍手をしながら、「で」とカノンは続けた。
「そこからどうして、あんな顔になったわけ?」
カノンは最初の質問を繰り返した。
俺が抱えた一抹の憂慮。今更隠せる相手でもない。そんなのは初めて出会ったときからわかっていた。
「父さんの長期出張にさ、向こうのお母さんがついていく予定だったらしいんだ。でもイツキが家を出るなら、妹ひとりを家に残す形になるからさ。結局父さんひとりで、行くことになりそうだってさ」
「それのなにが問題なの?」
「その出張は、できなかった新婚旅行の代わり。夫婦水入らずのつもりだったらしい」
「あー。弟くん、それが自分のせいで台無しになった、って負い目に感じちゃったんだ」
「そういうわけだ」
「けどお父さんたちは、弟くんのこと応援してるんでしょ? だったらもう、子供らしく甘えておけばいいじゃん」
よく駄々をこねる子供が、大人目線の考えを口にした。
「うちの弟は、それを気にしすぎるいい子ちゃんなんだ。向こうの妹も、なんとかならないかって、突拍子もない案を出したらしい」
「どんな?」
「イツキが出ていく代わりとして、俺に来てもらえばってさ。そしたら家を空ける全員、安心できるから」
「たしかに妙案だね」
顎に手を添えながら、カノンはうんうんと頷いた。
「行ってきたらいいじゃん」
「は?」
「弟くんの代わりに、向こうの家にさ」
マヨネーズを切らしていた昼間のときと同じ、買ってきたらいいじゃん、という顔でカノンは言った。外が吹雪いていようが、家から出ない自分には関係ないあの口ぶりだ。
「待て……待て待て」
頭を抱えて待ったをかけた。
マヨネーズを自作することで事なきを得た、昼間とはまるで状況が違う。
「そんな旅行感覚で決めることじゃないだろ」
「でもイッセイ、妙案だって思ったからあんな顔してたんでしょ」
「それは……」
「弟くんのために行ってあげたいって、考えちゃったんじゃない?」
ジッと見つめてくる翠の瞳から、逃げるように目を伏せた。
たしかにそれは考えた。これから先、イツキの通うことになるのは、世界から凄い人間が集まる学校だ。今までとはレベルが違う。父さんたちの負い目とか憂慮なんてものに、後ろ髪を引かれている場合ではない。
俺が行くだけでそれが解決するなら、行ってやりたかった。
「でもさ、そんな簡単な話じゃないだろ」
「簡単なことだよ。だって向こうの母親さえ納得したら、後はどうにでもなるから。弟くんの代わりに学校を通うっていうなら、父親に頼んであげるよ」
「頼むって……」
「僕の父親も多分、こういうなにかあったときを想定して、通信制でもいいから高校に行けって言ったんだと思うから」
カノンの当初の予定では、高卒認定試験だけこなして、大学に入るつもりだった。でも通信制とはいえ、カノンが素直に高校生をしているのは、父親がそれだけは譲らなかったからだ。
たしかにイツキの代わりとして行くのなら、近所の目もある。きちんとした高校に通ったほうがよさそうではあるが。
向こうに行く問題は、向こうの母親を納得させるだけで済む。無理筋だと思っていた悪路が、塗装された路面のように拓かれた。
後は俺の意思ひとつだが、それが一番の問題だった。
「そんな簡単に言うけどよ……カノンは、それでいいのかよ」
「イッセイがそうしたいって言うなら、協力するよ」
いつもと変わらぬ調子でカノンは言った。
ホッとしたのは、止めないよ、という言葉が出てこなかったことだ。そんなこと言われたら、おまえがいなくなっても困らないと告げられたようできつかったろう。
自分の気持ちより、俺のやりたいことを尊重してくれる。それは素直に嬉しかった。
「でも……俺がいなくなったら、色々と困るだろ」
「もちろんだよ。イッセイがいなくなったら、ご飯は自分でなんとかしないといけないし、部屋だって自分で片付けなきゃならない。髪も自分で乾かさなきゃいけないし。うん、困ることだらけだ」
「だったら――」
「でもイッセイは、僕の便利な家政婦じゃないから。あのときのように、イッセイの気持ちは尊重するよ」
あのときのように、包み込むような優しい笑顔を向けられた。
あの日、イツキの兄貴というプライドを、その強がりをカノンは尊重してくれた。これはあのときと一緒だと。
自分のことは考えなくていいと。
自分のことだけを考えていいと。
そうやって俺の背を押してくれている。
だから問題があるとしたら、後は自分の気持ちだけだった。
「なあ、カノン」
「なんだい、イッセイ?」
「好きだ。これからもずっと一緒にいたい」
俺自身が、カノンから離れたくないのだ。
イツキの幸せ。その助けになってやりたいと思う以上に、自分の幸せから離れたくなかった。
俺の兄としての矜持よりも、カノンへの想いのほうが上回っていた。
そもそも後ろ髪を引かれている場合じゃないといっても、思い詰めるほどのものではない。イツキもいい歳な上に、彼女だっている。それなのにまだ、あれもこれもと世話を焼こうとするなんて、これでは俺が弟離れできていないようではないか。
そう自分を納得させたから、やっとカノンに想いを告げられたのだ。
返ってくる答えに自信はあるが、いざ言葉にすると不安になった。
突然の告白にカノンは狼狽えることなく、目を瞬くこともない。大きな翠の瞳がいつものようにこちらを覗いている。
「ねえ、イッセイ」
「なんだ?」
「前にイッセイ、初恋の相手がいるって話をしたでしょ?」
「ポロっと漏らしたものを、おまえがしつこく聞くからな」
「その話を踏まえると、僕って二番目に好きなった女ってわけになるよね」
生真面目な面持ちで、こちらが頷きづらい事実を告げる。
品定めするようにカノンは細めた目を向けた。
「つまりイッセイの恋心は、使用済みってことにならない? 中古はちょっとな……誰かの払下げはごめんだよ」
「おまえ最悪だな」
一世一代の告白が、考えが及ばないレベルな最悪なお断りをくらった。
振られたことに顔を赤くすればいいのか、青くすればいいのか、苦虫を噛み潰したようにしたらいいのか、それがわからない表情を作っていると、カノンはおかしそうにくつくつと笑った。
「君の
笑い止んだと思ったら、カノンは差し出してきた両手で、あの日のように俺の頬を包みこんだ。
「なに、たったの一年だ。ちゃんと待ってるからさ。帰ってきたらまた同じ言葉を聞かせてよ」
そっと近づいてきた顔は、唇が重なることはない。こつん、とカノンはおでこ同士をぶつけた。
しばらくそうした後、一時間後には夜行バスに乗って、次の日にはイツキと再会した。
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