16 一夏の初恋
その出会いは、小学校六年生の夏休み。それが終わるまで、残り一週間を切った頃の話だ。
どうやら御縁の父親はミステリ作家らしく、その愛情と共に英才教育を施された御縁は、すっかりミステリ大好き少女に育っていた。好きな架空の人物を聞かれたら、見た目は子供、頭脳は大人な小学一年生と同じ答えを出すのだ。
そんな御縁女児はふと、シャーロック・ホームズの物語を手に取りたくなった。でもそれがあるのは父の仕事場でもある書斎。伸ばしてもらった締め切りにすら間に合うかどうかギリギリな、修羅場を迎えていた。
部屋に戻ればホームズの天敵を題材とした漫画はあるが、どうしても原作のホームズを読みたかった。だから御縁はホームズが絶対に置いてある、図書館へと向かったのだ。
女児には似つかわしくない、海外文庫本の棚へ真っ直ぐ足を向けた御縁。彼女はすぐに目的の本を見つけて、そっと手を伸ばしたら、
「「あ」」
ふたつの声と手が重なった。
お互い、まるで時間が止まったかのように見つめ合う。
相手は同じ年の頃の少年。クラスで騒がしいワンパクモノでもなければ、隅っこで大人しくしている日陰者でもない。それらが同じグループになったとき、どちらにも気を配りながらうまく纏める。そんな柔軟さに溢れた、優等生然として雰囲気があった。
手の甲の感触を思い出した瞬間、御縁は素早く手を引っ込めた。
学校ではあまり関わってこなかった男子への免疫の低さが、御縁の頬を赤く染めた。
「ど、どうぞ」
顔を伏せながら蚊の鳴くような声を出す。
どうぞとは、わたしを好きにしてください、の意味ではない。先に手を伸ばしていた本を譲ったのだ。
「いや、君のほうが先だったんだから」
少年は優しげな微笑を零しながら、先程伸ばしていた本へと手を向けた。
一目惚れするような花こそない。でもその微笑みは、居心地のよさを覚えるような、陽だまりのような温かさを持っていた。
嫌味もカッコつけもない自然なものだからこそ響くものがあった。
御縁の心臓が高鳴ったのだ。それこそ少女漫画の主人公になったような、キュン、としたものを感じたのだ。
――どうやらこの歳にして、我が弟は天然のたらしの才に目覚めていたようだ。
「大丈夫です……一度全部、読んでますから。お先に好きなの選んでください」
「そう? ありがとう」
どうぞどうぞ合戦に発展せず、少年は御縁の好意をあっさり受け入れた。
棚に並んでいるシャーロック・ホームズ全集は、番号が飛び飛びになっており、あるのは五冊だけだった。
緋色の習作。シャーロック・ホームズの冒険。バスカヴィル家の犬。恐怖の谷。シャーロック・ホームズの事件簿。
番号通り、このように並んでいた。
さあ、本を取るぞと伸ばされた少年の手は、途端に固まった。
十秒ほどそうしていた少年の顔が、いきなりこちらを向いた。
「君、一度全部読んでるんだよね?」
「え……あ、はい」
急に話しかけられた御縁は、小さくコクコク頷いた。
少年は伸ばしていた手で、照れたように頬を掻いた。
「最初はどれを借りたらいいのかな?」
「最初は?」
「夏休みの読書感想文をすっかり忘れてて。今から慌てて書こうとしてるんだ」
少年が固まった理由に得心した御縁は、今度は疑問が浮かんできた。
「なんでホームズを、題材に選ぼうと思ったんですか?」
「ほら、コナンっていったらホームズだろ? 折角だからこの機会に見てみようかなって」
「そういうことでしたか」
少年と会ってからたどたどしかった御縁の様相が、途端に明るいものとなった。ホームズ大好き女児は、同じ年頃の少年がホームズを読もうとするのが、それだけで嬉しかったのだ。
身の回りの同年代には、自分の大好きな話をできる相手がいない。これをキッカケに同好の士が生まれるかもしれないという可能性は、御縁にとって喜ばしいことだった。
だから御縁は張り切った。好事家特有の早口を発揮したのだ。
「ホームズの物語は五十六の短編と、四つの長編でできています。順番通りに読むのが一番好ましいですけど、長編から入るのは、人によってはハードルが高いかもしれません。普段、どのような本を読んでいますか?」
「え、本? 普段は漫画くらいかな」
「でしたら、短編集から入るのがいいと思います。それでしたら一話一話が短いので、読みやすく話もわかりやすいですから。ちょうど最初の短編集のシャーロック・ホームズの冒険がありますから、これを読めば間違いありません」
「じゃあ、これを借りようかな」
「あ、でもここに置いてあるのは、ちょっと読むのが大変かもしれません。翻訳が読みにくいというわけではないんですけど、とにかく文字がびっしり詰まっているので、普段本を読まれない方には辛いんじゃないかなって……一度開いて、確認してもらえませんか?」
「うん。……あー、これはちょっと、頭が痛くなりそうかも」
「でしたら、わたしたちくらいの年齢を対象にした翻訳本も出ていますので、そちらのほうにしましょう。わたしも初めてはその翻訳で読んだので、初めての方でも読みやすいと思います」
言い切るや否や、御縁は動き出した。その背中はきっと、当たり前に付いてくるものだと信じており、少年はその信頼を裏切ることはなかった。
検索できるパソコンに目もくれない御縁の足に迷いはなかった。
児童向けのコーナーの一画に立ち止まると、一冊の本を手に取った。名探偵ホームズと題名にはあるが、表紙が漫画のようなイラストあった。
「これは……漫画?」
「いえ、ちゃんとした小説です。子供向けに翻訳されているだけで、内容自体はあの棚に並んでいた単行本と代わりありません。でもあれらと比べると、とても読みやすいですよ」
それを受け取った少年は、本をパラパラとめくって柔和に笑った。
「たしかにこれなら、頭を痛めず読めそうだ」
「それならよかったです」
「わざわざありがとう。そうだ、よかったらお礼させてよ」
「へ、お礼……?」
「ジュースでも奢らせて」
「だ、大丈夫です! このくらいのこと、大したことじゃないですから」
いきなりのお誘いに、慌てて御縁は両手を振った。
図書館で同じ本に手を伸ばし、手を重ね合って、同好の士を増やそうと親切をした。その先でスマートにお礼させてよなんて言われたのだ。まるで少女の漫画の主人公になったかのような展開である。
「大したことだよ。君がいなかったら、僕じゃとても読めない本を借りるところだったから。そのときはもう、読書感想文どころじゃない。だから、ね?」
「あ、その……でしたら、ありがとうございます」
頬に熱を帯びるのを感じながら、御縁はペコリと頭を下げた。
「えっと、あ。わたし、御縁華香です」
「華香か。いい名前だね」
少年は気障ったらしくせず、あくまで素の感想を零した。そこでまた、御縁の心臓は弾むようにトクンと鳴ったのだ。
「僕は瀬川一生。よろしくね」
我が弟は、幼いときから天然のたらしっぷりを発揮した。
その後、図書館の備え付けの自販機でジュースを買って、肩を並べで座ったようだ。話の流れで読書感想文を手伝うことを御縁は申し出た。その夏休みいっぱい、イツキと毎日図書館で交流を重ねた。
小学校は別な上に、スマホなんてものは持っていない。夏休みが終われば、約束を取り付けなければそれっきり。沢山の感謝を重ねたイツキに対して、御縁も自分も楽しかったとしか告げられなかった。
一夏の思い出。寂しさを覚えながらも、これが初恋なんだと遅れて気付いた御縁は、大事に大事にその胸へ思い出をしまい込んだ。いつかどこかでバッタリ会ったとき、想いを告げることはできなくても、そこから改めて友人から始めたいと願っていた。
数カ月後、御縁は中学生となった。
猫背気味に廊下を歩いていたから、
「あれ、もしかして華香?」
「え……あ、イッセーくん?」
初恋の少年が、同じ学校の制服に身を包んでいたのだ。
以来、イツキと交流を重ねてきた御縁は、本を勧めてはそれを語り合う。そんな時間をイツキと過ごしてきたようだ。
◆
「うーん……うちの弟は女たらしだったのか」
御縁が語り終えると、真っ先に出た言葉がこれだった。
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