第8話 魔術師、婚約者と学ぶ
ノックの音で目が覚める。
レリア・フィニーはぼんやりとした意識のまま、どうぞと、いつも通り入室を許可し、入ってきた女性を見てから、ああ、そういえばここは自宅じゃなかったんだと気付く。
「おはようございます、レリア様」
「うん、おはよう」
寝起きは悪い方ではないが、決して良い方でもなく、少しばかり覚醒には時間が必要だ。
「今、朝食の準備をしていますから、しばらくしたらキッチンへ向かうように、とのことです」
「そう、ありがと……ん?」
いつもより早く、覚醒を迎えた。
ここは自宅ではないのだ。
「もしかして、ラルくんが作ってる?」
「はい、そう聞いています」
「あー……」
昨日の夕食も、パストラルが作っていた。豪勢とは言わないにせよ、ちゃんとした料理が出てきて驚いたものだ。当たり前のように美味しくて、普通に満足できた食事である。
「本当に二つ年下なのかな」
「そう聞いてますが」
「うーん、なんかすごく負けてる気分がする」
腕を組み、ううむと唸ってみても、現実が変わるわけではない。
「わかった、準備するね」
「はい」
誰かに着替えを手伝ってもらわなくては着れない服は持って来ていないし、だったら一人で着替えられる。顔を洗って、歯を磨いて、髪はいつものようおさげを二つ作れば、それで完了だ。
部屋を出て階下へ。キッチンに行くと、パストラルが料理をしていた。エプロン姿にものすごく違和感はあるが――。
「おはよう、ラルくん」
「おはようレリア。もうすぐできるから、座っていて。よく寝れたかな?」
「うん。疲れてたからかな、すぐ寝れた。料理が作れるのは昨日わかったけど、どうしてわざわざ自分で?」
「料理人は本館にいるから、最初のうちは頼んでたんだけど、興味があってね。それにぼくは。どっちかっていうと魔術研究に没頭しちゃうから、きちんと三食を自分で作ることで時間感覚を作ってるっていうのもあるよ」
「え……でもそれ、研究の時間が削られない?」
「あはは、納期が明日の仕事があるっていうならまだしも、時間がないなんて言い訳だよ。それに、ちゃんと食事をとって、寝て、そういう生活をしないと精神も肉体も、充分にならないからね。――なんて、夜更かしはそれなりにするから、説得力はないかな」
お待たせと、皿を並べる。サラダもあって、朝だから重い肉類はなく、健康にも配慮したメニューだった。
「気にしないなら、騎士さんもご一緒にどう?」
「うん、あたしも気にしない」
「……はい、では失礼して、隅で食べさせていただきます」
「どうぞ」
いただきますと声を揃えて、食事が始まるが、騎士の女性は意識してゆっくりと食べることにする。騎士団では、早食いが推奨されるから、いつも通りに食べるとすぐに終えてしまう。
「そうそう、今日は午前中にご婦人――ご老体の奥さんが来るから」
「――フユ・イーダー様?」
「うん。週末はお休みで、週の前半と後半で二日ずつ、どちらかが交互に来ることになってるんだ。昨日はご老体だから、今日はご婦人。で、ご老体は午後から、ご婦人は午前中。といっても、以前は兄さんに魔術なんかを教えていたんだけど、今はいないから、だいたいはぼくと歓談して終わるってだけかな」
「歓談って……フユ様のことは詳しく知ってるの?」
「門下がそれなりにいて、教鞭を執っていた時の話なんかはよく聞くよ。苦労したなんて、嬉しそうに話すもんだから、ぼくも楽しく聞いていられる」
「その門下が、水の大公老師をしてるんだけど」
「知ってるよ。本人が断わって教育に向かったのもね。今はどうだろう、ご老体もそうだったけど、ちょっと退屈してる感じがあったかな。おかげで若返ったって言ってたよ。ぼくのことを話題に会話も増えたとか。さて、一体どんな話をしているのやら」
そうだった。
天冥の大公老師であるレリアの祖父と友人であるパストラルにとって、大したことではないのかもしれない。
朝食を終えて、少し休憩してから研究室へ。
「とりあえず、
「いいよ。その前に、自分で術式を作ったことはある?」
「改良くらいなら」
「うん」
最初に覚えるのは、術式の使い方だ。これはほとんど感覚に任せ、術陣で補助し、使った現実から習得する。基本的にはこれを繰り返してレパートリーを増やし、学校に入ってから術式の改良や開発を覚えるものだ。
といっても、覚えて作れるようになったところで、一年で二つ大きな改良ができれば優秀と言われている。
「じゃあ、展開式は使えるね?」
「もちろん。連立式や複合式、混合式の把握はできてる」
感覚的に術式は作れないため、まずは魔術構成を自分で把握する必要がある。そこで展開式と呼ばれる、構成を目で見えるよう展開する技術があり、視覚的な操作で構成を組めるようにするのが、第一段階。そして、構成の中に存在する作用で、繋がりを示す連立と複合、それらを混ぜて作用する混合――数式で言うところの加減乗除のようなものを把握するのが、第二段階だ。
そして第三段階。
「じゃ、今度は
「――重複?」
「魔術書なんかにはあまり書かれていないし、基本なんだけどね。展開式は平面だろう?」
「それは、うん、そう」
「実際には立体なんだよ」
「……立体?」
「うん。これは意識の変換が必要でね。たとえば、これはぼくの構成を可視化した展開式なんだけど」
テーブルの上に展開させたのは。
「糸?」
「そう、ぼくの魔術回路を通った魔力は、こういう形で展開する。普通は他人に見られないようにするんだけどね。わかるとは思うけど、糸の太さも違うし、それぞれ絡み合って一つの術式になってる――けど、レリアは平面に見えてるだろう?」
「うん」
「でも、ぼくはこれが立体に見えてる。だから中身を変える必要はなくて、今まで見えていたレリア自身の展開式だって、ずっと立体だったんだよ」
「そういう意識を持つことが大事なのね? えーっと」
「ぼくの方は決しておくよ。ちなみに、レリアの展開式はどういう形をしてる?」
「円の連続かな。二重円になってるところもあるし、重なったり繋がったりしてる」
「ああ、それは全部、球体だね。そりゃ水の適性があるわけだ、それこそ水球や水滴を連想させられるよ。――ああ、老人の朝は早いね。出迎えてくるから、少し待ってて」
「待ってていい?」
「もちろん、まだレリアだってお客さんなんだから」
「ありがとう」
のんびりと歩いて玄関へ向かう。タイミングが重要だ、あくまでも敷地内に敷いてある感知系の術式に引っかかっただけに過ぎない。これも彼女、フユ・イーダーにとっては、解除も回避もする必要がないと思っているだけであり、対策をしないだけだ。
そして。
「いらっしゃい、ご婦人」
「はいはい、おはようございます、ラルさん」
「うん、おはよう。今日の散歩はどうだったかな」
「そうですねえ、少し肌寒いものだから、暖かくしないとけませんね」
「季節の変わり目を感じるのは良いね。それに今日は、ご婦人にとって新しい変化があるんだ」
「あら、それは嬉しいものかしら」
「それはどうだろう、もしかしたら苦労かもしれないよ?」
「意地の悪い言い方ですねえ」
部屋に戻ると、わざわざ立って待っているあたり、レリアもしっかりしているというか。
「ぼくの婚約者になった、レリア・フィニーだ。驚いたかい?」
「初めまして、フユ様」
「あらあら、まあ、そうでしたか。――ついにラルさんもお目付け役ができましたか」
「おっと、そうきたか。確かに好き勝手やっているけれど」
言いながら、躰がすっぽりと入るくらい大きな水球をテーブルの横に術式で作り、そこにフユは腰を下ろす。自重で球体は変化し、ほどよい弾力を持ちながらも躰を包み込む。
「はい、いつもありがとうございます」
「ご婦人の術式チェックに通ったようで、今日も安心だよ。さて、きっとご婦人は、どういう理由でレリアが婚約者になって、今ここにいるのかを知りたいだろうけれど」
「あら、おあずけかしら」
「フォードとは知らぬ仲じゃないんだろう? 遭遇はしてないけど、彼はぼくの友人なのさ」
「ラルさん、そんなことを言われたら、もっと詳しく聞きたくなりますよ」
「うん、だから我慢かな。今ちょうど、レリアに重複式への意識を教えようとしていたんだけど、さて、ぼくは最初から、そういうものだと思っていたのもあって、どう教えようかと首を傾げていたのさ」
「グランデさんも、学校に行く前にようやく術式の改良を覚えたのですよ」
「難しいかな?」
「――いいえ、意識を変えるだけならば、それほどでもありません。ただ順序を飛ばしています」
「そうかい? 教育を語るつもりはないけれど、今やっている作業が本質的な部分のどこなのか、それを理解しない作業ほど詰まらないものはないと思うよ?」
「……仕方がありませんねえ。ではレリアさん」
「はい」
「どのような術式を作ろうと考えているのか、聞かせていただけますか」
「簡単な部類だと聞いたので、
「――ラルさん」
「簡単だろう? 新しく術式を作ろうって挑戦をするなら、どんな術式でも似たようなものだ。実際に作れるのに二ヶ月、半年もしたら実用も視野に入るし、一年したらまともに使いだす。こんなものかと落ち着くのに二年――ほら、どんな術式でもそんなもんだろう?」
「良いですかレリアさん。あまりラルさんの言葉を鵜呑みにしてはいけませんよ。特に魔術は、やってみて駄目そうなら、一歩引いて別のことに挑戦することも重要です。諦めなければいずれたどり着きますからね」
「ええ、はい、わかりました」
「なんだか、遠回しにひどいことを言われてる気がするなあ。ぼくだって、全部が全部、ぼくを基準に考えているわけじゃないのに」
「まったくこの子は……レリアさん、手を」
「あ、はい」
立ち上がって近づいたレリアは、フユの手に触れる。しわが目立つが、柔らかい手だと感じた。
「一度、展開式を見せていただけますか」
「何でも良いですか?」
「ええ。できるなら、レリアさんがよく知っている術式にしてください」
「わかりました」
展開された式は、基本的にレリアしか見えないものだ。だから三十秒ほど、うんうんと微笑みながら頷き、フユはきちんと解析して。
「はい、ありがとう。一度消してください」
「もういいんですか?」
「ええ、これがレリアさんの展開式です」
言いながら、フユが展開したものは、無数の球体が重なり合って作られた式であった。
「へえ」
一瞬、驚きによって動きを止めていたレリアは、小さいパストラルの呟きによって我に返る。
「すごい――これ、あたしの術式なんですか?」
「そうですよ。かたちは違えど、私やラルさんにはこう見えています。さあレリアさん、まずはこれをよく覚えるところから始めましょう。今までの展開式との類似点を探して、相違点を抜き出して、じっくり観察してください」
「わかりました。……うっわ、すごい、すごい。へええ」
平面だったものが立体化するだけで、何もかもが違うような気がする。ただ何よりも、綺麗だ。美しいと言って良い。細かく見れば複雑だが、少し離れてみれば――それこそ、水球がいくつも集まったような美にさえ見える。
すかさず、ノートとペンを差し出すあたり、パストラルの気遣いは上手い。
「面白い術式を使うね、ご婦人。相手の展開式を読み取っての、そう、
「ラルさんはどうやって重複式に着手しましたか」
「うん? 世の中は平面じゃなくて立体なんだから、それが平面に見えるなら一部しか見ていないんだろうって感覚から、そのまま展開式を立体化して探りを入れたよ。驚きはなかったけど、感動はしたかな」
テーブルの上は、平面だが、テーブルそのものは立体だ。つまりパストラルは、これが平面なら物事の一部で、全体像を自分が把握していないだけだと、そういう疑問から入ったのだ。言われてみれば当然の思考だが、自分の術式を新しく作ろうとする者でさえ、気付いていない者の方が多いのが実情である。
そもそも。
属性ごとに分類され、学校で魔術を学んだところで、全員が魔術師の道を選ぶわけではなく、せいぜい三割ていど。その中で、研究職に就くのはわずかであり、新しい術式を作ろうなどと思う者の方が少ないのである。
つまり重複式など知らずとも、何も困らないのが、現実だ。
さて。
しばらくはそのまま触れさせ、十五分ほど経過してから。
「レリア、そろそろ自分の展開式を使ってみたらどうかな」
「うん」
「では一度、こちらは消しておきましょう」
言われるがままに出してみるが、やはり平面だったらしく、レリアは首を傾げた。
「レリアさん、そのままで、横から見てみましょうか」
「横から、ですか?」
「見えてはいませんが、これは立体です。それはわかったでしょう?」
「はい――あ、かたちが」
変化する。変わらず平面のままだが、球体であるがゆえに、配置は変われど円は円として捉えられる。
「これは、ただの水球です。どうぞレリアさん、これを手に持って、今度は見るのではなく感じてください。球形の立体で、レリアさんの展開式はすべて、これで作られているんですよ」
「さっきも言ったけど、レリアの意識の問題だけだよ。なあに、焦らなくてもそこにあるんだから、右からでも上からでも、見ながら感じ取ればいいだけさ。簡単なことだよ」
「うん」
そこからまた、十五分ほどしてから、レリアの展開式は立体化した。
「あ、できた」
何度か決して、違う術式で試してみても変化はなく、やはり立体のままだ。
「へええ……ありがとうございます、フユ様」
「いえいえ、早いですよ、レリアさん。補助はしましたが、それでも一度では理解できません」
「でも理解できれば、こちらの方がしっくりきます。――で、これで術式を作るの?」
「最終的にはね。次のステップは、展開式に触れるようになろう、だよ」
「え、触るの?」
「そうだよ、その方がわかりやすい。つまりは、自分の手で動かして術式の構成を変えようって話だ」
「でもそれ、いや、そもそも無理な構成にしたら展開式が消えるじゃない」
「そこを消えないようにするんだよ。イメージ、一番わかりやすいたとえは、鍛冶屋だ。彼らは鉄を打って剣を作る、これが術式の構成を作る部分だ」
「うん、わかる」
「彼らは、火を使って鉄を打つ場所で、わざわざ紙を広げて設計図を書くかい?」
「――あ。うん、うん、そんな馬鹿な真似はしない。別室で、紙とペンを使って、書く。あーなるほど、そっか、術式を直接いじってるからいけないんだ。いやそれだとしても、そもそも発動を前提とせずに、ストッパーと
「仮組みは良い表現だね。これらは作るって意識よりも、改良でいいよ。今ある展開式の仕組みを、ちょっとばかり変えるだけで済む。展開式にはもちろん、自分の魔力が通ってるんだから、自分の魔力で触れればいい。今度は、自分の中に答えがある」
「内側? 魔術回路と魔力?」
「そのあたりさ。展開式がどういう仕組みなのかを理解するといい。それに魔術なんてのは、いつだって答えは自分の中にあるものだよ。足りないなら、それは知識か発想だ」
「そだね」
新しいページを開き、書き込みをしながらも自分の展開式に没頭する様子からは、少なくとも魔術が嫌いではないことがわかる。それだけでもパストラルとしては、大成果だ。
「どうだろう、面倒だったかな?」
「教えるのは好きですよ。ただこれではラルさんのペースです」
「急いでるつもりはないけどね。それにまだ、レリアと逢うのは二度目だから」
「あらまあ、先にそれを言いなさい。嫌ね、私が邪魔をしたみたいじゃないの」
「いいんだよ、ご婦人が気にすることじゃないし、邪魔なんてことはないのはわかっただろう? 気付かないってことは、それだけ本心だったってことさ。それに、午後からは街案内って言葉の素行調査をする予定だからね」
「はいはい、それは重要です。きちんとなさい」
「厳しいなあ。ぼくは女性には誠実なつもりだけどね。たとえ、表向きの婚約でも」
「そうでしょうねえ」
それは、どちらに納得した言葉なのだろうか。フィニー家の名前が出た時点で偽装婚約の可能性にまで至っていたのか、それともパストラルの日ごろの行いに対してか。
どちらも、かもしれない。
「フォードなんかは年下だろう? 学生の頃っていうよりも、卒業してからの知り合いになりそうだけど」
「そうでもありませんよ。夫はともかく、王都学院は大公老師になるような教育を受けられますからね、長く滞在します。私がまだ教員になりたての頃の学生が、フォードですよ」
「へえ、それはまた苦労話が聞けそうだ。でもそうすると、ご老体との接点がないね? たまたまかい?」
「うちの人の話はいいでしょう」
「そうだったね。……彼女は、兄が二人いる環境だ。顔を立てる意味合いでも、実家じゃ好き勝手できないだろうからね。知識はあっても、きっと実践はしていないだろうと思っていたのさ」
「そういう気遣いはできるんですけどねえ」
「本人が楽しむことを第一にしてるけどね」
「それをちゃんと、レリアさんに話せばいいでしょう」
「嫌だよ、そういう気遣いはこっそりやるべきだって教わっているからね」
それは大人の女性に対してであり、子供の、ましてや婚約者に対するものとしては、少しばかり違ってくるし、誤解を生みやすい手法でもあるのだが――それをパストラルも自覚してやっているあたり、頭の痛い話だ。
「しばらくはこちらに?」
「予定だと五日間だったかな。移動の距離もあるし、それくらいの滞在時間は欲しいところだ。多少の融通は利くよ」
「わかりました。次に会う時までに、少しまとめておきます」
「助かるよ。たぶんレリアのことだ、次にご老体が来たら躰を動かしたいと言い出すだろうから、そちらもついでに頼むよ。ぼくは効率的に教えることができても、学ばせることは難しそうだから。これも経験だと思って、ご婦人のやり方を見せていただくよ。兄さんの時は、それほど詳しくは聞いてないからね」
「勤勉ですね」
「そりゃあね、きっとそれも必要なことだから」
いずれ、パストラルは人形を完成させるし、させない未来はない。
だが、作って放置するのでは単なる自己満足。生命を宿したのならば、そこから先はあるし、責任を取らなくてはならない。
ただ、間に合うかどうか。
パストラルにとっての懸念は、時間との勝負になる、その一点である。
――
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