第13話:個人事業主
春は過ぎて、初夏。
橘からメールがあり、オフィスに残っていた私物を取りに来てほしいとのこと。
会社近くのオープンテラスのカフェで紙袋を受け取り、アイスコーヒーを飲んだ。
「その、色々あったけど・・・、次の仕事ってもう決まった?」
「あ、いえ、まだ探してるとこです」
本当は探していないし、腑抜けているだけ。
「紺野君さ、また編集の仕事やってみる気ない?記事じゃなくて、動画なんだけど」
「動画、ですか。いえ、映像系はいじったことなくて」
「うんうん、でも別にそんな高度なことは要求されてないから。ああ、あと、運転免許はある?」
「は、はい」
「車は持ってる?」
「いいえ」
「うーん、そっか。買う予定ない?」
「ないですよ、職探し中なのに車なんか」
橘はウーンと唸った後、「でもま、あの人金持ちだからな」とつぶやいた。
動画制作の仕事。
それはいわゆるユーチューブ動画の撮影と編集で、釣りやアウトドアの様子を配信するものだという。
「紺野君も知ってる人だよ、ウチの顧問。・・・新婚なのにねえ、ユーチューバーやってみたいんだって。今更参入できないと思うけどね、まあ採算度外視の趣味なんでしょ」
にわかに心臓が高鳴って、食い入るように話を聞いた。
橘は眞鍋の件で上司としての責任を感じているようで、別の仕事を紹介できてほっとしているみたいだった。
翌週。
もう一度同じ場所で橘に会い、仕事の詳細を聞いていると、・・・あのエンジン音。
「ああ橘、どう、話は通してあるのかな」
「あ、はい、こちら紺野君です」
「・・・紺野です。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。編集部で頑張ってくれてたんだってね、環境が整わなくて申し訳なかった」
「いえ、その・・・でも、動画は初めてなんですが」
「大丈夫、ぼくも初めてだから。スタッフもまだ君しかいないしね」
「え、・・・そう、なんですか」
「紺野君はアルバイトの他に何をやったことある?正社員?契約社員?」
「いや、派遣社員・・・だけですが」
「個人事業主は?」
「・・・いいえ」
「うん、残念ながら、今回の仕事は時給がまだ出せないんだ。だから君には個人事業主になってもらって、業務委託契約を結ぶ形にしたいと思う。どうだろう」
「・・・どう、って」
「はは、報酬はきちんと支払うから安心して。それから車も用意してもらおうかな、機材を積んで山奥だから」
橘が「フェラーリじゃ行けませんもんね」と笑うと、榛名は「トランクにはスマホしか入らない」と肩をすくめた。
「そういうわけだから、紺野君さえよければ、これからそこのディーラーへ行こう」
橘は自分のオフィスに戻り、徒歩数分、二人で青山のディーラーへ。
屋外に展示してある軽自動車に乗り込むと、榛名は嬉しそうにハンドルを握った。
「おっと、運転するのはスタッフだった。さ、経費節約のためどれでも低燃費なものを選んでくれ」
「・・・榛名さん、これって、どういうことですか」
「まあ、結婚運はないが、ビジネス運はある。好きなものをビジネスにするのが一番いい」
・・・好きなもの、って?
「釣りとアウトドア?」
「都会の喧騒を離れ、山奥でテントを張る・・・経営者の憧れだよ。そして配信のためなら経費にできる」
「また経費」
「スタッフは最低限でいいんだ、運転と撮影と編集とで一人。・・・君に頼みたい」
人気ナンバーワンと書かれた軽自動車の運転席と助手席で、青山通りと外苑東通りが交わる大きな交差点を眺める。
「・・・わかりました。でも」
「でも?」
「車は榛名さんが選んでください。軽自動車、好きなの売ってもらえますよ」
軽のハンドルとロレックスが似合わないが、榛名はすべて見て回り、「絶対スライドドアがいい」と楽しそうにはしゃいだ。そんな顔は今まで見たことがなかった。
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