第一章③

 行為の最中、坂上は日常よりもはるかにじようぜつになる。語数ではなく、声にちゃんと感情がこもるという意味で。

 だからセックスのときには彼の反応を引き出すのがひそかな楽しみだったし、隣近所をはばかる必要がないという地下の利点も中野は気に入っていた。

 が──平素の姿が噓のように興奮を見せた坂上は、終わった途端、今度は行為中の姿が噓のように速やかに平素の色合いへと戻ってしまう。

 余韻なんかこれっぽっちもない。身体を起こしたその顔ににじんで見えるのは「やっちまった」とでも言いたげな不本意の色だけだ。

「あぁ、クソ……」

 彼は今日もそう呟くと、童話のパンくずみたいに点々と床に落ちていた衣類を次々拾ってバスルームへと消えた。

 それを見送ったあと、中野もベッドを降りてキッチンに向かった。

 がりに夜食を要求されるに違いないから、戻ってくるまでに何か作っておいたほうがいいだろう。あんなに生への執着とは無縁そうなのに、同居人は意外と食い意地が張っている。

 まぁ、腹が減っては戦ができないし、戦のあとには腹が減るものだ。


    2


 数日ぶりに定時退社したその日、昨夜から降り続いた雨は夕方にはすっかり止んでいた。代わりに、午後になってグッと気温が上がったせいで、ひどく蒸し暑い。

 中野は駅まで歩きながら坂上に電話をかけた。

 最初に紙切れで受け取った番号は、再会した頃にはとっくに不通になっていた。地下室で暮らしはじめてからも既に何度か変わっていて、現在のものがいくつ目の番号なのかは、もうわからない。

 うち一度なんか、一緒にメシを食った帰りに坂上のもとに着電して、歩きながら通話を終えた──正しくは耳に当てただけで、ひとこともしやべらずに切った──彼は、そのまま抜き取ったSIMカードを側溝の格子状の蓋グレーチングに放り、通りすがりのコンビニのゴミ箱に端末を捨てて、電話なんか持っていなかったかのような顔で「腹が減った」と低く吐いた。──繰り返す。メシを食った帰りに、だ。

 とにかく、いまかけているのは昨日聞いたばかりの番号だから、いくら何でも通じるだろう。そう期待していたら、コールを三回聞いたあと無事に本人が出た。

「なんだ?」

「ちょっと飲んで帰ろうかと思うんだけど、あんたもどう?」

「いや、俺はいい」

「あ、そう」

 どこにいるのかをこうと思ってやめた。こないと言う以上、所在を気にしたって意味はない。

 地元まで戻り、坂上と知り合ったバーを覗いてみると、今夜はそこそこの混み具合だった。ざっと見たところ知っている顔はない。誰かいても当たり障りのない会話をするのは苦にならないけど、いなければ気楽でいられる。

 ところが、カウンター席でウイスキーのロックをオーダーしてほどなく、隣のスツールに滑り込んできた女が中野に向かってこうささやいた。

「一杯おごってもらえない?」

 確かに、見知らぬ赤の他人にいきなりそんな要求をしても許されるレベルの美女ではあった。何かの式典にでも出席した帰りかと思うような黒いドレスは、ボディラインを強調していて露出度も高い。

 が、ここはマンハッタンでもなければ、百歩譲ってぎんでもない。中野坂上だ。

 何が狙いだ──?

 一瞬そう勘繰り、次の一瞬で断ろうと考えた。しかし奢る理由もない反面、断る理由も見当たらない。それに、いくら相手が非常識だからって酒の一杯を渋るなんて、アラフォーリーマンのけんにかかわるというものだ。

 中野は素早く愛想笑いを作った。

「喜んで」

 すると女はカウンターの向こうにようえんな笑みを投げ、躊躇ためらう素振りもなくウイスキーの銘柄を口にした。中野にはみのない名前は、メニューの紙面になら見たおぼえがあった。

 待てよ、ソイツはウイスキー欄のラストに載ってるヤツだよな──?

 価格順のリストで、だ。

 ただまぁ、ジーンズにスニーカーでも気兼ねなく入れるようなバーだ。たったいま隣り合ったばかりの他人に断りもなく奢らせるものじゃないとは言え、目玉が飛び出るような価格でもない。その程度のことを四の五の言うような器の小さい男にもなりたくはないし、どうせ撤回するわけにもいかない。撤回しないのなら考えたって仕方がないから、中野はそっと息を吐いてあきらめた。

 救いは、女の厚顔っぷりはともかく彼女は知識が広く話術にけていて、決して退屈はしなかったことか。

 それでも二杯目を求められたら、きっといい気分はしないだろう。そう予測して早々に退散することを決めた中野の心は、だから帰り際にこんな誘いを受けたって、もちろん動かされるはずがなかった。

「ねぇ。よかったらこのあと、うちにこない?」

 酒をねだったときよりも熱っぽく囁いた彼女の唇は十分にわく的で、まなしはたっぷり色気をはらんでいた。が、残念ながら、この手のステレオタイプな武器に魅力を感じるむしは中野のうちに存在しない。

 しかも彼女は、そう──の女だ。

「せっかくだけど予定があるから」

「残念ね。じゃあ、せめて連絡先を教えてくれないかしら?」

「何のために?」

「もちろん、連絡するためよ」

「もしも再会できたら、そのときに教えるよ。二度目があれば、きっと何かの運命だからね」

 我ながら上出来な回答だったと満足して、中野は店をあとにした。

 ──が。

 山手通りを北上して信号を渡り、住宅地へと潜っていく階段を下りたところで、振り切ったはずの女が何故か前方の角から現れた。

「あら、もう再会できるなんて。これって何かの運命よね?」

 中野は数秒、美しい笑みを無言で眺めた。

 深くえぐれた胸もとからのぞく豊満な谷間、折れそうに細いウエスト、ひざうえのドレスからスラリと伸びる脚線美までを順に目で追い、最後に背後を振り返った。

 バーからここに至るまでの道のりは、中野の知る限り最短ルートだった。

 もちろん、地下駐輪場経由で猛ダッシュしてきたとか、山手通りの中央分離帯のさくを乗り越えて横断禁止区域を渡ってきたとか、先回りする手段が皆無とは言わない。しかし、彼女のアンクルストラップ付きの黒いサンダルは、十センチくらいありそうな細いヒールに支えられている。最低でもソイツを脱がなければ、自力のアクションは不可能に思える。

 となれば乗り物を使うのが現実的だけど、クルマではルートが難しい。かと言って、チャリンコで全力疾走してきたわりにはコンディションの乱れがない。

「安心して、私だけよ」

 女の声に中野は顔を戻した。どうやら、仲間がいることを警戒したとでも勘違いされたようだ。

「ひとつ訊いていい?」

「何かしら?」

「どういう理由で俺を追ってきたわけ?」

「あなたがとっても素敵だからよ」

「へぇ」

「と言いたいところだけど、残念なことに目的はあなたの命。あぁでも、誤解しないで? これが仕事じゃなきゃ、私だってこんな無粋なことは言わずにベッドに誘いたいと思ってるわ」

「まぁ、その最後のとこはどうでもいいよ。で、俺の命がほしい理由は?」

 いちいち確認しなくても、アパートの事件の目撃者だからだとわかっていた。それでも一応尋ねながら、中野は女の右手にある小振りのけんじゆうをそれとなく眺めた。

 坂上の武器と比べたらオモチャみたいに頼りない。だけど本当にオモチャなら、出会ったばかりの赤の他人をわざわざ追いかけてきてソイツを向けたりするなんて、相当イカレたヤツだ。

「そうやって無知な一般人みたいな顔をしても駄目よ。何もかも知ってるんでしょ? じゃなきゃ、彼が自分のテリトリーに踏み込ませるわけがないもの」

「彼って?」

「質問攻めにして時間稼ぎでもしようっていうの?」

「別に、そんなつもりじゃないけどさ。誰の話をしてんのかわかんないし、俺を追ってきたのは人違いじゃないかな」

「いいえ、人違いじゃないわ。あなたが彼をどの名前で呼んでるのかは知らないけど、そうね。これなら私たちも話が通じるかしら? 通称──」

 女の額に黒い穴があいた。

 銃声を聞いた気がしないのは、減音器サプレツサー付きだったからなのか、それとも表通りを駆け抜けて行った改造車のバックファイアに紛れたのか。

 アスファルトに崩れ落ちた黒いドレスと、頼りなく転がったオモチャみたいな拳銃。それらをいちべつして中野は内心で舌打ちした。

 あとひと息だったのに──

 そうね、だ。

 あの取り澄ました一語が余計だった。

 名前なんて、あり得ないほど長ったらしくない限り「そうね」と同じくらい短いはずだ。つまり、あの「そうね」さえなければ、いまごろ坂上の通称というヤツを聞けていたってのに。

 全く、もったいぶるからだよな──?

 さっき中野が下りてきた階段から、影のような人物が現れた。黒無地のTシャツに細身のブラックデニム、目深にかぶった黒いキャップ。左手にミネラルウォーターのペットボトルをぶらさげたまま、右手で腰の後ろに鉄砲を仕舞いながら近づいてくる。

 同居人はそばに立つなり、あいさつもなく水のボトルを放ってした。

「血の跡を流しといてくれ」

 それだけ言って路上の女を抱え上げ、階段と左手に建つマンションとの間のデッドスペースに入っていく。中野より十五センチ低い上に細身の彼は、でもない風情でを奥に下ろして戻ると、そばにあった放置自転車の撤去警告看板をずらして無造作に入口をふさいだ。

 中野は言われたとおりにアスファルトの染みを水で流し、ペットボトルのふたを締めながら立て看板の向こうにチラリと目をった。

「彼女、あんなとこに置いといて平気?」

「すぐ片づけにくるから心配ない」

 誰が、という主語はなかった。少なくとも、朝から街の浄化にいそしむゴミ収集車の作業員じゃないのは確かだろう。

 遠回りして帰るという坂上と一緒に、階段を上って山手通りに引き返した。

 駅のほうへ向かって歩く途中、コインパーキングの脇に置かれた自販機のゴミ箱に空のペットボトルを捨てて、中野はふと漏らした。

「彼女の一番の失敗は、酒のチョイスかな」

「何の話だ?」

 バーで高い酒をおごらされたこと、店を出る際に誘われて断ったことを説明すると、坂上はチラリと横目を寄越した。

「じゃあ、奢らされたのが安酒だったら家までついてったのか?」

「俺はいかないけど、獲物を懐柔して誘い込みたいなら心証を良くしないとね。それはそうと、さっきの場所さ。いくら平日の夜で人通りも少ないからって、よく誰も通りかかんなかったよな」

 言ってから中野はハッとした。

「待った。誰もいなかったのは幸いだとして、いまどきどこにでも防犯カメラがあるだろ? あそこもどっかに……」

「その心配はない」

 素っ気ない即答が遮った。

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