目を覚ましたら30年前のちょうどあの日だった
仲瀬 充
目を覚ましたら30年前のちょうどあの日だった
★大橋孝雄の場合
さわやかな目覚めではなかった。
二日酔いのせいだろうと思ったが何かしら違和感がある。
布団の上で目だけを動かして部屋を見回しているうちに気味が悪くなった。
第一、私は洋間のベッドで寝るのに目覚めたのは畳敷きの部屋の布団の上だった。
昨夜は遅くまで外で飲んでいたので酔いつぶれて誰かの家に泊めてもらったのかもしれないと思って起き上がったが、誰もいない。
室内を見て回るうちに、昔の記憶がよみがえった。
窓から見える景色が決定的だった。
私がいるのは、独身時代に住んでいたアパートの部屋だ。
現在住んでいるマンションの近くではあるが、今は他人が住んでいるはずのアパートにどうやって入り込んだのだろうか。
待てよ、と思い直した。
このアパートは老朽化のため、とっくに取り壊されたはずだ。
キッチンの壁のカレンダーが目に入った。
なんと1987年(昭和62年)3月のカレンダーだった。
そんなばかな、今年は2017年で平成29年のはずだ!
まさかと思いながら、私は恐る恐る洗面所へ行った。
鏡の中には……30歳そこそこの私がいた。
混乱しすぎて、頭が働かない。
どうやら30年前にタイムスリップしたらしい。
事態が呑み込めずもう一度カレンダーの前に立った。
過ぎた日に斜線が入っているのは変わらない私の習慣だ。
いくら見直してもやはり30年前のカレンダーで、今日は春分の日だった。
その日付を確認した私はまた衝撃を受けた。
今日は、私と妻との運命の出会いの日だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私は大学卒業後、市内の商事会社の総務部で働いていた。
営業部や販促部から上がってくるデータの整理や集計、備品管理などが主な業務だ。
就職後4年経った年、制服を着た若い女性が私のいる総務部のドアを開けた。
うちの会社の制服ではない。
誰かを探しているらしくドアを半開きにしたままキョロキョロ見回していたが、私はその女性から目が離せなくなった。
女性には珍しく170センチ近い長身で可愛い顔立ちをしていたこともあるが理由もなく目が吸い付けられた。
中に入ることなく彼女がドアを閉めた瞬間私は我に返り、不思議な感覚もあるものだと思った。
それから5年後、ばったり街なかで彼女に出会った。
その日は春分の日で、私は実家の両親を訪ねた後、街をぶらついていたのだった。
彼女の顔を見た瞬間、5年前の奇妙な感覚がよみがえり、私はこの
これが運命の出会いというものなのだろうと思った。
私から声をかけて交際を始め、その年の11月にその女性、奈美と結婚した。
私には自分なりの理想的な家庭のイメージがあった。
小さい頃、学校から帰るといつも家に母がいた。
その何とも言えない安心感から、私は妻に専業主婦でいてほしかった。
幸い、奈美もそれを受け入れてくれた。
家庭の父親像についても平凡なイメージを持っていた。
定時に仕事を終えて帰宅し、ゆっくり晩酌を楽しみながらナイターの巨人戦を見る。
側には妻と子供がいて共に食卓を囲んでいる。
そんなありふれた家庭団らんが私の望みの全てだった。
結婚して1年後男の子が生まれたが、家庭団らんは実現しなかった。
私が次第に仕事人間になっていったからだ。
毎日のように残業し仕事が終われば先輩や同僚と飲み歩いた。
家は寝るためだけに帰る場所となり夫婦の会話もなくなっていった。
申し訳ないと思いつつも仕事にかまけて妻や子供のことは顧みなかった。
自然、子育ては妻まかせになる。
息子は高校時代から始めたバンド活動を続けておりプロのミュージシャンになりたいと言う。
30歳近くになるのにニート状態のままだ。
ひいき目に見ても大した才能とは思えず、定職に就くように何度も意見するのだが息子は聞き入れようとしない。
昨年、私は60歳で定年退職しそろそろ1年になる。
希望すれば65歳まで会社に残れたのだが私はそうしなかった。
もう仕事はたくさんだったし妻とゆっくり温泉巡りでもしようと思ったのだ。
ところが、これも当てが外れた。
妻は近所づきあいや公民館での趣味のサークル活動を通じて気心の知れた友人関係を作り上げていた。
これまでの
熟年離婚を切り出されないだけ有難いのかもしれなかったが、家に一人取り残される格好の私は面白くなく、しょっちゅう飲みに出るようになった。
昨夜も行きつけのスナックで遅くまで飲み、愚痴をこぼした。
「ママ、聞いてくれよ。女房を温泉旅行に誘ったら何と言ったと思う?」
「喜ばれたんじゃないですか」
「行くなら友だちと行きますってさ」
「うまくいかないものですねえ」
「息子もミュージシャンになるとか言ってふらふらしてるし、女房も友だちとふらふら出歩くし。ママ、焼酎もう一杯」
「大丈夫ですか? 大橋さんもだいぶふらふらしてますよ。もう帰ったほうがいいですよ」
「結婚して30年ほったらかしにしてきたから罪滅ぼしにこれから女房孝行しようと思ってるのになあ。何だったんだろね、おれの人生は」
「30年間の罪滅ぼしはたやすくはありせんよ。結婚30年目は真珠婚ですからパールのネックレスでも奥さんに贈ったらどうですか? 女は宝石や花が大好きですから」
「そんなもんかね」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私は回想から覚めて今の現実に立ち戻った。
昨夜はあの後、歩いて自宅マンションに帰ったはずだ。
帰る道の途中に、何人か飛び込み自殺をしたという噂のある踏切がある。
踏切警報器の赤いランプが点滅してカンカンカンと警報音が鳴っていたのを覚えている。
その踏切を渡る時にでもタイムスリップしたのだろうか。
ぎょっとして手で体のあちこちをはたいてみた。
大丈夫だ、電車に飛び込んで幽霊になったのではない。
それはともかく、もう昼も近い。
私は急いでアパートを出て路線バスに乗った。
今日街で奈美と出会うのは確か昼少し過ぎのはずだ。
バスを降りて私は二つのアーケードが交差する四つ角で待った。
私服姿の奈美が歩いて来る。
その若々しい姿を見て私は新鮮な感動を覚えた。
もっとも今の私自身も31歳なのだが。
「やあ、久しぶりですね」
奈美は私を見て首をかしげた。
「岩田商事の大橋孝雄です。覚えてないでしょうね」
私は5年前の出会いが非常に印象深かったことを話した。
すると奈美はそれを私の一目惚れと受け取ったらしく、顔を赤らめた。
私たちは近くの地下の喫茶店に入った。
今回は偶然ではなく私が待ち受けていたという点を除けば30年前と同じ展開だ。
「あの、な……」
この時点では名前を知らないはずなのに「奈美さん」と言おうとして私は焦った。
「あの、名前を聞いてもいいかな」
「はい、兼松奈美です。5年前はうちの会社は岩田商事さんと取引があったので、さっきの件は多分社長の用事でおたくの総務部長さんを訪ねたんだと思います」
私は全て知っているのだが、奈美がどこに勤めているのか、どこに住んでいるのかなど、30年前に尋ねたであろう話題を探りながら話をした。
「遅くなってもいけないから、今日はそろそろ。また連絡してもいいかな。LINEを交換してくれる?」
「ライン……ですか?」
私は慌てた。
携帯電話が普及しているはずはない。
「連絡ラインの交換ということで、電話番号を教えてくれないかな」
彼女の家の電話番号を聞き終わると同時に私は慌てて立ち上がった。
「ちょっと待ってて。トイレに行ってくるから」
急いで喫茶店のレジの側の公衆電話のところに行き、電話番号帳で自分の名前を
「お待たせ。僕のアパートの電話番号はね、41-1564。『良い人殺し』って覚えればいいよ」
奈美は面白そうに笑ったが、私は冷や汗をかいていた。
タイムスリップしての1日目が終わった。
翌朝目覚めた私はすぐには起き上がらず、室内を見回した。
やはりタイムスリップしたままだ。
私はバスに乗って去年退職したはずの職場に向かった。
社屋も真新しく職場の同僚も若々しいのは当然だが、いざ仕事にとりかかろうとして面食らった。
パソコンがないのだ。
業務内容は把握しているから、ワープロや電卓を使って処理できるが能率は上がらない。
そのうちパソコンが普及し、ウインドウズ95を始めとしてマルチタスクが可能なOSが登場したら誰よりも早く使いこなせるだろう。
そう思うとワクワクする。
奈美とは、街の喫茶店で話した後、連絡を取り合ってスナックに飲みに行ったりするようになった。
二人ともカラオケが好きだが、時々ひやりとすることがある。
「大橋さん、新しい歌、覚えるのが早いですね」
奈美の言う新しい歌は私にとっては歌いこんだ懐メロなのだ。
歌いたい歌をソングブックで探しても見つからないことが多い。
それらの歌はまだ発表されてもいないのだった。
タイムスリップ後の毎日を新鮮な感覚で楽しんでいるが、私は今後のことについてそろそろ真剣に考えなければならない。
仕事はともかくとして、奈美との交際を今後どうしたらよいのだろうか。
このまま行けば、今年の11月に結婚することになるはずである。
タイムスリップするまでの妻と息子相手の不本意な家庭生活を振り返ってみた。
私の今後の努力しだいかもしれないが、大筋のところでは過去は変わらないように思える。
似たような30年間をまた繰り返すのかと思うと気が重い。
私は奈美との付き合いを躊躇するようになった。
奈美からの誘いも口実を設けて断ることが増え、たまに会っても出会った時のように心が弾むことはない。
そんな私の心境の変化を察したのか、奈美からの連絡も途絶えて私たちの交際は自然消滅の形になった。
すると私は急に不安になりだした。
この先、タイムスリップする前の世界に戻る場合、奈美との関係を絶ったことはどんな影響を及ぼすのだろう。
大げさに言えば、私は歴史を変えようとしているのではないだろうか。
パラレルワールドという考え方もある。
私はこのままタイムスリップ前とは異なる人生をずっと歩んでいくのだろうか。
さらに私は高校の漢文の授業で習った『胡蝶の夢』という話を自分に当てはめてみた。
私はタイムスリップなどしておらず、今のみが現実であり、タイムスリップ前の人生は私の見た夢に過ぎないのかもしれない。
またそれとは逆に、今の生活はタイムスリップ前の私が見ている夢だとも考えられる。
私は混乱してしまった。
つねれば痛いから今の世界は夢だとは思えないが、つねって痛がる夢を見ることもあるのだからそれは判断の基準にはならない。
タイムスリップする前と同じように仕事人間化しつつあるので、たまには映画でも観ようと思って日曜日に街へ出た。
すると奈美が男性と手をつないで歩いていた。
顔を合わせないように私は脇道に入った。
私と交際していた頃、親もいくつかの縁談を持ち掛けていると奈美が言っていたから、手をつないでいる男性はその中の一人なのだろう。
少し寂しくはあったが幸せそうな二人を見て安心したのも事実だ。
タイムスリップして2年目の春が来た。
仕事のほうは順調すぎるほどだ。
大学卒業後、定年退職まで勤め上げた会社だからたいていのことは熟知している。
同僚に比べて仕事の処理も速いし後輩にも的確なアドバイスができる。
上司からの信頼も厚い。
会社の業績が今後どういう原因でどう推移するのかが頭の中に入っているのでタイムリーな提言がいくらでもできるのだ。
秘書をしている社長の娘も私に好意のあるそぶりを見せるようになった。
この分では異例の出世も望めそうだ。
それは喜ばしいことだが同時に心配にもなる。
たとえば私が社長の娘と結婚して会社を継ぐことにでもなれば、それは奈美との結婚破棄と同じように歴史を変えることにつながるのではないだろうか。
あまり調子に乗ってはならない。
バブルの到来やリーマンショックを予言したりすると中世の魔女狩りと同じ目に遭うだろう。
私は総務部から営業部に移り、大事な取引先との商談を任されるようになった。
そのため外回りの日も多いのだが、ある日、奈美が小さな女の子の手を引いて実家から出てくるところを見た。
化粧っ気もなくやつれた感じなのが気になって、気づかれないように後を付いて行った。
すると実家からそう遠くない古びたアパートに入って行った。
私と結婚して住み始めたマンションではない。
子供がいるということは、誰かと家庭を持っているのだろう。
やはり歴史は小さく変わっているのだ。
私は外回りの途中、時々そのアパートの付近へ足を運んで様子をうかがった。
奈美はパートに出ているようで、実家に預けているらしい子供と一緒に夕方にアパートに戻ってくる。
奈美がいつも暗い顔つきをしているので気になるが、ある時、派手なシャツを着た夫らしい男を交えて親子3人で歩いているところに鉢合わせしそうになって、それ以降は近づかないことにした。
タイムスリップして3年目の3月下旬、昼近くに受付から内線電話がかかってきた。
「大橋さん、兼松奈美さんとおっしゃる方がお会いしたいといらっしゃってますが」
奈美は結婚しているはずだが私に分かりやすいように旧姓を名乗ったのだろう。
1階に降りて行くと奈美が女の子を連れて立っている。
ロビーのソファーに座るように勧めた。
「すみません。お仕事中に」
「久しぶりだね。元気にしてるの?」
そうは言ったものの、とても元気そうには見えない。
「今日は何か?」
私がそう言うと奈美はうつむいてポロポロと涙をこぼした。
受付の
食べながら話をすれば深刻にならずにすむと思った。
子供は喜んでお子様ランチを食べ始めた。
「美穂といいます。2歳です」
奈美は子供を紹介したきり食事に手を付けず再びうつむいた。
私も話の
「どうかしたんですか?」
すると、奈美はうつむいたまま目に涙を浮かべて小さな声で言った。
「お金を貸してください……」
夫がぐうたらでお金をあまり家に入れないと言う。
今月は特にひどく、家賃はおろか電気代や水道代も払えないでいるとのことだった。
親に泣きつくのも限界があって私のところへ来たのだろうと思うと奈美が哀れだった。
私はすぐに近くの銀行でお金をおろして奈美に渡した。
そして、ある時払いの催促なしでいいから困ったらいつでも訪ねてくるように言って奈美親子を帰した。
行きつけの居酒屋で私はその夜したたかに酔った。
父親の道楽のため私の家も幼い頃は貧しい暮らしを強いられた。
だから奈美の言葉が胸にこたえた。
「お金を貸してください……」
その言葉を発した奈美の辛さ、情けなさ、悲しさを思って私はやりきれなかった。
私は、確かに歴史を変えた。
奈美という一人の人間を不幸にしてしまったのだ。
子供の手を引いて振り返り振り返り、何度も頭を下げながら背を丸めて去って行った奈美の後ろ姿が脳裏を離れない。
私は酒をあおり続けた。
「大丈夫ですか? 大橋さん、だいぶふらふらしてますよ。もう帰ったほうがいいですよ」
心配して声をかけてくれるおかみさんの言葉を私は以前にも聞いたような気がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
さわやかな目覚めではなかった。
二日酔いのせいだろうと思ったが何かしら違和感がある。
昨夜は飲んだ後、居酒屋から歩いてアパートに帰ったはずだ。
帰る道の途中に踏切がある。
踏切警報器の赤いランプが点滅してカンカンカンと警報音が鳴っていたのを覚えている。
「あなた、いいかげんに起きたら。掃除機かけるわよ」
弾かれたように私は飛び起きた。
掃除機を手にして奈美がベッドの脇に立っている。
「お金を貸してください……」
消え入りそうな声でそう言った昨日の奈美ではなく30年間連れ添った妻の奈美だった。
私は急いでベッドを降り、壁のカレンダーを見た。
2017年(平成29年)3月20日、春分の日だった。
元の世界に戻ったのだ。
私は振り向いて背後に立っていた奈美を抱きしめた。
「ちょっと、あなた、何? 何?」
奈美は掃除機を握ったまま、目を白黒させた。
私は奈美を抱きしめたまま涙にむせびながら言った。
「パールの…ネックレスを…買ってやる」
★兼松奈美の場合
私は高校を出るとすぐ市内の建設会社に事務員として就職した。
大工をしている父がその会社の下請けをしていた縁で採用してもらったのだ。
高校で珠算や簿記をならっていたので会社では即戦力として社長にも可愛がってもらった。
私の家は貧しくて健康保険にも加入しておらず、家族は歯医者にもろくに行けなかった。
だから給料をもらえる身になったことが嬉しくて仕事に精を出した。
入社して数年たったある日、社長室に呼ばれた。
「兼松くん、これを岩田商事の総務部長さんに手渡しで届けてくれないか」
手渡された封筒には「親展」と赤いスタンプが押されてある。
「大事な書類だから部長さんがいなかったら持ち帰ってくれ」
岩田商事は歩いて5分くらいのところなのですぐに着いた。
受付で総務部の部屋を聞いてエレベーターで3階に上がった。
ドアを開けると部屋の中には社員が一人いるきりで後は誰もいない。
部長さんがいるかどうか尋ねるまでもないので私は中へは入らずにドアを閉めた。
それから5年たってその時の社員に街でばったり出会った。
と言っても私はその人を覚えていなかったのだけれど向こうから声をかけてきた。
その日は春分の日で、私は買い物をするため街に出ていて二つのアーケードが交差する四つ角付近を歩いていた。
「やあ、久しぶりですね」
私が足を止めて首をかしげると彼は名前を名乗った。
「岩田商事の大橋孝雄です。覚えてないでしょうね」
聞けば、5年前に彼の会社を訪ねた時に一目見かけただけの私をずっと忘れずにいたと言う。
映画の場面にでも出てきそうなロマンティックな話に私は顔を赤らめてしまった。
誘われて近くの地下の喫茶店に入った。
「あの、名前を聞いてもいいかな」
「はい、兼松奈美です。5年前はうちの会社と岩田商事さんとは取引があったので、さっきの件は多分社長の用事でおたくの総務部長さんを訪ねたんだと思います」
そんなやりとりに始まって互いの職場のことなどを話し、電話番号を知らせ合ってその日は別れた。
それ以来、大橋さんから家に電話がかかってくるようになり彼の行きつけのスナックでデートを重ねた。
私もカラオケが好きだけれど彼はそれ以上で、リリースされたばかりの新曲でも上手に歌いこなした。
私は次第に大橋さんに惹かれ、これが運命の出会いというものだろうと思って結婚まで考えるようになった。
ところが大橋さんからの連絡が途絶えがちになった。
自分に何か落ち度があったのかと考えても思い当たる節はない。
私のほうから電話してたまに会っても彼は以前のように楽しそうではない。
実家が貧しい私は大橋さんの結婚相手としてふさわしくないのではと思ってその点もほのめかしてみたけれどはっきりとした理由は分からなかった。
彼が私を避けているのにしつこく誘うわけにもいかず、結局、私たちの交際は自然消滅の形になった。
ふさぎがちな私を見て、両親は以前からあったいくつかの見合い話を持ち出した。
私も25歳を過ぎたのでそのうちの一人とお見合いをして結婚し、実家の近くのアパートに住んだ。
夫は父の仕事上の知り合いの人の長男で父と同じく大工をしている。
結婚してすぐに子供もできて最初のうちは幸せだった。
けれど夫はしだいにパチンコやスロットにのめりこみ、仕事も怠けがちになった。
仕方なく私もパートに出るようにした。
するとそれをいいことに夫はますますお金を家に入れなくなり、経済的に楽にはならなかった。
両親は自分たちが持ち出した縁談でもあり時々お金を融通してくれたが、それでも食べるのがやっとだった。
そんな暮らしをしていた頃のある日、夫は給料をもらったその足でパチンコ店へ行き、給料の多くを遣い果たして酔って帰ってきた。
私は夫を責め、2歳の娘を連れて実家へ戻って泣いた。
さすがに父親も激怒して私に離婚を勧めた。
泣いてばかりもいられず、アパートの家賃その他、当面必要なお金を工面しなければならない。
親に余裕がないことをよく知っている私は途方に暮れてしまった。
ふと、大橋さんの顔が浮かんだ。
翌日、娘を連れて岩田商事を訪ねた。
受付では大橋さんに分かるように旧姓を名乗った。
「あの、私、兼松奈美と申しますが、大橋孝雄さんはいらっしゃいますか」
親子ともども色あせた服を着て、自分と同じくらいの年齢のおしゃれな制服を着た受付嬢に呼び出しを頼んだ時から私は泣きたくなった。
エレベーターで降りてきた大橋さんは私たちをロビーのソファーに案内した。
「すみません、お仕事中に」
「久しぶりだね。元気にしてるの?」
夫と
そんな私を見て、大橋さんは近くのファミリーレストランに誘ってくれた。
そして私たち親子に食事まで注文してくれた。
質素な食事続きの娘は目を輝かせてお子様ランチを食べ始めた。
「美穂といいます。2歳です」
私は子供を紹介したきり、再びうつむいた。
大橋さんは私をもてあまし始めたようだった。
「どうかしたんですか?」
私はうつむいたまま小さな声で言った。
「お金を貸してください……」
お金に困っている実情を話すと、大橋さんはすぐに近くの銀行でお金をおろしてきてくれた。
レストランを出る時には、困ったらいつでも訪ねてくるようにとも言ってくれた。
私はありがたさと惨めさを噛みしめながら何度も頭を下げ、娘の手を引いて帰った。
それからほどなく、慰謝料も養育費もなしに私は夫と別れてアパートも引き払い実家に移った。
実家暮らしになって家賃がいらない分、生活は楽になる。
娘の美穂も母親が見てくれるので、私はパートを二つかけもちすることにした。
大橋さんに返すお金を少しずつ貯めるうちに季節は夏になった。
ある日私はパートの仕事の帰りに、借りたお金を返すため岩田商事を訪れた。
「大橋はもうおりません」
受付で呼び出しを頼んだ私はそう告げられて驚いた。
「転勤なさったんですか?」
「いえ……」
受付嬢は言いよどんだ。
「お辞めになったんですか?」
「個人情報ですので、これ以上はちょっと……」
私は公衆電話から大橋さんのアパートに電話をかけてみた。
番号はメモを見なくても大橋さんに「良い人殺し(41-1564)」と覚え方を教えてもらっていた。
「もしもし」と呼びかける声にかぶさるように「この番号は現在使われておりません」というアナウンスが流れてきた。
大橋さんの住んでいるアパートを直接訪ねることにした。
交際していた頃も実際に行ったことはなかったけれど聞いて場所は知っている。
アパートに着いたが部屋番号までは知らないので管理人室をノックした。
「あなた、大橋さんの身内?」
管理人はとがめるような顔で私を見る。
「いいえ、ちょっとした知り合いですけど」
「誰か親戚いないかね。困ってるんだよ」
「大橋さんに何かあったんですか?」
「突然いなくなっちゃってね。荷物もきれいさっぱり何にも残ってない」
「え?」
「それが不思議なんだよね。夜逃げかと思ったけど家賃はきちんと払っているんだ。引っ越しなら言ってくれれば新しい人を入れられるのに。まさか戻って来ないだろうね」
アパートを後にして狐につままれたような心持ちで日の暮れた道を歩いていると踏切にさしかかった。
踏切警報器の赤いランプが点滅してカンカンカンと警報音が鳴り出した。
目の前を電車が轟音を立てて通過して行く。
大橋さんは誰にも行方を告げずに失踪し、どこか遠いところへ行ったのではないか。
遠ざかる電車を見ていると、そんな気がした。
私は遮断機の上がった踏切を渡った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その夜、私は不思議な夢を見た。
娘の美穂の手を引いて街を歩いている夢だった。
少し前を老夫婦が並んで歩いているのを見て美穂が言った。
「ママ、あの人、美穂にお子様ランチを食べさせてくれた」
美穂が指さす老夫婦を見て私も驚いた。
夫人らしい連れの女性に話しかけている老人の横顔は確かに大橋さんにそっくりだ。
女性は正面を向いているので顔は見えないが 170センチ弱の私と同じくらい背が高い。
夏物のシックなワンピースを着ていて首筋にはパールのネックレスも見える。
「ほんとによく似てるね。じゃ、今日のお昼はお子様ランチにしようか?」
美穂は嬉しそうに頷いた。
大橋さんにご馳走になったお子様ランチがよほど印象に残っているのだろう。
二つのアーケードが交差する四つ角を老夫婦はまっすぐ歩いて行った。
大橋さんと結ばれていたら、私もパールのネックレスが似合うような上品な奥さんになれただろうか。
そんなことを思いながら私は美穂の手を引いて四つ角を曲がった。
目を覚ましたら30年前のちょうどあの日だった 仲瀬 充 @imutake73
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます