第一章①

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 夏の訪れを肌で実感するようになった七月の、まぶしいほどに晴れた日曜の午後。

 不動産屋のガラスにずらりと貼られた物件情報をのぞき込んでいたら、突然背後で声がした。

「あんたが住むのはそこじゃない」

 振り返ると坂上が立っていた。

 アパートの窓から消えて以来、およそひと月ぶりの再会だった。


 あの事件のあと、中野は転居先が決まるまでの仮住まいとして地元のマンスリーマンションに転がり込んだ。

 ところが、ちょうど仕事が立て込んでしまったことや雨続きという天候のせいで腰が重く、のらりくらりと部屋探しを先延ばしにするうちに、気づけばちっとも進展しないまま梅雨が明けていた。

 いまだ契約中のアパートから必要最低限の物資だけを持ち出して、残りは丸ごと置きっぱなし。もともと大して所持品があるわけでもないから、家具家電つきのシンプルな部屋で過ごすミニマルライフはなかなか性に合っていて、しばらく月契約の住まいを渡り歩くのも選択肢のひとつかな……なんて考えるようになっていた。

 賃料はこれまでの倍になるものの、当面は困らない程度の収入や蓄えならあるし、中野の暮らしは基本的な生活費以外の出費がほとんどない。

 金融業界の末席を汚し、富裕層のカネにまつわる何でも屋──プライベートバンカーという生業なりわいでメシを食う者として、身なりにかかわるアイテムだけは質の良いものを揃えている。が、生来、なくても生きていけるものや簡単に捨てられないものは持ちたくないたちだ。

 ついでに、モノだけじゃなく生活に不必要な意匠や面積、クソの役にも立たないステイタスとやらにも興味がない。

 住まいなんて不自由なく日々を生きていければ十分で、言うまでもなくタワマンの高層階で下界を眺めて悦に入るような変態でもなければ、低層階で劣等感にまみれながら己をり減らすようなドMでもない。

 それに、カネがかかる趣味もない。カネがかからない趣味もない。

 クライアントのゴルフにもつき合わない。以前に一度、ゴリ押ししてくる顧客がいたから仕方なく同行したら、グリーンの上でひとり娘とやらに引き合わされた。以来、どの客が何と言おうと業務外のレジャーは断固ご辞退申し上げることにしている。

 だから休日のひまつぶしは、これといった用事がない限り、資格の勉強やクライアントの御用聞きくらいしかない。結果、特に情熱を燃やすつもりもない仕事が勝手にキャリアアップの一途を辿たどり、おかげでマンスリーマンションを転々としたって経済的に困窮しない身の上ではあった。

 それでも本当に何もすることがない休日の昼下がり、メシを買いに出た途中で不動産屋のガラスに並ぶ物件たちが目に入って、一応見ておくか……くらいの気持ちで眺めていたら、元同居人に出くわした──もとい、忍び寄られたというわけだ。

 背後に立った時点でガラスに映り込んだはずなのに、声をかけられるまで全く気づかなかった。相変わらずのニュートラルな存在感でたたずむ坂上は、まるで昆虫の擬態みたいに風景と同化して見えた。

 もう会うことはないのかもしれない。そもそも彼は幻だったんじゃないか。最近ではそんなふうに思うようにもなっていたというのに、ソイツはいま、あきれるくらい以前のまま端然と目の前に存在している。

「そこじゃない──ってことは、じゃあ俺が住むのはどこ?」

 坂上に倣ってあいさつ抜きでき返すと、彼は無言で方向転換して歩きはじめた。だから中野もメシを買うのは後回しにして、グレイ系のチェックシャツの背中にブラブラとついていった。

 社会人になった当初から、中野はずっと中野坂上に住んでいた。この土地を選んだ理由は特にない。どこで暮らすかを考えるために路線図を眺めて、最初に目についた駅が通勤に支障もなさそうだったから、そこに決めたというだけだ。

 その後、徐々に収入が増えて余裕が生まれても同じアパートに住み続けた。これといって不満はないし、取り壊す話も出なかったから引っ越す理由がなかった。

 が、かれこれ十五年ほど中野坂上在住となる身であっても、幹線道路を挟んだ対岸の住宅地なんてそうそう訪れる機会はない。山手通りを越え、右手に進んで、みのなかったエリアへ入っていくと、これまでの居住エリアとは趣の異なる町並みが広がっていた。

 戸建てやアパート、小規模マンションの間を縫って入り組んだ路地を歩き、やがて二人は、一角に建つ昭和レトロなコンクリート製のアパートに辿り着いた。

 正しくは何というカテゴリの建物なのか中野にはわからない。とにかく年季を感じさせる直方体の三階建てで、一階は大昔に廃業したに違いないメシ屋だった。

 さびが浮いたシャッターの上には、文字が消えかけた『いづみ食堂』の看板が掲げられたまま。正面に向かって左サイドの壁に、き出しの階段と古びた銀色の郵便受けが二つ設置されている。どうやら二階と三階がワンフロア一戸ずつの賃貸物件らしい。空のネームプレートを見る限り両方とも空室のようだから、どちらかに住めってことなんだろうか。

 しかし結論から言うと、中野が住むことになるのはどちらでもなかった。

 彼らはまず、鉄骨の外階段を上がって二階の部屋に入った。ガランとした室内は、手前がしよくそうぜんとした台所で──決して『キッチン』じゃない──奥に居室が二部屋並んでいた。右が洋室、左が和室だ。

 坂上は土足で台所を横切り、和室に進んで押入れを開けた。するとそこに収納スペースはなく、上下に伸びる狭くてきゆうこうばいの階段が現れた。

 あつに取られながらも促されて下りていくと、板張りのドアの向こうははいきよ同然の食堂店内だった。

 椅子を逆さに積んだテーブルたちや、壁際に放置された段ボール類。時間が止まったまま忘れ去られたような空間で、全ての窓をふさぐ板材が妙に新しいことに違和感をおぼえた。そういえばあかりも勝手にいた気がするから、天井の蛍光灯は人感センサーなのかもしれない。

 出てきたドアの前にはレジカウンターがあり、ソイツを回り込んでから中野は振り返った。階段の出入口は、レジの背後の戸棚を装った扉だった。

 打放しコンクリートのフロアを横切って、今度はちゆうぼうの手前にある別のドアへ。安っぽい合板の目の高さに『御手洗』と印字された古めかしいプレートが貼りついていて、中には案の定トイレの設備はなかった。ぽっかり口を空けた床は、さらに下へと続く階段になっていた。

 一階分ほど下ったところに立ちはだかる頑強そうな金属製の扉は、真新しいテンキー装備のノブで坂上が解錠すると、見た目のわりに軽やかな動作でするりとひらいた。

 中野は数秒、目の前の空間を無言で眺めた。

 プレハブの中に造られたマンションのモデルルームみたいに噓くさくて、だだっ広い部屋。玄関や廊下はない。もシューズボックスもない。足もとは一面、コンクリート調のクッションフロアで、壁や天井は素っ気ないほどの白一色。

 入口から見渡せる範囲に、ベッドとダイニングテーブルが配置されている。正面の壁にはドアと壁掛けのテレビが各一枚。左手に置かれたベッドの向こうに壁の切れ目があり、覗いてみるとカウンターを隔ててキッチンがあった。さらに奥へと続く廊下沿いに、洗面スペースやバスルームといった水回りの設備が並んでいるようだ。

「──まさかとは思うけど、俺にここで暮らせとか言うつもり? 上の部屋じゃなくて?」

「引っ越し屋の荷物は上に運ばせる」

「でも?」

「あそこはダミーだ」

「だけどここ、窓ないよね」

「窓が必要か?」

「マストじゃないけど、人間だって換気しないと」

「どうせ毎日、出勤で外に出るだろ」

「家にいるときこそ、リフレッシュしたいんだけどな」

「常時換気システムが稼働してるし、どうしても息苦しくなったら上に上がればいい」

「いや……魚じゃないんだから」


 でも結局、中野は地底の住人になった。

 まるでスパイ映画のセーフハウスみたいな話だけど、そんなカッコいいものじゃない。建物は築何十年なのかと首をひねりたくなる古臭さ。外階段の鉄骨は錆だらけだし、すすけた外壁のそこかしこをひび割れが縦横無尽に走っている。

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