28 カノン
目を奪われたのは一瞬で、次に湧いたのは疑問だった。
こんな北の果てのような地に似つかわしくない女の子が、いきなり目の前に現れたのだ。こんなにも親しげに声をかけられる覚えがないので、理解が追いつかなかった。
「君、いつもここで勉強してるね。なんで?」
少女は不思議そうに首を傾げながら、真っ直ぐと見つめてくる。
どこか吸い込まれそうになるその瞳から、振り切るように顔を逸らした。
「なんでそんなこと、聞かれなきゃならないんだよ」
「気になったから」
「知らない奴が、なにをしてたってどうだっていいだろ」
「じゃあ教えてよ、君の名前」
「はぁ?」
「名前がわかったら、もう知らない奴じゃないだろ?」
当たり前のようにそう口にするから、呆気にとられた。
知ってる奴が不思議なことをしているから聞きたい、ならまだわかる。でも知らない奴がなにをしているかを聞くために、知ってる奴になろうとする。順序が逆で、発想が滅茶苦茶であった。
こんな奴を今まで見たことがないわけではない。友達ですらない相手の不思議や秘密を嗅ぎ回ろうとする奴は、前の学校にもいた。ようは面倒くさくて煙たがられるタイプだ。
変なのに絡まれたと顔をしかめていると、
「僕は、カナタマキ」
これで自分は知らない奴じゃないだろ、と主張するようにカナタマキはニコリとした。その口は思い出したように、あ、の形を作った。
「ちなみにカナタのほうが名前だから」
「……外国人なのか?」
「ただのハーフだよ。日本生まれの日本育ち」
カナタは毛先を摘んでみせた。
この地に相応しくない容貌と、流暢な日本語に納得がいった。
「じゃあ、両親のどっちかがロシア人なのか」
「そう勘違いされることは多いけど、違うよ。母親はフィンランド人。マキって性は、『丘』って意味なんだ」
「じゃあカナタも向こうの言葉?」
「そっちは日本語。奏でる音って書いて、
「へー……、って」
その名前に思い至り、目を見開いた。
「もしかしておまえ、5年3組の?」
「それを知ってるってことは、やっぱり南小の生徒だったんだ」
「知ってるもなにも、同じクラスだからな」
転校先のクラスには不登校児がいる。一年生の頃からまともに通っていないらしい、くらいの話はクラスメイトから聞かされてはいた。
クラス名簿には『マキ奏音』と載っており、名字がカタカナなのは、誤植をそのまま放置しているのかくらいに考えた。後になって、子供たちにわかりやすい表記で書かれていたのだと思い至った。
不登校児といえば、もっと鬱々としているものだと勝手に信じていたが、カナタはそんなものとは縁遠い。気になったことがあれば、知らない男子にも話しかけるくらいには、明るく社交的な女の子だ。それも学校にいる女子たちが、束になっても敵わない魅力的な容姿をしている。
文字通り住む世界が違う。雑草を詰め込まれたような
それよりも、名前について言いたいことがあった。
「てっきり、カノンって読むのかと思ってた」
「だったらそれでもいいよ」
「いいのかよ」
「あだ名みたいでいいじゃん」
あっけらかんとカノンは言った。
「クラスメイトをあだ名で呼ぶってことはほら、もう知らない奴じゃないだろ?」
「まだその話、続いてたのかよ」
「続く続く。むしろ本題だから」
なにがそんなに楽しいのか、カノンはジッとこちらを見据えてくる。話すまでここを動かないと、訴えかけてくるようだ。
だったら俺が移動すればいいだけだが、なんだかそれも癪だった。それに今日逃れることはできても、また明日見つかったら、同じことの繰り返しになりそうだ。
かといって、自分の身に起きていることを正直に、クラスメイトに話すのも嫌だった。相手が女ならなおさらである。
「学校での立場とか見栄とか、気にしなくても大丈夫だよ」
悩んでいると、カノンがその心の内を見抜くように言った。
「知っての通り、学校なんて行ってないからさ。今日した話が、学校に持ち込まれることはないよ」
「……なんで、学校に行かないんだ」
「頭の悪い奴らに足並み揃えるとか苦痛だから」
「じゃあ漫画の金持ちみたいに、家庭教師でも付けてもらってるのかよ」
「学校が教える程度の勉強に、そんな大層なもの必要ないよ。全部自分で考えて、調べながらやってる」
「マジかよ……」
「はい。僕への質問は答えた。今度は君の番だね」
最初からそう取り決めていたかのように、カノンは『なんで』という顔をまた見せた。
俺の身の上に起きていたことは、子供なりの意地で、学校の誰にも知られなくない話だった。前の学校ではいつもクラスの中心的存在だったから、可哀想な奴として扱いされたくなかった。落ちぶれてしまったのを認めたくなかったのだ。
そんな話を探ろうとしているカノンに、しつこいなという怒りはもう湧いてこなかった。質問に答えるための口をこじ開けたのは、どちらかといえば諦念である。なにせカノンは自分でそう言ったように、学校の人間ではなかったから。
「ふーん。酷い母親もいるもんだね」
この橋下にたどり着いた経緯を一通り語ると、カノンは深刻さの欠片もない口調で感想を漏らした。
人がこれだけ苦労しているのに、という怒りはやはり湧いてこなかった。憐れまれるよりは、テレビに映し出された不幸のように扱われたほうが、気が楽だった。
「僕のお母さんは最後まで、僕のことを一番に考えてくれた人だったからさ。やっぱり母親も色々なんだね」
しみじみとカノンは無神経なことを言う。
母親のせいで辛いって話をしているのに、自分の母親は素晴らしいと語るのだ。
文句のひとつを言っても許される立場だが、それ以上に気になることがあった。
「……最後まで?」
「春にね、お母さんいなくなっちゃったんだ」
「いなくなった……?」
「ああ、出ていったとかそういうのじゃないよ。車に撥ねられて、助からなかったってだけの話」
あっけらかんにそんなことを語るものだから、こちらが戸惑った。
春にということは、亡くなってまだ半年くらいだろう。なのに母親を語るその顔には、悲しみの陰りが見受けられなかった。
掘り下げていいか悩みながらも、おずおずと尋ねた。
「母親のこと、好きじゃなかったのか?」
「まさか。世界で一番大好きだよ」
「そうなの、か? それにしては、あんまり悲しそうじゃないからさ。まだ、亡くなって半年くらいだろ」
「だったら、どのくらい経ってたら納得できるの?」
「納得って?」
「こんな顔でお母さんのことを話すの。少なくても一年は、立ち直るべきじゃない?」
「そんなことはないけど……」
「なら、半年でも三ヶ月でも一ヶ月でも、次の日でも一緒じゃん」
「さすがに次の日はどうかと思うぞ」
「たしかに極論だけどさ。結局この悲しみは、僕とお母さんが今日まで築いてきたものの問題だから。天国も地獄も輪廻転生も信じてなんていないけど、僕は僕なりに死んだお母さんに向き合って、悲しませない生き方をしてるつもりだから。そんな僕を見て、なんでこいつは悲しそうにしていないんだって、負の感情を抱く他人の気持ちなんて、考える必要はない。そんな奴らがそれで憤死しようが、どうでもいいし」
なにかに怒りを覚えているわけでもなく、カノンは持論を淡々と語った。
母親を亡くしたクラスメイト。ここまで清々しく振る舞われたら、たしかに他人がどうこう口にするべき問題ではないと納得した。
同時に思ったこともある。
「カノンが学校に行かない……っていうか、向かない理由、わかった気がする」
「頭の悪い人間と足並み揃えるのって苦痛だから」
「そんな苦痛になるような人間の話を、なんでわざわざ聞き出したんだよ」
「君は頭の悪い感じがしないから、かな」
「橋の下で勉強してたから?」
「違う違う。理知的……って顔じゃないのはたしかだけど」
「おい」
俺が睨めつけると、カノンはおかしそうにくつくつと笑った。
「君はひとりの人間として会話できそうだから」
「やっぱバカにしてるだろおまえ」
「してないよ。褒めてる褒めてる」
「本当か?」
「さっきの話に戻るけどさ、僕のいう頭の悪い人間っていうのは、自分の価値観が絶対であり、それから逸脱した人間を責め立て、悪人のように扱う連中のことだ」
「もしかして……そいつらがさっき言った、憤死しようがどうでもいい奴ってことか」
「正解」
偉い偉いと頭を撫でてくるカノンの手を振り払う。乱暴にされてもカノンはなお、おかしそうにしている。
「そういう奴らってさ、僕の母親の死への向き合い方を知ったら、絶対子供らしくないって喚き出すから。どれだけ僕が言葉を尽くしても、せめて悲しそうなふりをしろって、矯正しようするんだ。僕のためじゃなくて、自分が気に入らないからね。ほら、そんな話し合いをする気がない連中と、足並みを揃えるなんてバカらしいだろ?」
「教師が嫌いなのか?」
「嫌いじゃないよ。嫌いって感情はさ、覚えるだけカロリーの無駄だから。彼らの都合を、僕が考える必要がないってだけの話だ。そもそもこういう話は、教師だけに限ったものじゃない。クラスメイトもこんな僕を見て、お母さんが死んだばかりなのにヘラヘラしてるって、後ろ指を指してくる奴って絶対いるだろ?」
「絶対出るだろうな」
「結局それも、自分には理解できないものを、爪弾きにしたいだけだから。そんな自分勝手な感情から生まれたものに、なんで僕が気を遣わなきゃならないんだ、ってなるからさ。だったら最初から、頭の悪い奴らの輪に入らなければ、いいって考えたんだ。それこそ勉強なんて、ひとりで進めたほうが効率もいいしね。幸い、お母さんは理解ある人だったから」
「頭がいいっていうか、前向きっていうか……自分の考えをそうやって貫けるなら、なんかカッコいいな」
「素直にそう思ってくれる君とは、やっぱり話が合いそうだ」
カノンは立ち上がると、そのまま手を差し伸べてきた。
「寒いだろ。うちに来なよ」
友達を相手するように、当たり前に誘ってきた。
その手を取る選択肢が、自然と浮かんできた自分に驚いた。
今日会ったばかりのクラスの不登校児。それも女子だ。でも子供らしかぬ言葉と価値観を繰り、語るその様は、まるで異世界の住人のような異彩を放っていた。
まるで俺に救いをもたらすために、漫画のヒーローが飛び出してきたかのようだった。
気づけば俺は、ぽつりと漏らしていた。
「いいのか?」
「遠慮はいらないよ。どうせうちには、誰もいないからね」
空虚のような言葉とは対照的に、カノンは底抜けの明るさを見せつけてきた。
その手を掴んで立ち上がると、カノンは尋ねてきた。
「そうだ。君の名前は?」
「一成」
最近変わった名字は使いたくなかった。その気持ちを見抜いてくれたのか、カノンはそのことを追求することはなかった。
「なんて書くの?」
「一番の一に、成功の成」
「それで一成か。じゃあ、イッセイで」
「いきなりあだ名かよ」
「いいじゃん。君だってカノンって呼ぶんだし」
少年のような笑みを浮かべるカノンに、俺はこれ以上の抗議はしなかった。
カノンの唐突な強引さは、それが生来の持ち味のように自然に思えたから。
家に案内するその背中を見て、この先カノンとは、長い付き合いになるという確信だけは胸の中にはあったのだ。
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