第7話:クズ男

 日当たりの良いオフィスはしんとして、まるで学校の工作室みたいだった。各自のデスクやデスクトップPCがないということは、電線を地下に埋めるような効果がある。

 給湯室で、あっけなく鍵は見つかった。

 一瞬、普通スペアとかあるだろうという考えが頭をよぎったが、まさか、これを口実に僕を呼び出したなんてことは・・・ない、ない。

「無事にあった。どうもありがとう」

 狭い空間ではむしろ、榛名の声はくっきり重く、強く響いた。

「よかったですね」

「ああ」

「・・・」

 今だと思って、封筒を取り出した。

「・・・うん?」

「あの、これ、使わなかったので、お返しします」

「・・・え?」

「タクシーの運転手さん、お金はもうもらってあるって。その、あのあと、笹塚へ行く用事だったんですか?たまたま僕、笹塚の近くに住んでるので、乗って帰らしてもらいましたけど」

「・・・」

「あ、その、だから、このお金何だったんですか。先払いしてあるなら、必要なかったわけだし、その」

 榛名は「ああ、やっぱり払ってたか」と、ややわざとらしく目を細めた。 

「実はあの時気分が悪くて、本当に払ったか記憶に自信がなくなってね。もしもがあるといけないと思って。でも今考えれば、電子決済の記録を確認すればよかったんだ。現金を持たないメリットを活かせていないね」

「あ・・・、そ、そうでしたか。でもどっちにしろ、お返ししますので」

「・・・そう」

 榛名はそうは言ったけど、封筒を受け取る手は出さず、シンクに寄りかかったまま。

 二人とも突っ立ったままの沈黙。

 ここでこうしていると、榛名は何だか年齢不詳・職業不詳の、何者でもないオッサンに見えた。

 ネット記事に出ていた写真(パパラッチじゃないやつ)はもう少し若い頃のものだったのか、日焼けしたサーファーみたいな雰囲気で、精悍な顔つきに、目はギラギラしていた。

 目の前にいる男は、別人みたいだ。

 ネットと現実、元社長とバイト、200億と2万。

 ・・・距離感が狂う。

 あの女優の顔がチラつけば、また痛みが走る。

「じゃあ、返しますので」

 突きつけても受け取らなくて、「でも、ああほら、水を買ってもらった実費もあるし」などと言い訳をする。もちろん、2万くらいあげたって失くしたって痛くも痒くもないんだろうが、何だか馬鹿にされているような気持ちになり・・・いや、なった踏み込んだ。

「すいません、あの、ネットの記事でいろいろ、見ました。何か、よくわからないですけど、その、変な・・・口止め料、的な、アレじゃないですよね?別に、あの時部屋で僕、何か見たりとか、してないですけど」

「・・・」

「ごめんなさいちょっと、失礼なこと言ってるかもしれないですけど、でもとにかく、2万円も受け取る理由は、ないし」

 喋りながらも、現実感がグラグラする。

 相手を引きずり下ろしてやるような、あるいは、自分がそういう場に上ってやったような。

 ・・・あ、いや、でも普通に考えれば、上るどころか僕がクビになるコースか、これは?

「・・・わかった」

「は、はい」

「・・・うん、でもぼくね、そういうことならそれで、お金は1円単位までキッチリしたい性質タチなんだ」

 榛名は封筒を受け取り、中を見て、1万円だけこちらに差し出した。

「あの炭酸水2本で・・・確か792円かな。これでお釣り、9,208円もらえる?それからもちろん領収書も」

「・・・うっ」

 持ち合わせは3,000円くらいしかないし、レシートだってない。

「どうする?」

「・・・」

 ・・・何だよ、いい大人が万札なんかヒラヒラさせて。

 バイトの若いやつくらい、いくらでも屈服させられるって?

 バツ2だの不倫だのデキ婚だの、こんなやつ、ただ金に飽かせたクズ男じゃないか?

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