第10話:賭け
帰りたくはないけど何もできなくて、とりあえずトイレを借りた。
しかし、トイレに入って便器を探したのは初めてだ。広い、広すぎる。
半ば、わざと、入ってきたのと違うドアから出た。
他の部屋を漁るとかそんなつもりはないけど、せめて、哀れな迷子を迎えに来てほしかった。
廊下の人感センサーで、足元のダウンライトが点く。
隣の部屋のドアが半開きになっていて、明かりが漏れていた。
ほんの少し覗くと、・・・風呂場?いや、ランドリールーム?それとも髪を乾かすためだけの六畳間?
入ってすぐのところがカウンターのようになっていて、スツールと、鏡と、小さな洗面ボウル。真鍮の蛇口から、ぽたりぽたりと水滴の音。
・・・断じて、ただ蛇口を閉めるためだけに入った。本当に。
でも、洗面に立てかけられていたタブレットに気づかず、それは水に滑ってマットブラックの床のタイルに落ちた。
その衝撃で、画面がパッと光る。
もちろん画面を閉じて元の場所に置くつもりだったが、網膜にその文字と、見慣れた顔写真が飛び込んできた。
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・・・僕の、履歴書の、PDFファイル。
手元と思考は固まり、心臓だけが速くなる。
おそるおそる、震える指で隣のタブをタップすると、それは箱根のおすすめスポットを書いた、僕の記事。
その隣の[読み取り専用]ファイルは、橘による編集部の人事考課の、僕のページ。
何かを、怪しまれているのか。
社内ツールで榛名のアカウントを探し回ったから?
まさか産業スパイとか、週刊誌のまわし者とか思われてる?
・・・それとも。
でも少なくとも、履歴書でわかるのに、名前と漢字を訊くために呼んだというのは変だ。
なら、何のため?
部屋に戻って、榛名に「お邪魔しました」と告げた。
すると、眼鏡を外して「わざわざ悪かったね」と立ち上がる。
・・・本当は、何なんだ?
炭酸水、タクシーで自宅、2万、笹塚、日曜にかかってきた電話、車の鍵とオフィスのカードキー、ランチの経費、下の名前、履歴書・・・。
ここには本当に何の作為もない?
ギリギリ、「僕=産業スパイ疑惑説」と、「別の可能性」が、拮抗していた。
どっちなんだろう。
願わくば後者。
「あのう、榛名さん」
「うん?」
「すいません、こないだ僕・・・炭酸水を立て替えた分のお金を、もらいましたよね。1万円」
「・・・ああ」
「それで、・・・『お釣り』を、渡しましたよね」
「・・・」
「9,000といくらか、そのくらいの額。そうでしたよね」
「・・・うん、9,208円」
「榛名さんはその価値があるのかって笑いましたけど、どう・・・なんですか」
「・・・え?」
「今でも、そうですか?あれは9,208円分ですか?もしかして今では・・・価値が上がっていたりはしませんか?榛名さんの中で、あれは、1万円にも満たない・・・それくらいの、出来事ですか。今も」
「・・・それが、もしも、違ったとしたら?」
「払い過ぎた分を、返してほしいです。僕もこういうの、1円単位までキッチリしたい
榛名はしばらく無表情で沈黙し、それからわずかに苦笑いを浮かべ、首をかしげた。
それから口の中で「まいったな」みたいな言葉が発せられる手前で消えていき、一度うなだれ、一度天井を仰ぎ、そしてその手が僕の両腕をそっとつかんだ。
耳元に顔が近づいて、「・・・うん、返さなきゃならない」と。その語尾は下へ沈んで消えていく。
「そう、ですか。じゃあ返してください」
「でも現金を持ってない。だから・・・」
目をつぶって待っていたら、ゆっくりと口づけられて、抱きしめられた。
僕は賭けに勝った。
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