第4話:レジデンス
廊下に出てブラついていると、何人かが出てきて外の非常階段にアイコスを吸いに行った。
バイトの自分にインセンティブが入るはずもないし、僕にはそわそわする当てもない。
・・・すると、後ろから「お疲れ」の低音。
榛名だった。
「あ、お疲れ様です」
「昨日、雨大丈夫だった?」
「は、はい、平気でした」
「ねえ、よかったらひとつ、お使いを頼まれてくれないかな」
「はい、何でしょうか」
榛名は、いつも飲んでいる炭酸水が欲しいのだと言った。ここの自販機のものではなく、少し先にあるカフェバーで売っている瓶のもの。
すっと手が動いて財布を出そうとするので、「あ、大丈夫です、とりあえず買ってきますので」と止めた。いや、億万長者に対して何を遠慮してるのか。
「あの、1本で大丈夫ですか?」
「ああ、それじゃあ2本お願いするよ」
「わかりました、すぐ行ってきます」
エレベーターを呼ぶのももどかしく、階段を駆け下りる。
会社のお偉いさんどころか、日本でも有数の実業家がそこにいるというのが、うまく理解できなかった。
でもまあ、とにかく水を買ってくるだけだ。
何とか無事に1本360円(税抜)の水を買い、瓶を2本抱えて会社へ戻る。
休憩は終わってしまっただろうかと走っていたら、近道で横切った神社で「ああ、速い速い」と笑う声。
「あれっ、す、すいません、お待たせ、して・・・?」
「うん、あのねえ。・・・お使いついでに、もうひとつお願いしたいんだ」
「何でしょう」
「タクシーを拾ってほしい」
「タクシー、ですか。どちらかへ・・・?でも、ミーティングは・・・」
榛名は、うちだけの顧問ではない。
いくつもいくつも、関連企業の顧問や役員として名を連ねている。
きっと別の会社に行くのに違いない。
・・・と思ったら、違った。
「実はちょっと、急に具合が悪くなってね。申し訳ないけどここで帰らせてもらうよ」
「えっ、だ、大丈夫ですか!?」
「うん、本当は、車の方がいいんだけど」
「車?」
「今、自分で運転できそうにないから」
・・・あ、あの、黒のフェラーリ。
「それならぼくが、うんてん・・・、あー、すいません、・・・できません」
AT限定しか持ってないし、そうでなくても、フェラーリなど動かせる自信はない。
「タクシーにしましょう。すぐ拾ってきます」
本人を乗せて終わりかと思ったら、「君も」の一言で、なぜか隣に座る。
「一本メールを打ちたいんだ。でも目が痛くて、画面を見ていられない」
メールアプリが開きかけのスマホを受け取り、とりあえず言われるまま文面を打ち込む。今夜の予定は申し訳ないけどキャンセルさせて下さい、明日また連絡します・・・。
金曜の夕方、混み合った外苑西通り。
文字を打ちながらも、スマホがブルっと振動し、何かのアプリの通知が表示される。
取引金額とか決済とかの単語がちらりと見え、急に怖くなってきた。
隣で目頭を揉んでいる、少しくたびれたオジサン。
最新機種でもなく、革のカバーも擦り切れたスマホ。
・・・実業家。IT富豪。200億。
ほどなくして、タクシーはまるでどこかの大使館みたいな青山何とかレジデンスに入っていった。
家の前の、ちょっと玄関先で「それじゃお大事に」っていう感じでもない。
地下駐車場から、行き先別の専用エレベーター。
まるで高級ホテルのような・・・と形容しようにも、そんな経験値もないので何も言えない。
ただ、あちこちに、調度品としか言い表せないものが置かれていた。<ちょうどひん>って何だ。
・・・玄関も、玄関なのかどうかよくわからない。鍵をガチャリとする玄関ドアという存在がなく、どこまでが玄関でどこからが部屋なのか廊下なのか、ただ言えるのは、とりあえず、たぶん、広い。
「悪かったね、付き合わせてしまって」
「いえ、だ、大丈夫です。でも・・・」
「入って。ちょっと、お茶でも」
こんな、履き古したスニーカーとか、3足1,000円の靴下とかで、上がっていいのかどうか。
4,980円のジーンズで座れるソファなんかあるだろうか?
2,900円のフリースジャケットを置ける床なんかあるだろうか?
時給1,200円の僕が飲めるお茶なんか、あるだろうか??
・・・今すぐ帰りたい。
でも強引に「ここで失礼します」と言おうにも、エレベーターのセキュリティ的な何かを突破できない。指紋認証?
「紺野君?」
「は、はいっ」
「コーヒーでいいかな」
「あっ、はいっ」
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