第一章④

「根拠は?」

「そんなもの知ってどうするんだ?」

 別にどうするつもりもなかったから無言で肩をすくめると、相変わらず熱のない口ぶりがポツリと続いた。

「──あんたは、何も知らなくていい」

 その先は会話もなく、二人はブラブラと駅前の交差点まで辿たどり着いた。どういうルートで帰るつもりなのか、ちょうど青信号に変わった青梅街道の横断歩道を坂上はさっさと渡りはじめる。

「随分と回り道するんだね」

「腹が減ったからメシを食って帰る」

「なんだ、遠回りって夜ごはん? もしかして、食べにいく途中でさっきの現場を通りかかったとか?」

「ミネラルウォーターと銃を持ってか?」

「銃はともかく、たまにいるだろ? 飲食店にペットボトル持ち込んで飲んじゃうヤツ。しかも空にして置いてったりとかさ」

「一緒にするな」

 道路の対岸に渡り切って、駅の出入口から地下に降りた。これはどうやら、お気に入りのしいたけそばでも食うつもりらしい──と思っていたら、彼は中華料理屋の方向じゃなく、ビル内の飲食店街に向かっていく。

「なんだ、中華じゃないのか」

「そのつもりだったけど焼き鳥にする」

「焼き鳥なら、さっきもあったのに」

「いま思いついたんだから、しょうがねぇだろ」

 焼き鳥と言ったわりに、坂上はチェーン居酒屋の席に落ち着くなり、中野の意向もかずに生ビール二丁とめんたいおにぎりをオーダーした。

 しかし、これがうつむき気味にボソボソ言うものだから二度訊き返されてもまだ伝わらず、三度目は見かねた中野が代わりに伝えて、ようやく店員が去った。

「もうちょっと大きい声で言いなよ」

「言ってる」

 意固地な主張に、反論はしないことにする。

しよぱなからおにぎりなんて、よっぽど腹が減ってたんだね」

「だから減ってるって言っただろ」

 すぐにジョッキ二丁がやってきた。蒸し暑い夜、アクシデントに見舞われたあとの冷えたアルコールは格別だった。殊に、バーでの酒がうまくなかったこともあり──隣にいた客のせいであって、決して店の責任じゃない──こうして同居人とサシで飲む時間が、いつにも増してぜいたくに感じられた。

「で、ほかは何を食べんの?」

 ビールを一気に減らした中野がメニューを眺めて尋ねると、坂上はほおづえを突いたまま抑えた声を寄越した。

「あんた、あんなことがあったばっかりでよく平気だな」

「うん? 平気じゃないよ。彼女が回収される前に無関係の通行人に発見されたり、どこかに映像が残ってたりしないか大いに心配してるよ。でも、大丈夫って言われたら気にしてもしょうがないし」

「そういうことじゃなくて……前のアパートのときもそうだったけど、動じなさすぎじゃねぇか?」

「いまさら、あんたがそれを言う?」

 中野はメニューから目を上げて、こう続けた。

「まぁ、そういう人格を選んで生まれたわけじゃないから、どうしようもないね。けど、前にあんたも言っただろ? 他人は代替可能なパーツでしかない、みたいなこと」

 坂上は無言で聞いている。

「自分の命を狙いにきた殺し屋なんて、俺にとっちゃパーツですらない。それが目の前でくたばったところで、いちいち──」

 言いかけて正面の表情に気づいた。妙に硬い色合いがそこにあった。

 同業の匂いがする坂上を前に、殺し屋は消耗パーツ以下だなんて発言は不適切だったかもしれない。中野は思い、素早く話の軌道を調整した。

「あんたの仕事が何であれ、そういう出会い方をしたわけじゃないんだから別だよ? パーツなんかじゃないし、交換可能でもない」

「そんなこと訊いてない」

 坂上は短く言って、この話は終わりだとばかりに呼び出しボタンを押した。最初のオーダーも中野が代役を務めたくらいなのに、店員なんか呼んで一体どうするつもりなのか。

「今度はちゃんと聞こえるように言えるかな?」

 ニヤニヤ笑って首を傾けた中野に、射殺しそうな視線が飛んでくる。

 そのくせ店員が登場すると、坂上はやっぱりシャイな風情たっぷりの面構えでヘルプを求める無言の目をした。


    3


 九月に入り、暦の上では秋が訪れても、残暑の衰えはまだまだ遠かった。

 それでも帰宅して地下室に入った途端、暑気と仕事で疲れた身体を冷気が瞬時に包み込み、速やかに外界を忘れさせてくれた。しかも部屋の中では、ここ数日間行方をくらますことなく家にいた同居人が、こうこうあかりをけたままベッドで熟睡しているとくる。

 中野は声をかけようとして思い直し、しばらく無防備な姿を見物することにした。

 普段、彼の寝顔を拝む機会はあまりない。大抵は中野のあとに眠り、中野より先に起きる。たとえ眠っていても、寝起きとは思えないコンディションで野生動物のように目を開けるのが常だった。

 だから、こんなふうに眺める余裕があるのは珍しい──と思っていたら、不意に目覚めた坂上が殺気をみなぎらせて枕の下に手を突っ込んだ。が、すぐにピタリと動きを止めて中野を見上げ、みるみるかんして欠伸あくび混じりにつぶやいた。

「なんだ、あんたか」

「枕の下に銃が入ってんの?」

「いや。ないから一瞬、もう死んだって思った」

 坂上は放るように言って枕に頰を埋めた。

「──腹減った」

 くぐもった呟きが漏れてくる。

「何食いたい?」

「何が食えるんだ?」

「そうだな。卵はあったはずだから、オムライスか……」

「じゃあオムライス」

「あとはね」

「オムライス」

「あ、そう?」

 中野が着替えてオムライスを作る間、ベッドから出てきた同居人はダイニングテーブルでテレビを眺めながらビールを傾けていた。

 シンプルなラベルのボトルは、彼が先週ケースで持ち帰ったレッドエールのベルギービールだ。よっぽど腹が減っているのか、画面に流れているのは料理番組だった。

 なのに、できたてのチーズがけデミグラスソースのオムライスを目の前まで運んでやっても、相変わらず礼のひとつ返ってくるでもない。それでも、早速スプーンを取ってチラリと見上げてきた顔に、礼も言えない自分を何とも思ってないわけじゃない──とでも言いたげな色合いがチラついて見えて微笑ましくなる。

 中野も自分の皿とビールをテーブルに置いて、彼の正面の椅子に陣取った。

「そういえばさ、そろそろ光熱費くらい請求しようって思わない?」

 ボトルを手にして声を投げると、こちらをいちべつした無言の目がそのままテレビに戻っていった。

 二カ月前に越してきてからこれまで、中野はほとんど生活費を払っていなかった。前のアパートに住めなくなったことも、不便な暮らしをしなきゃならないことも、たまに危険が迫ることも、みんな自分のせいだからと坂上が受け取ってくれない。

 しかし仮に、この建物が彼本人か、彼が属する何らかの組織──そんなものがあるなら、だ──の所有物件だとしても、近場のライフラインから無断拝借でもしない限り、生活インフラまで自前ってことはないだろう。だから常識的に考えれば公共の設備を使っているはずだけど、それらの契約状況すら中野は知らない。

 結果、負担するのはせいぜい食費の何割かくらいで、節約できると喜ぶよりもヒモにでもなったような気分で落ち着かない。

 それに生活費がかからないからと言って、貯めたい目的も特にない。カネをぎ込みたい趣味もなければ、ペーパードライバーだから高級車を買おうなどと血迷ったりもしないし、地面に根の生えた荷物に縛られたくない中野は持ち家派でもない。

 ついでに、箱だけじゃなくて中身もほしくない。根の生えていない荷物にも縛られたくないから妻や子どもを養う予定もない。

 あとは強いて挙げるなら、人生百年時代のセカンドライフ資金くらいしか思いつかないけど、できることなら長生きはしたくない。

うまそうにメシを食ってくれるのはうれしいけど、聞いてる? 俺は自分が生きるためにかかるカネぐらい、自分で……」

「何の意味があるんだ?」

 坂上の投げりな声音が遮った。

「カネはカネだろ、誰が払うかなんてくだらないことにこだわる必要あるか?」

「必要っていうか、まぁ、俺は自分を生かすために働いてるわけだからさ。その理由がなくなったら、毎日スーツ着て出勤してる意味がわかんなくなるしね」

「あんたこそ、それなりの給料もらってるくせにあんなシケたアパートに住んでて、毎日スーツで出勤する意味をどう思ってんだ?」

「前のアパートのこと? そんなにシケてた? あれでも住みはじめた頃は新築だったんだよ」

「築年数の問題じゃない。き出しの外階段から玄関まで直行できただろ」

「まぁ……そうだね?」

 彼の基準では、セキュリティ面でぜいじやくな物件は『シケてる』らしい。

「確かに、いまどき無防備なアパートだったかもしれないけど、別にられて困るものもなかったしな」

「命もか?」

「それを言ってしまうとさ。どんなところに住んでても、本気で侵入してこようってヤツがいたら防ぐのは難しくない?」

 いつもBGMのように点けている海外ドラマでも、ようさいのようなセキュリティがあの手この手で突破されていく。別に魔法や近未来みたいな技術じゃなく、現代の物理的手段で、だ。

 坂上はもう反応せず、テレビに目を戻して黙々とスプーンを動かした。画面では、既に別の料理番組がはじまっていた。さっきまでは豚肉料理、今度はとり肉料理らしい。

 次に声が返ったのは、皿がほとんど空になってからだった。

「あんたを生かしてるのがあんた自身じゃなくて俺なら、カネを払うのが俺ってことで文句ねぇのか?」

「うん……?」

 言葉の意味を中野が考えている間に、坂上はわずかにまゆを曇らせて、忘れてくれ、と呟いた。

「えっと、あんたが俺を養うって話?」

「忘れてくれって言ったよな、いま」

 投げ出すように言ってオムライスの残りをガツガツと平らげた彼は、食い終えた食器をシンクに運ぶでもなく、ふらりと立ち上がって入口脇のバックストップめがけて数発ぶっ放すなり、無言でバスルームに消えた。

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中野くんと坂上くん(上) エムロク/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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