27 やあ、こんにちは

「いやー、参った参った」


 帰り道で通り雨に見舞われた。近所のセブンは季節品が売り切れだったから、わざわざ足を延ばしたのが失敗だった。代わりのものを見繕って帰ればよかったと後悔した。


 ずぶ濡れとなった俺を出迎えたのは、二階から響いた姦しい笑い声。春夏冬たちがノエルとも打ち解けたのは、それだけで伝わった。


 階段の手すりにビニール袋を引っ掛け、雨に見舞われた旨を告げ、そのままシャワーに入った。


 髪を乾かし、腰にバスタオルを巻いて二階へ上がる。


 私室の扉を開けると、中には女三人が残っていた。半裸の男がいきなり入場してきたことに、室内は耳をつんざくような悲鳴で満たされた。


 階段のシュークリームは回収されて、扉がしまっていたので、まだ部屋に残っていたとは思わなかった。


「ちょっと、なにそんな格好で入ってきてるのよ!」


 三人一様に目を両手で覆ってる中、真っ先に非難してきたのは春夏冬だった。


「文句を言いたいのはこっちだ。着替えを取りに来るとわかっておいて、なんで部屋に残ってるんだよ」


「話に夢中で、そこまで深く考えてなかったのよ。悪い!?」


「なに大義は我にありみたいなこと言ってんだ。10―0でおまえらが悪いに決まってるだろ」


「そんな姿を見せつけてきた時点で、男のほうが悪いに決まってるでしょ!」


「おまえたちが一番好きな男の顔が、半裸を晒してるんだ。むしろポロリを期待するくらいには感謝しやがれ」


「そんな身体、誰も見たくないわよ!」


「指の間から覗いてる奴がなに言ってやがる。興味津々じゃねーか」


「誰が興味津々――」


 春夏冬の勢いが、急に途切れた。


 顔に覆われた手が、ぶらんと剥がれ落ちていく。


 開き直って、マジマジと見てやろうなんて考えではないのはすぐにわかった。


「あんたその胸……どうしたのよ?」


 春夏冬は唖然としながら、人差し指をこちらに向けてきた。ただごとならぬ雰囲気に、御縁とノエルもその指さした先に視線を追った。ふたりとも痛々しいものを前にしたように眉をひそめた。


 失敗に気づいて、つい舌打ちをした。


 俺の胸に浮かぶ、白濁した三つの斑点。それが病気ではなく、外的要因によって変色しているのは明らかだった。


 見られたくない痕だからこそ、視線から身体を背けながら答えた。


「ヤクザの抗争に巻き込まれたときの弾痕だ」


「いや……そんなバレバレな嘘つかれても」


 そんなところに撃たれたら死ぬでしょ、という切れのあるツッコミを期待したのだが、春夏冬からもたらされたのは痛々しげな声音だった。


 御縁とノエルの息を飲む音が、全員これがなんの痕なのか、わかっている証である。


 下手に隠して、不名誉な事実として勘違いされても困る。


「言っとくが、学校に行ってなかったのは、これが原因じゃないからな」


「え……?」


「イジメられてたなんて勘違いされてもたまらんから、一応な」


「そ、そうなんだ……」


 そう説明したが、春夏冬は言葉を真に受けていいのか、ぎこちない受け答えだった。


 春夏冬だけが特別ではなく、ふたりもそう感じているのだろう。


 最低限のイメージを守るためには、素直に話すしかなさそうだった。


「離婚した母親に付いていった子供がその彼氏に、っていうのはよくある話だろ」


 タバコで付けられた根性焼きの痕は、大人につけられたものだと。


 ――ちょっと! 顔は止めてよね!


 あのときの母さんの言葉を思い出しても、今はもうなにも感じない。


「イツキと父さんには言うんじゃないぞ」


「……なんで?」


 ノエルは遠慮がちに聞いてくる。


「しっかりケリつけて、終わらせたことなんだ。今更知ったところで、無駄に悲しむだけだろ」


「無駄って……」


「わかったなら、着替えるから出ていけ」


 手を払ってみせると、これ以上の追求はなく、三人は部屋を出ていった。


「失敗したなー」


 下着を履きながら、ため息を漏らした。


 ケリをつけたというのは、強がった嘘でもない。とっくに終わったことだから、トラウマなんてものも抱えていない。綺麗さっぱり片付いたことだ。


 俺はイツキの兄だ。人生の目標にして、誰よりも尊敬できて、決して追い越せない背中である。なにかあったときは、俺を頼ればすべて上手くいくと信じられている、偉大な兄だ。


 偉大な兄の人生に、同情するような過去があってはいけない。いつも尊大ぶった顔の裏に、辛い経験や苦しい思いをしてきた人生が垣間見えてしまえば、偉大な兄はただの我慢強い兄に成り下がる。


 ただの我慢強い兄だったら、兄さんだって苦労してるんだ、このくらいのことで頼るわけにはいかない、なんてことをイツキは考えるだろう。そうしたらあのとき、電話をすることはなかったかもしれない。だから俺の苦労なんてなにも知らなくていい。


 偉大な兄なんてものは、結局イツキの思い出補正。それが肥大化した幻想にすぎない。


 たとえ幻想であったとしても、俺はそんな兄として振る舞う道を選んだ。


『大丈夫だよ、イッセイ。僕の言う通りにやれば、全部上手くいくからさ』


 あの日から、その強がりだけは貫き通すと決めたのだ。




     ◆




 カノンと出会ったのは、両親が離婚した年の十月だった。


 離婚の原因は、母さんの浮気である。相手は高校の同級生。街でバッタリ会って、連絡先を交換し、そのやり取りの先で……というやつだ。


 最初は母さんの反省を受け入れて、再構築していたのだが、今度はまた別の相手と浮気した。


 ずっと専業主婦として内側から家庭を支えていたが、一度覚えてしまった刺激のせいで、その生活サイクルが退屈なものに成り下がったのだ。母親から女に戻ってしまった、と俺は後に結論付けた。


 今度こそ離婚という話になったが、親権の問題で揉めに揉めた。浮気をしたという負い目があろうとも、母さんが親権を主張すれば、女が贔屓されるのが親権問題だ。


 母さんは家を出たわけではない。


 父さんも家にはかかさず帰ってくる。


 家はいつもギスギスとしており、あの頃は自分たちがこの先どうなるのか、とにかく気だけが重かった。


 ある日、限界に達したイツキが泣き言を漏らしたので、俺が決着をつけることにした。


 この生活はもう嫌だ、と。俺が母さんに付いていき、イツキが父さんについていくことで終わらせてほしいと告げたのだ。


 当時小学五年生の息子が、そんなことを提案するのだ。あのときの父さんの悲しそうな顔は今でも忘れられない。


 一方母さんは、財産分与に納得したように満足げだった。体調が崩しがちの気弱な弟よりも、クラスではいつも中心的存在だった兄のほうが、財産価値が高いとそろばんでも弾いたのだろう。。


 俺が母さんについていくと決めたのは、どちらについていくとこの先苦労するのか、容易に想像ついたからだ。


 イツキだったら耐えられないが、俺だったら耐えられる。そんな兄としての強がりが、母さんについていく道を選んだのだ。


 離婚が決まり引っ越してからは、予想以上に辛い日々が待っていた。


 毎日当たり前のように作られていた食事は、出来合いのものに変わった。そんなのはジャブにもならず、引っ越して一ヶ月後には、家に男を連れ込むようになったのだ。


 つい先日まで、父さんの妻だった母親が、知らない男と家で仲良くしている光景はそれだけできつかった。隣の部屋から聞こえてくる嬌声を、耳を塞ぎながら寝るのが辛かった。


 学校から帰ってきて、アパートに男の車が止まっていたら、近所の河川敷で時間を潰していた。休みの日は昼飯代だけ持って、朝から家を出て、日が暮れたら帰るを繰り返していた。それに対して一言もなかったのは、邪魔ものが進んで家を空けてくれるのだから、ひとつの親孝行として扱われていたのかもしれない。


 家庭から解放された。妻という枷が外れた。本当は母親という役目からも降りて、自由になりたかったのだろう。それでも親権を主張したのは結局、子供への愛情ではなく、女の意地。自分が生み育ててきたものを、父さんにすべて持っていかれるのが気に食わなかったのだ。たったそれだけの理由で、子供を父親から引き離した。


 父さんと離れてからいいことなんて、ひとつもない日々だった。それでも泣くことだけは絶対にしなかった。


 一度泣いてしまえば、この先些細な辛さにも耐えられたくなるような気がしたから。


 泣き出しそうになったときは、母さんについて行ったのがイツキじゃなくてよかった。俺でよかったと、考えるようにしたのだ。


 兄としての矜持つよがりだけが、一線を越えぬ心の支えであった。


 その日も、関東では考えられない十月の寒さに、河川敷の橋下で震えていた。


 人目を避けるように、暇つぶしの教科書を見ていると、


「やあ、こんにちは」


 耳馴染みのない声が降ってきた。


 すぐ近くから聞こえてきたが、それが自分に向けられたものとは思わなかった。ただジッと、教科書に目を落とし続けていると、


「やあ、こんにちは」


 今度は耳元で同じ言葉が繰り返された。


 咄嗟に耳を押さえて、身を引いた。


 くすくすと、鈴を転がすような笑い声。そこに目を向けると、しゃがみながら頬杖をついている、同年代の子供がいた。


 可愛いと評するのも、美しいと形容するのも違う気がする。別世界の住人を模した、美しい人形のようだった。差し込む夕日に照らされた、キラキラと輝いている銀髪が肩の上で揺れている。宝石のような翠の瞳が、人懐っこそうに俺を映し出していた。


 照れくさくてイツキにも話せていない、去年出会った初恋の少女。それに負けず劣らずな女の子だった。

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