第10話:賭け

 帰りたくはないけど何もできなくて、とりあえずトイレを借りた。

 しかし、トイレに入って便器を探したのは初めてだ。広い、広すぎる。

 半ば、わざと、入ってきたのと違うドアから出た。

 他の部屋を漁るとかそんなつもりはないけど、せめて、哀れな迷子を迎えに来てほしかった。

 廊下の人感センサーで、足元のダウンライトが点く。

 隣の部屋のドアが半開きになっていて、明かりが漏れていた。

 ほんの少し覗くと、・・・風呂場?いや、ランドリールーム?それとも髪を乾かすためだけの六畳間?

 入ってすぐのところがカウンターのようになっていて、スツールと、鏡と、小さな洗面ボウル。真鍮の蛇口から、ぽたりぽたりと水滴の音。


 ・・・断じて、ただ蛇口を閉めるためだけに入った。本当に。

 でも、洗面に立てかけられていたタブレットに気づかず、それは水に滑ってマットブラックの床のタイルに落ちた。

 その衝撃で、画面がパッと光る。

 もちろん画面を閉じて元の場所に置くつもりだったが、網膜にその文字と、見慣れた顔写真が飛び込んできた。


紺野こんの 允琉みつる 26歳 男性 住所:東京都渋谷区笹塚・・・>


 ・・・僕の、履歴書の、PDFファイル。

 手元と思考は固まり、心臓だけが速くなる。

 おそるおそる、震える指で隣のタブをタップすると、それは箱根のおすすめスポットを書いた、僕の記事。

 その隣の[読み取り専用]ファイルは、橘による編集部の人事考課の、僕のページ。


 何かを、怪しまれているのか。

 社内ツールで榛名のアカウントを探し回ったから?

 まさか産業スパイとか、週刊誌のまわし者とか思われてる?

 ・・・それとも。

 

 でも少なくとも、履歴書でわかるのに、名前と漢字を訊くために呼んだというのは変だ。

 なら、何のため?


 部屋に戻って、榛名に「お邪魔しました」と告げた。

 すると、眼鏡を外して「わざわざ悪かったね」と立ち上がる。

 ・・・本当は、何なんだ?

 炭酸水、タクシーで自宅、2万、笹塚、日曜にかかってきた電話、車の鍵とオフィスのカードキー、ランチの経費、下の名前、履歴書・・・。

 ここには本当に何の作為もない?

 ギリギリ、「僕=産業スパイ疑惑説」と、「別の可能性」が、拮抗していた。

 どっちなんだろう。

 願わくば後者。

「あのう、榛名さん」

「うん?」

「すいません、こないだ僕・・・炭酸水を立て替えた分のお金を、もらいましたよね。1万円」

「・・・ああ」

「それで、・・・『』を、渡しましたよね」

「・・・」

「9,000といくらか、そのくらいの額。そうでしたよね」

「・・・うん、9,208円」

「榛名さんはその価値があるのかって笑いましたけど、どう・・・なんですか」

「・・・え?」

「今でも、そうですか?あれは9,208円分ですか?もしかして今では・・・価値が上がっていたりはしませんか?榛名さんの中で、あれは、1万円にも満たない・・・それくらいの、出来事ですか。今も」

「・・・それが、もしも、違ったとしたら?」

「払い過ぎた分を、返してほしいです。僕もこういうの、1円単位までキッチリしたい性質タチなので」


 榛名はしばらく無表情で沈黙し、それからわずかに苦笑いを浮かべ、首をかしげた。

 それから口の中で「まいったな」みたいな言葉が発せられる手前で消えていき、一度うなだれ、一度天井を仰ぎ、そしてその手が僕の両腕をそっとつかんだ。

 耳元に顔が近づいて、「・・・うん、返さなきゃならない」と。その語尾は下へ沈んで消えていく。

「そう、ですか。じゃあ返してください」

「でも現金を持ってない。だから・・・」

 目をつぶって待っていたら、ゆっくりと口づけられて、抱きしめられた。

 僕は賭けに勝った。

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