中野くんと坂上くん(上)

エムロク/角川文庫 キャラクター文芸

序章①

    1


 なかみなとの部屋には、半年くらい前から居候がみついている。

 名をさかがみという。

 下の名前は知らない。教えてくれないし、知らなくても不自由はしていない。

 そもそも坂上という姓からして、出会った場所がなかさかうえ駅エリアで、中野のみようが駅名の上半分だったから思いつきで下半分を拝借した可能性が高かった。というより、十中八九そうなんだろう。

 ただしサカウエじゃなく、彼は苗字っぽくサカガミと名乗った。


 坂上とはバーで知り合った。

 仕事帰りに時々顔を出すカジュアルなその店は、いつも常連客であふれていて、騒々しすぎない程度のざわめきに満ちていて、いちげん客でもアウェイ感に見舞われることなく溶け込める絶妙な居心地の空間だった。

 もういくつ寝ると──という夜、帰宅途中にフラリと立ち寄ると、時季のせいもあってかド平日なのに店内はほぼ満席。幸い一席だけ空いていたカウンターのスツールに収まってビールを頼み、二杯目にウイスキーのロックをオーダーした頃、右隣の客が帰っていった。が、その空席も、ほぼ入れ違いで早々に埋まることとなる。

 それこそ一見客らしい新たな隣席の男は口数も少なく、そのくせ薄暗くてザワつく空間に妙にんで見えた。

 オリーヴグリーンのフライトジャケットを脱いだ下には、黒い無地のパーカー。下半身の記憶はあいまいだけど、シンプルなボトムスや靴も大差ない暗色だったと思う。無造作に下りた黒髪は、平均的な社会人の基準からすると、やや伸ばしっぱなしという印象。

 服装や髪型以上に特徴がないのが顔面で、別れた途端に忘れてしまいそうな無個性のぞうさくは神経に触れるどんな匂いもなく、どこにいても違和感を与えない人物のように思えた。

 年齢は、中野より七つ下の三十だと聞いた。これも真偽のほどはわからないし、そこから現在までの間に誕生日を迎えたのかどうかも中野は知らない。少なくとも個人的な感覚では、本当はもっと若いと踏んでいる。

 とにかくそのとき坂上は言った。

「このへんは初めてで知り合いもいなくて、泊まるところがない」

 それを聞いた中野は、至極当たり前の反応を投げ返した。

「こんなシーズンだけど一応平日だし、しん宿じゆくのほうに移動すれば空いてるホテル絶対どっか見つかると思うよ?」

 なのに、だ。

 翌朝目覚めたら、アパートの狭い台所で何故か坂上がボトルビールをあおっていた。

 当たり前のような顔でそこに立つ男を中野は数秒無言で眺め、脳内で昨夜の出来事をはんすうし、ゆっくりと首を傾けてこう尋ねた。

「泊まったっけ……?」

 答えは返らなかった。

 中野がトーストと目玉焼きとベーコンのモーニングプレートを作ってやると、彼は礼も言わずにもりもり食った。ただしコーヒーは、匂いが染みつくとかいうよくわからない理由で固辞された。

 そして中野がシャワーを浴びてスーツを着て出勤し、一日の仕事を終えて帰宅したときには、もう姿を消していた。玄関のドアポケットにかぎが放り込まれていたほかは書き置きの一枚もなく、いつもと同じ夜が大人しく戻ってきただけだった。

 中野は買って帰った二人分の弁当のうち、ひとつを冷蔵庫に仕舞った。

 ──が。

 翌晩、残りの弁当があるからと手ぶらで帰ったら、なんと冷蔵庫からソイツが消えていた。

 中野は扉を開けたまま、しばしその場にたたずんで思案した。

 ただまぁ、考えたってないものはない。弁当の存在は忘れることにして、近所のコンビニにメシを買いに出た。

 そのときカツ丼をチョイスしたことを、中野はいまでも鮮明に思い出せる。別に好きだからってわけじゃなく、最初に目に入ったから手に取ってレジに直行しただけだ。

 カツ丼の入ったポリ袋をぶらさげてアパートに戻ったとき、施錠したはずの玄関が開いていた。

 締め忘れたっけ……? と首をひねりつつ部屋に入ると、坂上がベッド脇の床に陣取って、ボトルビールを呷りながらテレビを眺めていた。

 それから彼が棲みついた。

 正確には、フラリと帰ってくるようになった。

 これといって私物を持ち込むでもないし、毎日いるわけでもない。十日くらい姿が見えないかと思えば、ある日突然戻ってくる。どこで何をしているのかは知らないし、いたところで教えてくれないだろう。

 教えてくれないと言えば、カツ丼の夜に鍵をどうしたのかもわからずじまいだ。

 あの前日、スペアキーは玄関のドアポケットに入っていた。つまり単純に考えれば、そこに放り込む前に無断で新しいスペアを作ったか、こじ開けて侵入したかの二択しかない。だけど本人に訊いてみても、曖昧に首を捻るだけで答えはなかった。

 ただ、坂上の口数の少なさは秘密主義という以外に、どうやら自己表現が苦手らしい性質による部分も大きい。

 表情の変化が乏しいのも、多分わざとじゃない。メシを作ってやったときなんかによくよく観察してみれば、どう礼を伝えたらいいのかがわからない──とでも言いたげな色合いが目の中ににじんで見える。

 だから質問に答えてくれなくても、礼を言われなくても、結局はどうでも良かった。言いたくなければ言わなきゃいいし、素性が知れなかろうと中野に危害を加えるわけじゃないなら何者でも構わない。

 それに、カネもかからない。

 かからないどころか、彼は姿を消して戻るたびに大金を渡してす。どうやら家賃のつもりらしいけど、それが一回につき一年分くらいの金額だったりする。

 そのカネを入れるために、中野は簡易な手提げ金庫を買った。生活費を払ってもらう必要はないから、戻らないつもりで出かけるときはソイツを持っていくよう本人に言ってある。

 一方で、坂上も中野のことをせんさくしない。

 仕事やプライベートについての質問は一切なく、中野が彼の事情を尋ねない点にも言及しない。

 何も訊かないのか? なんて間抜けな質問もしない。何も訊かれていない事実を認識できているのなら、いちいち口に出して確かめる必要はない。

 もちろん中野だって、坂上のライフスタイルや持ち帰るカネを見ていれば、何かヤバいことにかかわっていることは察しがついた。それでも、彼がどこの馬の骨だろうが何を生業なりわいにしていようが、あいさつや礼のひとつもなかろうが別にどうでも良かったし、一定の距離を間に挟んだ関係に何かを感じることもなかった。

 今夜までは。


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