3)濁空を壊して

3-1

 それは、薄暗い曇天の下での蛮行だった。



 二学期も後半に差し掛かった頃。一週間ぶりに相模が登校してきて、一年三組の教室は朝から普段より少し騒ついていた。

「お、相模。怪我はもういいのか?」

 教室の窓際、一番奥の席。その隣の、春日の席におしゃべりをしに来ていた日野が声を掛ける。

「うん、まぁ。完治はまだだけどね」

 そう言って相模が、紺色ジャケットの袖から覗く、包帯の巻きついた左手を見せた。



 夏休みが明けた二学期。

 相模は集団でおしかけた陸上部に、どうしてもと請われ、ひとまず仮入部という形で陸上部へ入部することになった。

 最初のうちは体力のなさから続かないかと思われたが、やはり生来負けず嫌いなのだろう、文句を言いつつも練習にはついていき、正式な入部もありかと思われていた矢先、ある事件が起きた。

「お願い、私と付き合うって言って!」

 陸上部に所属する三年生の女子生徒が、相模を陸上部の部室に一時的だが監禁してしまったのだ。

 彼女は、相模が自分と付き合うと言うまでここから出さないと言い、部室の内側に鍵を掛けて立て篭もった。

 ちょうど部活動が終わった後で、残っている部員は誰もおらず、他の部員もほぼいないような時間帯。

 相模にとっては絶望的状況であった。なんとか隙をつき、手近にあったスパイクで一つだけあった窓を叩き割り脱出を試みるも、必死になった先輩に阻止されて失敗に終わる。

 ただ幸いなことに、窓を叩き割る行為が異常な状況を周囲へ知らしめることとなり、部活が終わっても現れない相模を探しにきた春日と日野、そして窓の割れる音を聞いて駆けつけた体育教師に、部室のドアを蹴破らせる結果となった。

 こうして監禁騒動はあっけなく終わりを迎える。

 もちろん相模はそのまま陸上部への正式な入部を辞退し、窓を叩き割った際に負傷した怪我の治療と精神面の回復のため、一週間ほど学校を休む結果となった。



「春日、休んでた間のノート見せて」

「ああ」

 一週間ぶりに登校してきたわりに、これまでと変わらない調子で相模に言われ、春日も普段通りに隣の席へノートを手渡す。

 今までは、相模が登校し教室に入ってくるだけで、大騒ぎする女子生徒たちに囲まれたものだが、監禁騒ぎに妙な尾ひれがついて広がってしまったためか、他のクラスメイトたちはまるで犯罪者でも見るかのように遠巻きに見ているのが殆どだった。

「……ったく、ゲンキンな奴らだな」

「おれは静かで過ごしやすいよ」

 呆れる日野に、相模は楽しげに笑って見せる。

 相模を監禁したその先輩は、陸上部で将来有望な選手だったらしい。有名高校への受験も控えていたため、学校側は相模の両親に大事にしないでほしいと懇願し、結局それが受け入れられた。

 聞くところによれば、相模の母親は「うちの子が悪いんです」と、逆に謝っていたらしく、この監禁騒動は、相模が先輩を部室に連れ込んで閉じ込めたのが真相らしい、という根も葉もない噂が囁かれている。

 日野としては納得のいかないことなのだが、本人は変わらず涼しい顔をしていて、それが歯痒かった。

「本当のことを知ってる人がちゃんといるし、根拠のない噂はすぐに消えるよ」

 相模のいう通り、数週間もすれば当たり前のように女子生徒たちが相模の席を取り囲むようになっており、その光景を見た日野は、

「……本当、ゲンキンな奴らだな」

 そう言って、やはり納得のいかない顔で呆れていた。



 ◇ ◇



「祐介、あなた最近、相模くんて子と仲良いそうね?」

 夕飯時、父が仕事で遅くなるというので、春日は母と二人きりで食卓を囲んでいた。

 味噌汁の椀に口をつけながら、春日は母の方をチラリと見る。眉間にシワを寄せている状態から察するに、悪いほうの印象を持っている顔だ。

「……まぁ、よく話はするけど」

「あんまり、良い話を聞かないんだけど?」

 ご飯茶碗と箸をもったまま、母はため息をつくようにそう言った。

 当たり障りなく答えたが、やはりそう言った『助言』という名の小言の類らしい。

 母は駅から程近い場所に美容室を構えており、同級生の母親や地元に住む人々が常連客だ。相模の話というのはその『お客さん』から聞いたものだろう。

「アイツ、よく倒れるんだ。俺、保健委員だし、介抱してるだけだよ」

「でも、女の先輩を監禁した、なんて話を聞いたわよ?」

「逆だよ、それ」

 やはりか、と呆れながらも顔には出さず、春日は小鉢の煮物を口に放り込んだ。

 美容師の母は、お客さんとひたすらおしゃべりするのも仕事である。地元に密着した美容室での話題は、その地域に住む人々の噂話が中心だ。

 四月の半ばに引っ越してきた相模とその家族は、良くも悪くも目立つ存在なので、母が彼を知らないはずはないと思っていたが、やはり予想通り、悪い噂で塗り固めた印象を持っているようだった。

「女の子が監禁なんてするわけないでしょー?」

「性別は関係ないよ。そういうことを、する人はする。片方の言い分だけ信じちゃダメだよ、母さん」

 間違いを鵜呑みされているのは、やはり気分がよくないので訂正する。しかし、この母がそれを簡単に受け入れることはないだろう。

 まだ子どもである自分の言葉は、大人に聞き入れてもらえるだけの、チカラを持っていない。

「でもそれ、常連さんが言ってたのよ? あ、そうそう、それからね──」

 母は、誰から聞いたのか、相模にまつわる嫌な噂を淡々と並べ始めた。

 女の先生を誘惑して辞めさせたらしいから始まり、変な時期に転校してきたのは前の学校で担任の先生を誑かしたからだの、近所で飼われている犬を誘拐しようとしていただの、きっと因果関係は真逆だろうと思われる話ばかり。

 この時ばかりは、感情が表に出にくい顔でよかったと、春日は思う。

「祐介はお姉ちゃんよりも立派な大人にならなきゃいけないのよ。だからこういう変な噂のある子と仲良くするのは……」

 母のいつもの、お決まりのような言葉が始まった。

 春日はそれを聞き流しながら、手元の茶碗に残っていたご飯をかきこみ、手を合わせる。

「ごちそうさま。……部屋に戻る」

「あ、ちょっと!」

 まだ話し足りないらしい母のほうへは見向きもせず、使った食器を台所の流しに片付けると、足早に二階の自室へと向かった。



 ◇ ◇



 春日は毎週火木土、三駅先の駅前にある有名進学塾に通っている。

 学校の授業のように集団で授業を受けるほか、定期的に模試や実力テストが行われ、テストの結果が出た後は成績や進路について相談できる個人面談が設けられていた。

 その日、面談の担当として現れたのは、羽柴はしば考一こういち先生。授業が分かりやすくて面白いうえ、背が高くてルックスも良いと、特に女子生徒から人気のある講師だ。また、一部では女好きとしても有名で、複数人の女性と付き合っているとかいないとか。

 ──相模とはまた違う方向でモテるタイプの顔、だな。

 一対一の面談で、初めて羽柴を真正面からまともに見た春日はそう思っていた。

「春日祐介くん、だね」

「はい」

 羽柴は手元の書類を見ながら、うんうんと頷く。今回のテストの結果や通っている中学校のことなど、そういった個人情報について確認しているのだろう。

 今回の実力テストでは、全て九〇点台後半だったので、塾内での成績順位はひとまず十位以内に入っている。

「実力テストの結果、すごかったね」

「ありがとうございます」

「でも、なんでわざと間違えたりなんかしたの?」

 羽柴は指を組んだ手を机の上に乗せ、にこやかに笑いながら、そう言った。

 ──……バレたか。

 春日は思わず視線を逸らす。

 今回のテストでは満点を取らないよう、かといって悪すぎる点数にならないよう、計算して答えを書き替えていたのだが、この羽柴という講師はそんな小細工に気付いたようだ。

「君の答案用紙見てたら、合ってる答えをわざと書き直してるなってところ、見つけちゃってさ」

 特に責めるわけでもなく、子どもの可愛い悪戯をこっそり見つけたような、そんな楽しげな表情で言われる。

「……すみません」

「あー、謝んなくていいよ。責める気はないし。ただ、理由が知りたいな、と思ってさ」

「満点をとって目立ちたくない、ので」

 羽柴に言われて、春日は正直に答えた。

 テストで満点を取るのは、自分にとって難しいことではない。一度見聞きしたことは、大抵覚えていられるからだ。

 けれど、いい成績を収めたところで、所詮、母の自慢話の種になるだけでしかなく、それがなんだか、嫌だった。

「……なるほどねぇ。そうなると春日くん、うちにくる必要あんまりなさそうだけど。わざわざ杜山もりやまから電車できてるんだよね?」

「まぁ、はい」

「訳あり……な感じの顔だね」

 羽柴は住所などが書かれた書類に向けていた視線を、ふっと春日に向ける。

「僕ねぇ、そういう表情がわかりにくいって言われてる子の、感情がわかっちゃうタイプなんだよね」

 そう言って、羽柴は両手を自分の両頬に添えると、机の上で頬肘をついて見せた。

 まるで、聞いてあげるから話してごらん、とでも言いたげな笑顔。

 少しだけ迷ったが、自分の得点操作に気付くような先生だ。

 ──まぁ、いいか。

 春日は少しだけ目を伏せて、口を開く。

「……母が、ある時からエリート志向というか、良い大学や良い就職先を望むようになって」

 もし自分が、平凡な大学に通い、平凡な会社に就職してしまったら、母は姉のせいで自分がそうなったと言うようになるだろう。それならまだ『自慢の息子』になってやって、母の意識を姉から遠ざけたほうがいい。

 塾通いも附属高校の受験も、そのためのパフォーマンスの一つだ。

「なるほど。それで隣の県にある白鷹大付属を目指してるわけか」

「はい、分かりやすく有名なところなので。それに……」

 母親の口癖が頭の中に響いてくる。

 気にしていないつもりでも、昼夜問わず繰り返し吐き出される小さな悪意は、少しずつ自分の内側を削っていて、この先長く耐えられる自信がない。

「隣の県なら、中学卒業と同時に、家を出られますし」

「……そっかぁ。そういうことなら、僕は応援するよ」

 少しだけ寂しそうな顔をした春日に、羽柴は優しく笑ってそう答えた。

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