序章②

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 あかりを落とした部屋で地上波放映の洋画を観るともなく眺める間、ベッドの上には我が物顔の居候が転がっていて、部屋のあるじは床で胡座あぐらいていた。

「アイツ、あんたに似てるよな」

 後頭部の向こうで声がした。

 感情のこもらない声が指す「アイツ」というのは、画面の主人公を指しているようだった。元CIAエージェントだとかいう長身の優男は、どちらかと言えば北欧辺りの陰気な刑事ドラマかロシア人スパイものの映画にでも登場しそうな、神経質でお堅いクソ真面目タイプに見えた。

「俺あんな、ロシア人スパイみたいな感じ?」

 振り向かずに訊き返すと、投げ出すような即答が後ろから返った。

「ロシア人スパイがあんなヤツだと思ってんのか?」

 質問の答えにはなっていないけど、言いたいことはわかっていた。

 中野の容姿が主張する、生粋の東洋人にはないDNAの気配。肌の色や髪、ひとみの色素の薄さ。金髪へきがんとはいかないまでも、間違いなく織り込まれた異国の遺伝子の仕業だ。

 中野が義務教育を終えないうちに他界した母親は、紛れもなく日本人だった──と思う。少なくとも極東の血統ではあった。つまり彼女が実母じゃなかったというオチでもない限り、このは父親由来のものなんだろう。だけど父について中野は何も知らない。戸籍の『父』欄にも文字はなく、ブレンドされた外観から人種を憶測するという不毛な努力もしたことがない。

 テレビ画面の中では、恋人を殺された元CIAエージェントが悲しみのあまり日常生活もままならなくなっていた。

 ありがちな設定だな──中野は欠伸あくびみ殺して、坂上が持ち帰ったボトルビールを口に運んだ。

 彼は姿を消すたび、必ずと言っていいほどポケットに札束を突っ込んでビールのパックかケースをぶらさげて戻る。梅雨シーズンただなかの今日も、湿っぽく降りしきる雨の中、傘も差さずに黒いレインジャケットのフードをかぶり、輸入ビールの六本パックを携えて帰ってきた。そのくせ、紙製のパッケージも、ポケットに突っ込んでいた札束も大してれていなかったところをみると、もしかしたらクルマだったのかもしれない。

 彼の日常の交通手段も、毎度ビールが湧いて出る理由も、中野は知らないし尋ねたこともない。ただ、自分じゃ買わないような海外銘柄のビールをがりにいただける点は、単純に歓迎すべき特典だと思っている。

「何をあんなに引きる必要があるんだ?」

 再び背後で声がして、中野は今度は振り返った。

 帰宅してすぐにシャワーを浴びた坂上は、いまは白いTシャツの上に赤とグレイが交ざり合うチェックシャツを羽織り、下半身はライトブルーのデニムという、健全な夏仕様のファッションでベッドを占領していた。

 彼は熱のない面構えをひじまくらの手のひらに載せ、ほのかにいぶかるような声音でこう続けた。

「どうせ、そのうち別の女を見つけて立ち直るよな。部品と同じで交換すれば修繕できることがわかってんのに、いつまでもドン底気分に浸ってるなんて馬鹿げてると思わねぇか」

 恋人の死を嘆くわりに不自然なほど抑えた主人公のどうこくと同じくらい、坂上の疑問には抑揚がない。

「女に限らず、生物学的につながりのない他人なんて代替可能なパーツでしかない。しかも人間ってのは心臓かのうが働くのをやめちまったら終わりだ。与えられた時間は限られてるのに、消耗パーツがひとつ駄目になったぐらいで稼働できないブランクが発生するなんて、時間の浪費もいいとこだろ」

 彼がこんなに長いセリフをしやべるのは珍しいことだった。

 何かあったんだろうか。まさか、色恋のトラブルでもあったとか?

 坂上と恋愛なんて、ビールとケーキの組み合わせみたいに奇妙な印象だ。が、もちろんソイツは勝手なイメージであって、彼の人生が恋と無縁かどうか中野は知る由もないし、ビールを飲みながらケーキを食いたい人間だって世の中には意外といるだろう。

 だから、失恋でもした? という無神経な質問はもとより、頭でわかってても気持ちがともなうとは限らないのが人間だよ、などという雑な答えでお茶を濁すことはせず、中野は神妙な声音を返した。

「脳の機能とか分泌物に支配されてるんだから仕方ないんじゃないかな。そういうメカニズムなんだよ。人間の脳味噌ってのは、自分を守るためにつらいことはちゃんと忘れるよう、都合良くできてる。それでも性能には個体差があるだろうし、忘れるまでの所要時間とか必要条件ってのは千差万別だと思うから、まぁ要するに……」

 画面の男はいま、生けるしかばねのような有り様で路上生活を送っていた。

「彼の場合は、いつたんあぁなるのが必要なプロセスなんだよ。メンタルの燃費が悪いんだろうね」

「燃費か」

「あと、ついでに言っとくけど、俺はあんたを代替可能なパーツだなんて思ってないよ?」

 何気なく口にしたセリフに噓はなかった。

 パーツだとは思っていない。パーツ以外の何だという思いもない。

 転がり込んできて半年という月日にしては、一緒に過ごしてきた時間が少なすぎる同居人。たまに大金とビールを持ち帰る習慣以外、いまだに素性の一切がわからない。それでも不思議と空気のようにみはじめた存在が二度と帰らないとなったとき、自分はどんなふうに感じるんだろう?

 考えながら何気なくベッドの上を見て目がぶつかった。

 あらざらしたまま無造作に落ちかかる前髪の間から、何か言いたげな視線がこちらを見つめていた。テレビではなく、真っ直ぐに中野のほうを。

「────」

 息を潜めるような沈黙は、ほんの数秒だった。

 するりとれていった目を追うような気分でボトルをローテーブルに置き、立ち上がってベッドの端にしりを載せても、坂上はわずかに体勢を変えただけでけるでもなかった。中野がボトルビールを取り上げても、肩に触れてベッドに押しつけても、何故、とも、何を、とも言わなかった。

 無言で見上げてくる熱のこもらない面構え。特徴がない上に表情も乏しくて印象に残らない顔立ちは、実はそれなりに整っているほうだと思う。むしろ、整然とした形や配置が個性を殺しているとも言える。そして不思議なくらい性というものを感じさせない外観は、同じくらい『生』とも無縁に見えた。

 なのに時折、ひどく人間くさい何かが宿る。

 例えば、何を言えばいいのかわからないって顔で黙り込むときの戸惑いの色。ついさっきしていた視線のような、何か言いたげなもどかしさ。

 前触れもなく現れては速やかにフェイドアウトするそれらが、他人への興味を抱きづらい中野の神経を刺激し、摩耗した箇所から滑り込み、居座って、知らないうちに浸透しつつある感覚を否定する気はない。

 が──だからって、二種類の性染色体を持つ相手と性的な用途でベッドをともにするとは考えもしなかったし、き出しにさせた脚の間に押し入ってもなお、初めて体感するような衝動の正体はわからなかった。

 ただ、これまで二人の間にあった一定の距離がなくなって、ゼロになるどころかマイナスになった。その事実だけが目の前にあった。

 坂上が息を殺して枕に後頭部をこすりつける。汗ばんでみくちゃになったチェックシャツをぎ取って床に放るとき、さっきあれだけヘコんでいた映画の主人公も、新たな『運命の女』と濃厚な濡れ場を演じていた。対するこちらは、画面が映し出す熱気には遠く及ばない。

 それでも、同居人は普段のニュートラルな風情と比べたらはるかに人間らしく興奮していて、つべきものもちゃんと勃っている。どうやら機能は正常らしい。

 濡れた先端から手のひらを滑らせると、拒むように手首を握られた。食い縛っていた歯列から漏れてきた声の悩ましさに、中野の鳩尾みぞおちの奥がゾクゾクとうずいた。

 めくれたTシャツのすそからのぞく、適度に割れた腹筋。呼吸に合わせて形を変える下腹の陰影が不意に乱れ、坂上が枕の端を握り締めてえかねるようにこう口走った。

「ちょ──抜け」

「いま? 抜いてどうすんの?」

「いいから、ヤバいからマジで……!」

 何がどうヤバいのか尋ねる間もなかった。

 表情を一変させて枕の下に右手を突っ込んだ彼は、そこから抜き取った黒いけんじゆうを玄関のほうに向けるなりトリガーを絞った。続けて二度。

 これには、さすがの中野も行為を中断した。理由のひとつは目の前の出来事にめんらい、ひとつは下手に動いたら危ないと本能が告げたからで、最後のひとつは音圧に鼓膜をたたかれたせいだった。

 銃口が示すルートを目で辿たどると、玄関と居室を仕切るドアの辺りに男が倒れていた。

 スーツ姿、ここから見える限りでは二十代から五十代の間。うつぶせだし、光源がテレビしかないから確かなことは言えないけど、中野が知る人物じゃなさそうだった。

 クソ、と吐き捨てた坂上が、らしくもなく強い語調をぶつけてきた。

「だからヤバいって言っただろ!?」

「いや、そういうヤバさとは思わないし……ていうか、いつの間にそんなものを枕の下に仕込んでたんだよ?」

「いいから早く抜けって、そんで──」

 鳩尾を押し返してくる手のひらに構わず、中野は彼の尻をつかんで強引に下半身をじ込んだ。途切れた声がかすれて短い尾を引き、短い息継ぎに続いて非難が飛んでくる。

「だからいま、こんな場合じゃ……!」

「だってあとちょっとだったのに、まぁつまり、あとちょっとだから」

 なだめるために口にした言葉は、我ながら意味不明だった。

 坂上が握っている黒い武器が目に入らないわけじゃない。部屋の入口に倒れている男の存在も承知してはいる。が、そんなことより、行為を完遂しようという謎の強迫観念が頭のしんを突き上げていた。

 分泌物だ。直面した現実をシャットアウトしてコイツとやれ、と脳味噌が下す指令。

 アドレナリンに命じられるままゴールを目指し、飛び込み、組み敷いた腹めがけてかんした直後、次のアクシデントが到来した。

 息つく間もなく両手で鉄砲をグリップした坂上が、再び玄関に向かって二発ぶっ放し、間髪をれず跳ね起きた。

 ヘッドボードのティッシュボックスから数枚引き抜き、乱暴に腹をぬぐいながらベッドを降りた彼は、床に落ちていたボクサーブリーフを拾って穿きつつ侵入者に近寄る、という一連の動作を流れるようにやってのけた。その間も、黒い合金の武器は身体の一部のように右手から離れることはなかった。

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