第9話:名前
週明け、出社してからもずっと榛名のことを考えていた。
校正をしても、ライティングをしても、転載許可のメールを打っても、榛名とのすべてが頭から離れない。
いや、何だよ<すべて>って。
・・・ふいに非日常的な体験をしたっていう、それだけだ。
セレブな世界、週刊誌の中の世界を垣間見て、浮かれているだけ。
でも、わかってはいても、だめだった。
1週間経っても、2週間経っても、気持ちは大きくなるばかり。ネットニュースにかじりつき、スキャンダル記事を網羅して、過去のビジネス対談まで読んでしまう。
自分の馬鹿さ加減にあきれた。
しかしどうすることもできない。
常に動悸がしていて、食欲はなく、寝なくても疲れなかった。
時々ハイテンションになり、時々挙動不審になり、普段行かない場所に行った。
六本木ヒルズの展望台だとか。
起業家のためのビジネスセミナーだとか。
榛名が創った事業に関連する広告は街にもネットにもいくらでも溢れていて、いちいち目で追うのも間に合わない。っていうか、そもそも自分がやっている新規事業が彼の今の肝入り案件であり、一番近くでその成長を見ているのは榛名よりも僕の方だった。
会社のチャットのスレッドを探せば、榛名のアカウントに辿り着くかもしれない。
いや、社員のスケジュールアプリからならコメントが残せそうだが、これは他人にも見えてしまうか?
連絡先を入手したらどうするつもりなのかもわからないが、毎日時間を見つけては社内ツールを漁った。
そして、唐突に。
「ああっ!」
隣の眞鍋から「ちょっと何?」、橘から「紺野君どうした?」と声が飛ぶが、「何でもないです」と震える手でスマホをしまった。
そうだ。
あの日、榛名から直接、電話がかかってきたじゃないか。
・・・電話番号を知ってる。
こっちからかけられる。
興奮が天に向けて急上昇したが、しかし、「あれ、つまり向こうも知ってるのに、かけてこないってことだ」と気づいたら、急降下した。
ひと晩落ち込むかと思ったけど、何を血迷ったか落ち込むエネルギーすら推進力になり、その夜、発信ボタンを押してしまっていた。
「・・・」
出ない、たぶん、きっと。
「・・・紺野、君?」
「・・・あ、あ、はいっ」
出た。本人だ。
「うん?もしもし?」
「こ、紺野、です。こんばんは・・・」
声が、聞けた。
嬉しくて、笑ってしまっていた。
・・・電話で、話してる!
「ご、ごめんなさい、お邪魔、ですよね」
「別に、そんなことないよ」
「す、すいませんでした、急に」
「・・・どうしたの?なに笑ってる?」
「話せたのが、嬉しくて」と言ったら、苦笑いと、溜め息。それから「あのね、申し訳ないんだけど」と。
・・・今から、うちに来れるかな。
タクシーを飛ばしてあの時の専用エレベーターに着くと、ちょうど扉が開いてそこには榛名がいた。
抱きついてしまいたい衝動をこらえ、会釈をして乗り込む。
僕の中で榛名という存在が大きく膨れ上がりすぎて、本人を前に、それが爆発しそうだった。
無言でエレベーターが上がる。
開くまで、心臓が保つだろうか。
どうだろう。
・・・だめ、だった。
「あの、ごめんなさい、会いたかったんです!」
しかし榛名はただ、力なく「うん、そうか・・・」と、語尾はまた可聴域を下回って聞こえなかった。
部屋着は黒のジャージ上下で、ずり下がった黒縁眼鏡に、髪はぼさぼさ。
ちょうどふたまわり年上のはずが、それ以上にも見える。
来てと言われて駆けつけたのに今日はコーヒーも出されず、相手はソファで延々とスマホにタブレット。
しばらくして「あのう」と声をかけると、ようやく「ああ、すまない」と存在を認知された。
「悪いんだけど、紺野君ね。そう、君、下の名前は何ていうんだろう」
「え?・・・み、みつる、ですけど」
「ミツルね、うん、どう書くの?ちょっと書いてみて、フルネームで」
渡された適当な用紙には鉛筆でぐちゃぐちゃとメモがあったが、空いている右下に<紺野
「あの、名前が、何か」
「え?・・・ああ。あのね、この間、確か白金で食事をさせてもらったよね。それ、接待交際費にするためには相手の名前が必要なんだ。名前も知らない人と会食したって、経費とは言えないから」
・・・経費、ですか。
「そ、それなら、そんなの、電話で」
「漢字が苦手でね。それに今の若い子は名前が難しいし。ほら、やっぱりだった」
「・・・」
「でも助かったよ、ありがとう」
唇は動かなかったが、「もう帰っていいよ」という声が聞こえてきそうだった。
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