23 明日、一度そっち行くわ

 玄関が閉まる音が、扉が開け放たれた部屋まで届いた。


 一成が家いなくなったのを確信した天梨と華香は、示し合わせたようにベッドの横に並んだ。座る場所がここしかないから、みたいな顔をしながらふたりは腰掛ける。十秒くらいしてから後ろに倒れ込み、ゴロンと横になった。まるでベッドの主が残した、匂いや温もりを求めるように。


「それ、一成くんが使って二ヶ月以上経ってるから、お兄ちゃんの痕跡は残ってないよ」


 ノエルに指摘されて、ふたりは跳ねるように上体を起こした。


 決まりが悪そうな顔をふたり揃って伏せている。ノエルはそれをおかしそうに、くすりと笑った。


 ふたりの横を通り過ぎ、椅子を近くまで引っ張りノエルは座った。


「ほんと、お兄ちゃんのこと好きだったんだね」


「……うん」


「……はい」


 好きな男の妹の前。それを気恥ずかしそうにふたりは本音で答えた。


「一成くんは酷いよね。選ばれなかった恋愛敗北者呼ばわりとか。わたしたちがどれだけ好きだったか知っておいて、平気でそんな言葉を吐くんだもん」


「ほんとよ。あの男は隙あらばあの手この手で、酷いこと言ってきて。どれだけ私を怒らせたいのよ」


 ノエルに同意し、天梨はぷんぷんと怒った。


 華香はその隣で気づいたように「あ」と漏らした。天梨はそんな華香へ顔を向けた。


「どうしたの、華香?」


「いえ……今、瀬川さんが『わたしたち』って言ったので」


「え……あ」


 その意味することに気づいた天梨もまた、同じような音を漏らす。


 ノエルはそんなふたりに、苦笑いを浮かべた。


「ま、そういうことなんだ。……兄妹なのに、変だよね」


「そんなことない! 相手を好きになってしまう気持ちに、変なんてないわよ!」


「兄妹とはいえ、義理ですよね? イッセーくんみたいなお兄さんがいたら、わたしだって好きになっちゃってました」


 自虐的に零したノエルに、天梨と華香は力強くその想いを肯定する。慰めでもなんでもない、心から漏れ出したふたりの気持ちである。


 天梨は同情するような口ぶりで言う。


「瀬川さんも大変よね。イッセーがいなくなったと思ったら、代わりにあんな男と一緒に住むはめになるなんて。私だったら、一週間持ったらいいほうよ。瀬川さんは凄いわ、偉い!」


「まー、一成くんはぐちぐちうるさいのはたしかだね。わたしがご飯を作る度に、『いい味は出てるが』なんて申し訳程度に褒めながら、ああしたら美味しくなる、だから次はこうしたらいいって、とにかくうるさいんだ」


「うっざ……作ってもらったんだから、黙って美味しいだけ感謝してればいいのよ」


「でも、言う通りにやったら美味しくなるから困るんだよね。一成くんあれでも、毎日三食のご飯作ってきた人だから」


「毎日三食って、学校は……そっか、通信制の高校とか言ってたわね、あいつ」


「中学校もほとんど行ってないらしいからね。行くときは基本、テストのときだけだってさ」


「え、もしかしてあの男、不登校だったの?」


「不登校っていうには、クラスメイトへ覚える恥も劣等感もなかったらしいけどね。教室で堂々とテストを受けては、必ずカノンさんと学年一位二位を掻っ攫うから、教師たちから煙たがれてたらしいよ」


「カノン……? あー、たまにチラって聞く名前だけど、結局誰なの?」


「一成さんのお友達らしいです」


 疑問に答えたのは華香だった。


「本や映画は、その人から勧められたものを見てきたって、前に一成さんが言ってました。地雷とわかった上で、平然と勧めてくるからタチが悪いって」


「それ、本当に友達なの?」


「お友達だからこそ、地雷を踏んだ気持ちを共感してほしいとか」


「えー……」


 その気持ちはわからないと、天梨は顔をしかめた。咄嗟に華香は、『その気持ちはわかります』という言葉を飲み込んだ。


「酷い男の友達は、やっぱり酷い奴。お似合いのふたりってわけね。それはそれとして、よくあんな男とふたりで暮らしてて、正気でいられるわね」


「たしかに一成くんは優しくないし、厳しい人だけど……でも、お兄ちゃんの代わりに来てもらったらどう、って最初に言い出したのはわたしだから」


「え、そうなの?」


「うん。一成くんって、他人と足並み揃えるのが無駄だから、中学以降学校に通ってない人だって聞いてたから。転校のことなんて考えなくてもいい、くらいの思いつきだったんだ」


「……あの男、そこまでの天才だったの?」


「天才だったのは、カノンさんのほうらしいけどね。勉強を見てくれるカノンさんと、その身の回りの世話をする一成くん。そうやってふたりでずっと、楽しくやってきたらしいよ」


「あの男に、そこまでの親友がいたのね」


「そんな親友の側を離れて、無駄な学校に通うことを決めて、一成くんはわざわざ来てくれたんだ」


「……なんでまた、そこまでしてあの男は来たのよ」


「そんなのもちろん、お兄ちゃんのためだよ」


 ノエルはそうして、そのときのことを思い出しながら、一成が来るまでの話を語りだした。




     ◆




 一生と白雪が結ばれて、遠距離恋愛が始まった次週の金曜日だった。


 放課後、白雪から一本の電話がきた。


 内容を要約すると、祖父が一生の行動に感銘を受けた。必要な環境はすべて用意するから白雪と一緒に来い、とのことだ。


 白雪の側にいけるのは、イツキにとって青天の霹靂だった。だけど喜びに身を任せてすぐに了承するほど、一生は自分勝手な人間ではない。勝手にそのような話を決めるのは、今日まで育て、支えてくれた家族を蔑ろにするようなもの。たとえ自分の中で決まっていることであっても、行くかどうかの答えを告げるのは、まずは家族に話を通してから。


 だから一生が白雪に告げたのは、必ず家族を説得して、祝福と共に送り出して貰うだった。その答えにまた一生の人柄が出ていたので、白雪の祖父はまた感銘を受けたのだ。


 その晩、家族全員が集まったところで、話をしたらすぐに祝福された。親としてできることは、いくらでも力になる。そんな心強い言葉を貰ったのだ。


 白雪のもとへ行く。そのこと自体に問題はなくなったのだが、一生が家を出ることによる問題がひとつあった。


「ごめん、父さん、母さん。四月からのこと、ふたりとも楽しみにしてたのに」


 父親は四月から、単身赴任で一年間家を空けることになる。その身の回りを世話する名目で、母親がついていく話になっていた。子連れ同士、再婚してから夫婦水入らずの時間は、たまの外食が精々。子供を置いてふたりで外泊など、一度もなかったのだ。


 自分たちはもう高校生。折角だからこの機会に、遅くなった新婚旅行くらいの気持ちで、行ってきなという話をした。特にノエルが積極的に、ふたりの背中を押したのだ。それこそ一生とふたりきりの環境を手に入れるため、邪魔者を家から締め出す勢いで張り切っていた。


 一生の後ろめたさは、言下で単身赴任の計画がダメになったと言ったのだ。


「いいのよ、イツキくん。ふたりが大学に入ったら、夫婦の時間なんていくらでも作れるんだから」


「そうだぞ。子供がそんなこと、気にするんじゃない」


 両親共に、残念そうな顔はひとつも見せず、一生のこれからの人生を応援していた。


 ふたりがこのまま単身赴任で家を空け、一生も家を出ることになったのなら、この家にはノエルひとりが残される。年頃の娘をひとり残すのは、防犯の観点からできることではなかった。


 折角なら一生を、憂いなく送り出してあげたい。


「わたしのことなら大丈夫だから、ふたりとも行ってきなよ。お兄ちゃんがいないならいないで、ひとり暮らしを満喫してみたいから」


 ノエルはそう提案するも、そういうわけにはいかないと三人とも首を横に振った。両親はもちろん、一生もノエルひとりを家に残すのは不安だった。


 一生とノエル。ふたりだったら、両親たちは安心して旅立てた。それがひとりになった途端これだから、なにかいい手がないかとノエルは考え、閃いた。


「そうだ。だったら一成くんに来てもらおうよ」


「兄さんに?」


「たしか通信高校なんでしょ? だったらうちからでもいいじゃん」


 会ったことのない兄の兄。本当に軽い気持ちで、その名を上げたのだ。


 そしたら三人揃ってぽかんとした後、難しい顔をした。


「なに、わたしと一成くんをふたりきりにするのは心配なの? そんな心配になるような人なの?」


「いや……そりゃ兄さんだったら、僕も父さんも安心して任せられるけど」


「お母さんは、一成くんのこと信用できない?」


「え? あ、その――」


「ノエル。そんな聞き方は止めなさい」


 いきなり矛先を向けられ戸惑う母親を、父親がかばった。


「たとえお父さんの子供で、イツキの兄とはいえ、母さんは一成と話したこともないんだぞ。そんな男に、娘をじゃあ任せますなんて、簡単に言えるがわけない。それが娘を持つ当たり前の親心なんだ」


「……ごめんなさい」


 否定しにくい言い方を自覚して使ったからこそ、後ろめたくてノエルは反省した。


 落ち込むように顔を伏せたノエルに、一生がフォローをいれた。


「まあ、ノエルが皆のこと考えてくれて提案してくれたのは、ちゃんとわかってるよ。でも通信高校とはいえ、兄さんは兄さんで、親友と面白おかしくやってるからさ。その側を離れたがらないと思うよ」


「そっか……ごめん、勝手なこと言って」


 自分の身勝手さに嫌気がさしたように、ノエルは肩を落とした。


 食事中の話ということもあり、この話はまた追々ということで一度は終わった。


 二時間後、ドタバタと二階から降りてきた一生。らしかぬ慌ただしさでリビングに飛び込んできた一生を、両親とノエルの三人は、一斉に見やった。


「どうしたのお兄ちゃん?」


「あ、いや……その」


 信じられないものを目撃したかのように、一生は顔を強張らせたまま言った。


「兄さん、明日こっちに来るって」


「なんだって!?」


 もうひとりの息子が来訪すると聞かされた父親は、素っ頓狂に叫んだ。


 白雪の祖父から貰った話を、一生は一成と話していた。素直によかったなと祝福されて、電話は一度終わったがその三十分後に、


「明日、一度そっち行くわ」


 一成から来訪する連絡が来たのだ。

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