第2話 染谷正義(大学生時代)


「卒業おめでとう。これからあなた達は、大人の世界に足を踏み入れていきます」


 それは、高校の卒業式で先生が言った言葉だった。


「自分で考え、自分で行動し、それぞれの道を歩んでいってください」


 分かってはいたが、僕にとってはとても理不尽な言葉に聞こえた。

 学校という僕たちの温室は、毎年春の突風に壊される。けれど先生かれらはもう、温室のカーテンを直してはくれないという。これからは、自分たちの力だけで社会に足を踏み入れろと。それだけ言い残して、大人たちは子どもを置き去りにする。


 高校を卒業して、先生かれらは指標ではなくなった。これからは、僕らが指標にならなくてはいけない。

 大人になることを強制された、18歳の春。

 僕は今までの自分を変えずに、そのまま進むことを決めた。



 2



 四月。

 大学に入学して、二回目の春が来た。

 桜がちらほらと、新しい生徒たちを歓迎するように中庭に舞っている。そこかしこに白い仮設テントが設けられ、サークルの新歓活動が行われている。

 どこにも属していない僕は、その人の波に抗うように歩いていた。


「あのーわたし、他のサークルのところも見学したいっていうか……」


 雑踏のなかから、その声は僕の耳には鮮明に聞こえた。

 見やると、一部の派手な生徒にからまれるように囲まれている女性がいる。

 中肉中背で、女性にしては背が高い方だろう。縁の大きい丸眼鏡をかけていた。

 三つ編みの髪は肩まで伸びていて、その上に赤茶色のハンチングをかぶっている。同系色のカーディガンに、赤と紺色のボーダー柄のロングスカート。

 まだ涼しさが残るとはいえ、僕には全体的に厚手に見える。


 「えーいいじゃん。ここに決めちゃいなって」

 「でもわたし、テニスとかやったことないし……」

 「きみスタイルいいし、ちょっと練習すれば大丈夫だって。それに、どうせ大々的な活動なんてオマケっていうかさ。うちはみんなが楽しめるように活動するのがモットー、的な? だからスポーツやりたくなかったらやんなくていいしさ。たまにある飲み会とか集会にちょーっと顔出してくれたらいいから。ねね、どうよ?」

 「えーっと、そのぅ……」


 ふむ。

 僕が彼らに対して一歩を踏み出すと、女性も僕に気づいた。

 目が合うと、彼女は目の色を変えた。

 濁っていた瞳にわずかな希望が灯る。


 「あっ、あの」


 彼女は駆けだすと、僕のとなりまで距離を詰めた。


 「わたし、この人と色々回る約束しているのでっ……」


 ぎゅっと、親指と人差し指で服のすそを掴まれる。

 彼女を見やると、とても申し訳なさそうに顔をしかめていた。

 しかし、目は口ほどにものを言うようで。

 助けて。

 彼女の瞳は、痛烈にそう物語っていた。


 「えー……。そうなの? お兄さん」


 かったるそうな彼らの視線が絡みつく。

 僕は面と向かって、彼らに言い放った。


 「違いますけど」


 周りの空気が一気に冷めていくような気配がした。

 僕の袖をつかんでいる女性は唖然としている。

 「……ぷっ。あっはは」

 その空気をとっぱらったのは、さっきまで彼女に絡んでいた、長い金髪が肩まで伸びた男性だった。

 「えーっと、きみさあ。そこは冗談でも彼女の肩を持ってあげるところなんじゃないの? なんていうか、俺らべつに悪いことしてるとは思ってないけどさ。その子はたぶん、助けを求めてきみに話しかけたんだぜ?」

 

 「知ったことじゃないな」


 軽く彼女の手を払って、改めて彼らに向き直る。


 「僕はただ、きみらの行動が目に余っただけだ。相手が嫌がっていることをしてはいけない、当然のことだろう。小学生のときに習わなかった?」

 「――はっ。小学生だあ?」

 反応したのは、彼を取り巻いている連中だ。くすくすと小ばかにするようにこちらを見ている。

 「お前いくつだよ。脳みそ小5くらいで止まってんじゃねえのか」

 「きみらこそ、小学生で習うことを……いや違うか。小学生の時点で気づくべきことに気づけないまま成人したのか。園児からやり直してきたらどうだい?」

 「おいおい、どうする浪川なみかわ。こいつなんかおもしれえぞ。やっちまうか?」

 「よせよ、ぶっそうな言葉を使うな。あの子が怖がる」

 浪川と呼ばれた金髪の男性は、どうやら彼らのリーダー格らしい。

 なんというか、掴みどころのない人物だ。重心を左に預けて立っているから、右足がほんの少しだけ浮いている。無地の白いシャツにダメージのついた真っ黒なジーンズ。背は高いが威圧感はなく、ただ飄々とした笑みを浮かべて、僕らを見ている。


 「正義感が強いんだね。きみは」


 「よく言われる。当然のことをしているだけなんだけど」

 

 「……うん、いいね。なんか、きみはあれだね。俺に似てるかもしれない」

 「どこが」

 「自分の芯を曲げないところ、かな。きみ、今までずーっとそうやって生きてきたんだろ? 他人から見たらすごい生きづらそうだけど、自分では生きづらいと感じていないんじゃないかな。むしろ、他人と違う価値観を持つ自分にかすかな高揚すら感じている」

 「何も知らないくせに。僕を語るなよ」

 「おっと、失礼。思ったことをすぐ口に出しちゃうのが俺の悪いくせでね。だから、かわいい子を見つけるとすぐに口説いちゃうんだ。さっきみたいに、ね」

 浪川は悪びれる様子もなく口説いていたことをあっさりと認め、女性に視線を向けた。彼女はとっさに僕の背に隠れて、子犬のように様子を伺っている。

 「無理強いをしてまで勧誘する気はもともとなかったし、今日のところは引き下がるよ。きみの正義感に免じて、ね」

 「それは助かるよ」

 「そうだ、きみ名前は?」

 「教える義理があると?」

 「そうだね。じゃあ、勝手に正義せいぎくんと呼ぼうか」

 もしかすると、彼はすでに名前を知っているんじゃないのか。

 そんなわけはないと思いながら、去っていく背中を見ていた。


 「またね、正義くん。つぎ合うときは、ゆっくりと話そう」


 二度とごめんだ。

 そう言うと、彼はおどけたように肩をゆらした。

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