29 僕の言う通りにやれば、全部上手くいくからさ

 カノンの家は、平屋の一軒家。外装は築年数通りの古さを感じさせるが、中はリフォームされているのか綺麗なものだった。


 誰もいないと言ったとおり、ここにひとりで暮らしているようだ。


 父親が出張で家を空けているわけでもないらしい。そのことについてリビングで温かいココアを飲みながら、


「僕はね、やんごとなきお方の隠し子なんだ」


 含みを持たせてカノンは答えた。


「いわゆる妾の子ってやつだけど、意味わかる?」


「愛人の子供ってことだろ?」


 あけすけに言ったほうがカノンは好むと思い、遠慮なく言った。


 読み通りカノンは、正解を出した生徒を褒めるように笑んでいる。


「まあ愛人って言っても、向こうは奥さんに先立たれてたらしいけどね。浮気ではなかったって」


「でも愛人扱いってことは、周りに隠してたんだろ?」


「母さんとそういう関係であることを、表に出せない理由があるんだ」


「どんな理由だ?」


「なんと僕の父親には、孫がいるんだ。それも僕と同年代のね」


「それって……」


「立場のある人が、子供たちくらいの女と関係を結ぶのは、世間体が悪いだろ?」


「あー、たしかに母さんくらいの歳の愛人が、爺ちゃんにいたら嫌だな」


「そういうこと。そこは母さんも弁えてたらしいから、認知は求めなかったらしい。お家騒動とか起こって、僕になにかあったら嫌だったってさ」


「お家騒動って……」


 テレビや漫画でしか聞かない言葉に、つい顔をしかめた。どれほど凄い立場の人なのだろうか。


「父親とは会ったことがないし、会いたいとも思わない。でも僕にとって悪い人ではないのも本当だ。養育費はかかさず払ってくれて、祝い事も必ず弾んでくれたって。母さんも僕の写真だけは送ってたらしい」


「じゃあ、ひとりになってもここで暮らせてるのは」


「後見人になってくれる人をよこしてくれたんだ。僕の意思を最大限尊重してくれるってさ。本当は、僕を手元に起きたいらしいけどね」


「お家騒動が起きてでも?」


「もう一線を退いたから、昔とは事情が変わったようだ」


「でも父親のもとには行きたくないのか?」


「今更新しい家族なんて、欲しくないから」


 特に感じ入る様子も見せず、あっけらかんとカノンは言った。


 血の繋がった父親に、負の感情を抱いているのではない。カノンにとって家族と呼べるのは母親だけだと暗に示したのだ。


「それに物心がついた頃から、この家で育ってきたからさ」


 ココアを飲みながら、カノンは父親のもとへ行かないもうひとつの理由を答えた。


 母親との思い出が詰まった、生まれ育った家。唯一残った母親との繋がりを、大切にしたいのかもしれない。


 母親がいる家に戻りたくない自分と、母親がいた家から出たくないカノン。境遇は正反対なのに、短い時間で親近感が湧いてきた。この地に来てから初めて、気が抜けるような安らぐ時間を得られたのだ。


 両親がいないからこそ、遠慮なく居座れた。この家から出るのを惜しんだばかりに、帰る頃には八時を回っていた。


 図書館で勉強してたとでも言えばいい。そんな言い訳をカノンから与えられながらも、怒られるかとビクビクして帰ったが、家には誰もいなかった。よくよく考えれば、この時間に母さんがいないのも、最近は珍しくもなかったのだ。


 拍子抜けした俺は、次の日からカノンのもとへ通い続けていた。遠慮なくおいでよという言葉に甘えたのだ。


 学校から真っ直ぐカノンの家に向かった。


 休日は起きたらすぐにカノンの家を訪れた。


 いつしかカノンの家に帰る、という感覚が生まれていたのだ。


 さすがに図々しいかと思うこともあったが、遊び相手が初めてできたと無邪気に笑う、カノンの言葉を信じた。


 それでもやはり、貰いすぎている引け目を感じないわけでもなかった。それを感じ取ってか知らずか、


「そうだ。イッセイってさ、料理ってできる?」


 ベッドで本を読んでいるカノンが、脈絡もなく言い出した。


「料理? あー、りんごの皮むきくらいはできるけど、それ以外は調理実習くらいだな」


 りんごの皮をどれだけ長く向けるかにハマっていた時期がある。テレビで芸人が挑戦しているのを爺ちゃんの家で見て、頂きもののりんごを持て余していたから、婆ちゃんが教えてくれたのだ。


 イツキがキラキラした目で凄い凄いと見るものだから、得意げになって剥きまくったものだ。


「だったらカレーとか、作ったことある?」


「林間学校で作ったことはあるけど……なんだ、カレー食べたいのか?」


「うん。久しぶりに家のカレーが食べたいなって」


 軽い思いつきだったのかもしれない。それこそ読んでいる本の中で、たまたまカレーが出てきたから、思ったことがそのまま口に出たのだろう。


 それをわかっていながら、無理だとすぐに答えなかったのは、叶えてやりたいと思ったからだ。


 カノンは母親を亡くしてから、ずっとコンビニ弁当や通販の冷凍品、出前などの食生活だった。俺より優雅な食生活とはいえ、母親が作ってくれたご飯が恋しくなったのかもしれない。


 ずっとカノンには与えてもらっているからこそ、なにかの形で返したい。そう思ったのだ。


「じゃあ、今日はカレーにするか?」


「え、作ってくれるの?」


「上手くできるかはわからんぞ。それでもいいならやってみるが」


「いいよいいよ。やってみてよ」


 遠足前日のようにカノンは目を輝かせた。


 その期待に応えたいと願い、早速カレーの作り方を調べた。カノンはパソコンを使いこなしているので、こういうときは動画サイトだと、そこでカレーの作り方を復習した。


 スーパーでは、俺がカレーの材料を集めている横から、ジュースやおかしなどをカノンがこっそり買い物カゴに入れていく。僕はやってませんなんて顔をしながら、ニヤニヤと楽しそうだった。


 初めて大人の目がないところで、始めた料理。包丁の扱い方だけは心得ていたので、自分でも意外なほどにあっさりと、カレーは完成した。


 指を切ったり、鍋を焦がしたり、カレーがしゃばしゃばになったりと、失敗らしい失敗はなかったが、凄い美味しいと呼べるものではなかった。


「うん、美味しいよイッセイ」


 でもカノンは、一口目から絶賛してくれた。


「こんな美味しいもの、久しぶりに食べたよ」


 いつもいいものを食べているはずなのに、カノンは心から満足そうに舌鼓をうっていた。そう言われたらたしかに美味しい気がしてきたのだから、不思議なものだ。


 誰かと一緒に食べる手作りの温かいご飯。自分たちが長らく欠いていた、一番のスパイスだったのかもしれない。


 以来、カノンの家でご飯を作るのが、俺の日常となった。


 カノンの母親が揃えた料理本や、書き残したレシピ。ネットなども上手く活用しながら、メキメキ腕を上げていった。


 イツキと父さんと離れたこの遠い地に、居場所が生まれたのだ。


 母親がスナックに勤め始めてからは、いよいよあの家に戻ることはなくなった。どうせ寝ている時間は帰ってこないのだから、家を空けていてもバレる心配はない。カノンの部屋で寝起きして、学校へ行く日常。関東より長い冬休みも、年越しも、ずっとカノンとふたりで過ごしていた。


 どれだけ戻りたくなくても、親に見せるプリントだけは、やはり家に置いてくる必要はある。


 その日は学校から真っ直ぐ、あの家に戻ったのだが、間が悪かった。


 母さんが家に男を連れ込んでおり、タバコの煙がリビングを満たしていた。前見た男とはまた別な、頭に剃り込みが入ったガタイのいい男であった。


 駐車場に他の車がなかったから、母さん以外いないだろうと思ったのが、失敗だった。


 トイレに人がいる気配があったから、母さんはそこだろう。


 嫌な相手とふたりきりになったと息を呑みながら、俺は無言でプリントをテーブルに置いて、そのまま身を翻したら、


「おい、挨拶はどうした?」


 ランドセルを掴まれ無理やり引き止められた。


 不機嫌そうな男は、ギラギラとした目で睨めつけてくる。


 こんな奴と言葉も交わしたくないと、俺は思い切り身をよじらせ、掴んできた手を振り払った。その瞬間、俺は前方に吹き飛んだ。


 ランドセルごと蹴られたと気づいたのは、後に振り返ってからだ。


「なにしてるのよ!」


 丁度トイレから戻ってきた母さんが、地面に倒れ込んでいる俺を見て叫んだ。でも駆け寄ったのは俺ではなく、男のほうへだった。


「どうもこうも、このガキのしつけ、どうなってやがる! 挨拶ひとつないどころか、生意気な態度を取りやがってよ」


「ちょっと一成。どういうことよ」


 暴力を振るわれた息子を一切慮ることなく、与えたのは非難めいた口ぶりだけ。


 胸を打ち、息ができずにゲホゲホ言いながら、なんとか立ち上がろうと四つん這いになる。そのとき振り向いた俺の顔が気に入らなかったのか、男がにじり寄ってきて、俺の髪を掴んで振り向かせた。


 くわえていたタバコを掴むと、男はそれを顔に近づけてきた。


「ちょっと!」


 母さんが慌てて叫んだ。


 さすがにこればかりは度が過ぎていると、止めに入ってくれた。


 ここまで変わってしまったとはいえ、やはり母さんは俺の母さんだった。当たり前のように味方してくれたことが嬉しかった。


「顔は止めてよね! 学校になんて説明するのよ!?」


 でも、それが俺を思っての行動ではないと知り、落胆した。


 考えているのは保身だけ。俺自身が痛い目や怖い目にあうことは、まるで気にしていない。最後に残っていた母さんへの期待が、失った瞬間だった。


「たしかにそれは面倒くさいな。でも、生意気なガキを教育しないのもダメだろ」


 俺の上着を剥ぎ取るようにファスナーを外し、中のシャツごと服を捲くられた。


 このときのことを覚えているのはここまでだ。


 気づけばカノンの家の前にいた。


 やることをやって解放されたのか、隙を見て逃げ出したのかもわからない。ランドセルも上着も身につけておらず、ただ全身に満たされた虚脱感と、氷点下の中で冷え切った身体、そしてじんじんとする胸の痛みが、あれは現実に起きたことだと思い知らせた。


「どうしたのイッセイ!?」


 カノンが出迎えるなり、険しい表情で俺の両肩を掴んだ。


 尋常ならざることが俺の身に起きたのは明白だった。


 カノン相手に今更、なにもなかったなんて強がりは通用しない。ただ泣くことだけは堪えながら、淡々と起きたことを説明した。


 俺の服を捲って、痛々しいものを見るような目をしたカノンは、


「警察に行こう、イッセイ」


 すぐにそう提案した。


「警察……?」


「こんな言い逃れができない痕が残ってるんだ。必ず警察は動いて、イッセイをこんな目に合わせた奴を捕まえてくれる。母親の責任をどこまで問えるかはわからないけど、これは立派な虐待だ。イッセイがちゃんとそれを主張したら、必ずお父さんのもとに戻れるから」


 優しい声音に反して、掴まれた肩に力がこもった。怒りすら湧かないくらいに疲れ切った俺の代わりに、カノンは憤っているのだ。


 警察に駆け込むなんて、考えもしなかった。子供に虐待されたと駆け込まれて、相手してもらえるとは考えもしなかったからだ。でもカノンがそういうからには、きっとそういう風になるんだろうと思った


 その先にある未来を考えた。


「なんでだよ、イッセイ」


 かぶりを振った俺に、カノンは悲しげに口元を歪ませた。


「もしかして、母親を庇ってるのかい? 君のことをなんにも考えてない、ただ幸せを奪うだけの母親のことを……」


「……違う。そっちはもう、どうでもいいんだ」


 あの母親にはもうなにも期待していない。最後の欠片を失ってきたばかりだから。母親への愛情は、とうに底をついている。


「こんなことがあったなんて、イツキに知られたくない」


 だから警察へ駆け込むのを躊躇っているのは、そのたったひとつの強がりだった。


 本当は父さんにも知られたくないけれども、あの母親のもとから離れられるのなら、それは必要経費と考えられた。でもイツキにだけは知られることだけはダメだった。


「俺はさ、イツキにとってなんでもできる憧れなんだよ。なにかあったとき、俺を頼れば全部上手くいくって信じてる。そんな偉大な兄なんだ。母さんが変わったのは承知の上でも、今頃あいつは、俺は上手くやってるんだろうなって信じてるんだ。


 だからもし、俺がこんな目にあってるなんて知ったら、イツキの人生の負い目になる。あの日、自分が漏らした泣き言が、俺が母さんについていくという決着をつけたからさ。それがこんな結果を招いたなんて……イツキの重荷にだけはなりたくない」


「言いたいことはわかったけど……弟のために、そこまで自分を犠牲にする必要は、本当にあるのかい?」


「違うんだ、カノン。これは、俺のプライドの問題なんだ」


「プライド?」


「どんなときもあいつの前では、凄い兄貴でいたい。ただ、それだけなんだよ。カノンに出会うまでは、その強がりだけが俺を支えてきたんだ」


「イッセイ……」


 これだけは譲れないものだと見せられたカノンは、呆れることはしなかった。


 ただジッと、その吸い込まれそうな翠の瞳で俺を覗いている。


「わかったよ、イッセイ」


 カノンは包み込むような優しげな笑みを口元に浮かべた。


「でも警察に行くのは絶対だ。イッセイをこんな目にあわせた奴を、許すことだけはできないからね」


「いや、でもそれだと――」


「わかってるよ。こんなことがあったと、君のお父さんに伝わらないよう上手くやる。その方法はちゃんと僕が考えるから」


 自信満々にカノンは言った。


 カノンが凄い奴だとは認めていても、警察が動くなると大事になる。いくらカノンが年並外れた子どもといえど、大人の世界はそんな簡単ではないと思うくらいの常識はあった。


 不安そうな俺の顔を、カノンは両手で包みこんだ。


「大丈夫だよ、イッセイ。僕の言う通りにやれば、全部上手くいくからさ」


 その言葉はまるで、すべての不安を取り除く魔法のようだった。

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