第8話:お釣り
一歩前に出て、榛名の差し出す1万円札を乱暴に引ったくり、顔を上げてそのままにらみつけた。
並んで立ったら僕の方が背が高いじゃないか。怖くなんかない。
榛名が唇の端を少し上げ、目を閉じて「それでいいんだ」というふうに短い溜め息を吐いた。
それが何だか、ムカついて、・・・。
キスしてやれ、と、思った。
何か、嫌がらせの、つもりで。
だってもしクビになるならもうどうだっていいんだし。
でもその瞬間に榛名が目を開けて、僕は慌てて飛びのいて、おかしな感じになった。
榛名はキョトンとして、それから唇に手をやり、そのままプッと吹き出す。
「え?な・・・、何だろう、これ?」
「・・・」
「ああ、え、もしかして、・・・今のがお釣りってこと?」
「・・・は?」
「ハハッ、わかった。いいよそれで。・・・9,208円のキスか。今のにそれだけの価値がある?」
「・・・」
榛名はなおも楽しそうに笑い、僕の肩を叩いて「ランチでも食べに行こう」と給湯室を出た。
左ハンドルのフェラーリの、右側の助手席。
革のにおいがするシート。深く沈んで、過ぎ去るアスファルトが近い。
他の車から見下ろされているのに、なぜか、こちらが見下ろしているように感じた。
「あとで運転してみる?」
「いえ、いいです。乗ってるだけで」
「気に入った?」
「車、好きなんですか?他には何台?」
「今はこれだけだよ。別に、好きっていうよりはね、売ってもらえない」
「は?どうして」
減速して、交差点を左折。ウインカーの音。
「ディーラーに行ってもね・・・本当は軽が欲しくても・・・一千万以下の車なんて、買わせてもらえないんだから」
ベビーカーの歩行者と、ウーバーの自転車をバックミラーで確認しつつ、ゆっくりと発進。
「運転が丁寧なのは、キズでも付いたら大変だから?」
「ああ、いやいや。・・・ほんの接触事故だって、すぐニュースになっちゃうから。実名で」
「あ、そっか・・・」
「・・・違うよ。本当はスピード恐怖症なだけ」
白金の、一軒家フレンチレストランの個室。
予約もないのに顔パス。
メニューなんかない。「食べたいものは?」と訊かれ、言ったらそれが出てくる(予想の数十倍も高級な感じで)。
「最近はまあ、いろいろ大変でね。こういう個室でないと、絡まれたり、撮られたり」
「そう、・・・ですか。その、やっぱり、あの人のことで?」
何だか、本人を前に、あの女優の名を口にするのは
榛名はそれには答えず、立ち上がって出窓を少し開け、風を入れた。
「その、いいんですか。・・・奥さん、なんですよね。お子さんも・・・。せっかくの日曜なのに」
言ってから、セレブ実業家にも女優にも土日なんか関係ないと気づく。
そして、ついでに、妻子持ちの男性に金をもらって、キスなんかして、割り勘できるはずもない食事をしてしまっている自分に言えることなんかないってことにも、気づいた。
クズ男はどっちだ?
「・・・彼女と、その子どもは、うちにはいない。彼女には自分の家にいる」
「ごめんなさい。立ち入ったことを」
・・・彼女と、その子ども?
何だか他人事だな。
やっぱり、愛のないデキ婚?
妊娠したから形式上の責任取っただけ?
しかし、『その子ども』の意味に思い当たったのは、残念ながら醜悪な週刊誌のネットニュースからだった。
『女優が産んだ子の父親は、榛名ではなく、別の大物の可能性?』
榛名が父親でないなら、それなら・・・と安堵している自分がいた。
でも次の瞬間には、彼には今の妻も、前の妻も、前の前の妻もいて、前妻たちとの間には実子がいるかもしれなくて・・・と考えて、それなら・・・。
・・・え、それなら、何なんだ?
頭を振って、木造アパートのワンルームで布団をかぶる。
耳の奥では、さっきそこから走り去ったフェラーリのエンジン音がまだ響いていた。
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