11 二股は二股疑惑

 翌日のことだ。


 ノエルとの関係が良好とはいえ、仲良し兄妹というわけではない。俺たちの距離感を表すなら、きっと従兄弟が一番近いだろう。これからもずっと、向こうは俺を兄として扱わないし、俺も妹のように扱うつもりはない。


 だからイツキとそうしていたように、ノエルは家を出る時間を俺には合せない。必ず少し早いか、遅れてから学校へ向かうのだ。一緒に登校したのは、道案内を兼ねた一日だけだった。


 それで一番寂しい思いをしているのはノエルだからこそ、俺はなにも言わない。その寂しさは、俺に頼らず乗り越えなければならないものだから。


 そうやっていつもひとりで登校しているわけだが、話す相手がいないわけではない。この時間は、カノンとラインや通話をしているから、暇だけはしないのだ。


 ロンドンゾンビ紀行が面白すぎたと、その朝は盛り上がった。校門を抜けたところで通話を切り、ワイヤレスイヤホンをしまっていると、その喧騒に気づいた。


「だから何度も言うけど――」


「そうやって言われたって、誤魔化されないんだから! 最低、信じらんない!」


 落ち着いてなだめようとする男子と、それに聞く耳を持たない女子のヒステリックな叫声。そんな一悶着を、遠巻きから行く末を見届けんとする野次馬せいとたち。


「なんだ、痴話喧嘩か」


 こんな人通りが多い場所でよくやるなと思いながら、騒動の中心に目を向けた。


「おお、二股じゃねーか」


「あ、イッセー」


 たったひとりの男友達が、困りきった顔をパッと輝かせた。


 まさに地獄に仏、孤立無援の戦場で味方が駆けつけた。そんな安堵した表情を向けられたら、無視するわけにはいかなかった。


「助かった。仲裁に入ってくれ」


「一体どうしたんだ? ……いや、察しはつくが」


 二股の隣に並ぶと、顔も目も赤い女子を見やった。


 胸元のリボンタイを確認しなくても、相手が三年生であることは知っていた。三年生の中で三本指に入る美人にして、水泳部のエースにして、そして二股の彼女である。


「それで、なんで浮気を疑われてるんだ?」


「ほら見なさい! そういうことだろうって、イッセーくんもわかってたってことでしょ!?」


「いや、こんな公衆の面前で、ヒステリックに叫んで詰め寄ってるんだ。状況くらい、バカでも想像つくだろ」


「うっ……」


 勢いをつけたと思ったら、正論を正論のまま突きつけられ、一瞬で彼女先輩は怯んだ。


 黙った隙を見逃さず、俺より十センチは背が高い二股を見上げた。


「で、二股。おまえは浮気……いや、二股してるのか?」


「俺はさ、こんな名字だろ? 昔から二股男って散々からかわれてきた」


 言葉を選び直して問いただすと、二股は力強くかぶりを振った。


「だからこそ、俺は二股するような男にだけは絶対にならない。それだけは人生に誓ってるんだ」


「と、本人は言ってるらしいけど」


 彼女先輩に目を向けると、それを信じずに納得いかない面持ちだ。


「先輩は、こいつが二股かけてる証拠があるから詰め寄ってる、でいいんだよな?」


「そ、そうよ! 証拠ならあるわ!」


 一瞬身を固くしながらも、正義は我にありと思い出したかのように、怒りと共にそれを差し出してきた。


 スマホである。画面には雑踏の中、仲睦まじい男女が腕組みしている後ろ姿が写っていた。これは俺ではないという言い逃れはできないほどに、その男が二股なのは明白だった。


 仲裁を求められたからには、たとえ二股よりだとしても、嘘をついてまで肩を持つことはしない。素直な感想を漏らした。


「あ、これは間違いなく二股だな」


「だよね。どう見ても浮気現場でしょ、これ?」


「そうだな。この写真を見たら誰だってそう思う。俺だってそう思う」


「でしょでしょ! 私、間違ってないわよね?」


 敵かと思われた仲裁役が公平であることに、彼女先輩は瞳に希望を宿した。


 俺は焦り顔の二股に目を向ける。


「それでは被告人に質問だ。この仲良く腕を組んでいる女性とは、一体どのような関係だ?」


「はい、裁判長。彼女は親戚のお姉さんです」


「ほう、親戚のお姉さんか。この仲睦まじい様子について、釈明はあるか?」


「十とまではいかないけど、歳が離れてるからさ。向こうにとっては、久しぶりにあった弟にじゃれているようなつもりなんだ。それこそガキの頃は、向こうの家に遊びに行ったら、風呂に入れてくれたような人だからさ」


「だからって、そんな相手と腕まで組むか?」


「止めてくれって振りほどこうとすると、『なに、照れてるのー?』ってからかわれるからさ。こうなったら好きにさせるしかないんだ」


 決してやましいことはない。早口にはならない、堂々とした答弁だ。


「では、被告人に改めて問う。二股、おまえは二股をしているのか?」


「いいえ、裁判長。俺は絶対に二股はしていません」


 目を見れば、その言葉に嘘がないのはわかった。


「わかった。二股は二股をしていない。俺はそれを信じるぞ」


「ありがとうございます、裁判長!」


「では被告人。この女性は恋人でもなければ、男女の仲でもないと信じていいんだな?」


「はい、裁判長。俺を信じてください」


 その目を見れば、こいつが嘘を言っているのは明白だった。


 信じていないものを信じるなんて嘘はつけない。


 黙って彼女先輩に顔を向ける。


「先輩はこの言葉が信じられない。ということでいいんですね?」


「そ、そうよ……! 卓が嘘をついてることくらい、わかるわよ」


「この写真以外の根拠は?」


「それは……私が、卓の彼女だから。そういうの、わかるから」


 言葉とは裏腹に、彼女先輩は自信なさげにスカートをギュッと掴んだ。勢いに任せた感情論を封じられた、公平な話し合いに置いて、自分がどれだけ分が悪いかわかっている。つまり頭が冷え始めたのだ。


 きっとこの証拠を前にして、カッとなった感情に突き動かされるがまま、登校してくる二股をここで待ち受けていたに違いない。


 正直、証拠も固めず感情論任せに問い詰めようとする彼女先輩は浅はかだ。でもここまで来たら、もう引くに引けないのだろう。これだけの野次馬に囲まれればなおさらだ。


 二股は二股をしていない。でも、嘘をついているのは明らかだ。


 ここで二股を擁護し、彼女先輩ひとりを悪者にするのは簡単だが、それでは後味が悪い。一番悪いのは二股に決まっているので、無辜なる被害者を出すのは気が引ける。俺にだってそのくらいの良識は兼ね備えていた。


 状況は大体思ったとおりだったので、方針は決まった。


 どちらも悪者にできないのなら、他の悪者を見つければいい。たとえ二股にも非があろうとも、先輩の置かれた状況は、もうひとりの悪者が潜んでいると示していた。


「先輩、そもそもこの写真、どこから手に入れたんだ?」


「え?」


 一方的に責められると思っていたところの質問に、彼女先輩はキョトンとしたように目を瞬く。


「その場にいたら、こんな写真を撮る前に詰め寄ったろ。そうなってないってことは他に撮った奴がいて、先輩に『二股の野郎二股してやがる』って写真を提供したんじゃないのか?」


「それは……」


 彼女先輩は気まずそうに目を伏せた。きっとそれを口にするのは、告げ口するみたいな後ろめたさがあるのかもしれない。


 一応、彼女先輩は騙されていた被害者。相手が親身になってくれたかはともかくとして、彼女先輩の味方面をしている。


 味方を売るのを躊躇しているのであれば、その後ろめたさを取り除くだけだ。


「写真はこの一枚だけか? この一枚だけが、二股の浮気を証明する証拠で、それ以上はなにもない。それは絶対でいいんだな?」


 追い詰めてくるように問われ、彼女先輩は肩を震わせた。まるで無罪の悪事を暴かれ、反論できない心境かもしれない。


「別に先輩を責めたいわけじゃないんだ。ただちょっと、この写真を先輩に提供した奴、随分とタチが悪いなって思ってさ」


「え……タチが悪い?」


 思ってもない切り口から擁護され、彼女先輩は顔を上げた。


「だってそうだろ? 先輩が二股に浮気されている。本気でそれを許せず義憤に駆られたっていうなら、これ一枚だけじゃないだろ。その後を追いかけて、言い逃れできない証拠を集めるところだ。それこそキスや、ホテルに入ってくところとかさ」


「あくまでこれは一般論の話だけど、そういった写真がもしあれば、誰だって浮気の言い逃れはできないだろうな」


 こちらの意図を察したのか、二股が立論を補強する。


「その証拠を固められなかったとしても、これ一枚っていうのはいくらなんでもな。後を追いかけて証拠を掴もうとしたなら、もっと写真があってもよかったろ」


「この一枚だけで、今こうして先輩がひとりで詰め寄ったってことは……写真を撮った奴の思惑が想像できるな」


「思惑? どういうことなの……?」


 彼女先輩は戸惑いながら、胸元で両手を重ねた。


「たとえ勘違いだったとしても、先輩のためを思ってこの写真を撮ったんなら、ここは一緒に二股を責め立て、おまえは浮気をしているなと追求するところだ」


「俺たちがどんな様子だったか。その口から物申したくなるのが人情。友情ってもんだろ? そいつがここにいないってことは、最初から真実なんて、どうでもよかったってことだ」


 自分の彼女が利用された憤りが、二股の声には含まれていた。根っこにあるのは自分の過ちのくせして、よくここまで棚に上げられるものだと感心する。


 彼女先輩も自分のために怒っている彼氏の姿に目を潤ませた。俺たちがなにを言いたいのかもうわかったのだ。


「卓……ごめん、私」


「謝らなくてもいいんだよ、先輩。こんな写真を見せられたら、不安になって当然なんだ。俺がからかわれたくないからって、されるがままを許したのは軽率だった。先輩はなにも悪くないよ。悪いのは全部、先輩を利用した奴だ」


「卓……!」


 込み上がる感情を押さえきれず、彼女先輩は二股の胸に飛び込んだ。信じきれず責め立てた自分の過ちを、悪くないと許してくれる恋人の抱擁。身を任せているその様は、酷い悪夢から開放されて心地よさそうだった。


 これで痴話喧嘩は大団円を迎えたわけではない。まだ悪者を退治していないのに、ハッピーエンドのエンドロールを流すには早すぎる。


「それで先輩、この写真の提供者なんだけどさ。仲のいい友達じゃないんだろ?」


「うん。クラスも一緒になったことはないし、普段から交流があるわけじゃないわ」


 彼女先輩は抱きしめられたまま、こちらを向いた。


「そっか。だから写真だけ渡して、不安を煽るような真似ができたんだな」


「今思えば、そうかも。おまえは卓に騙されてる、目を覚ませみたいなこと、沢山言われたから」


「そうやって煽るだけ煽って先輩を焚き付けて、当の本人は野次馬に紛れてしめしめと物見櫓から見物か。随分といいご身分だな」


「やっぱり……そういうことでいいんだよね?」


「間違いない。二股を陥れるために、先輩は利用されたんだ」


 悔しそうに彼女先輩は唇を噛んだ。愛する者を陥れるために、いいように自分が手段として使われたのだ。


 俺は周囲をグルっと見渡した。


 犯人はこの中にいる。それを告げる俺の顔を見て、野次馬たちはあちらこちらに目を向け、誰だ誰だと犯人を探している。


 そっと慈しむように、二股は彼女先輩の頭を撫でた。


「教えてくれ、先輩。俺たちの仲を引き裂こうとしたふざけた奴を」


 彼女先輩は力強く頷き、二股の抱擁から惜しむように離れ、周囲を見渡した。


 犯人はおまえだ。


「あいつよ」


 そう告げるように、人差し指を野次馬たちのひとりに突きつけた。


 指先を追って、一斉に視線はその男に集中した。


「なんだ、おまえだったのか」


 俺は懲りない奴だと呆れながら、そして二股は怒りと共にそいつを睨めつけた。


 犯人は、先日俺を屋上に呼びつけた先輩だった。

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