1 妹は悪役令嬢②

 その日、ユリシス・ド・モルガン公爵は疲れていた。連日に及ぶ王宮からの呼び出し、領地を苦しめる魔物、加えてまっていく書類仕事、愛する妹の起こした問題行動、次から次へと押し寄せる数々の問題に睡眠時間も大幅に減り、いらちが募っていた。

 寝不足とイライラは心身を乱した。二十五歳という若さにして公爵の地位にあるユリシスだが、若くても無理をすれば調子は崩れる。そのせいで、いつもなら笑って見過ごす妹のかんしやくに、大声を上げてしまった。

「イザベラ! 淑女なら、そのような見苦しい真似をするな!」

 珍しく怒鳴られて、妹のイザベラはびっくりして泣き真似をやめた。そして真っ青になって、ユリシスから退いた。間の悪いことに、言い合いをしていたのが階段の前だった。イザベラは階段を踏み外して、宙に舞った。

「イザベラ!」

 ユリシスは大声を上げ、とっさに飛び出した。階段から落ちそうになるイザベラを抱き留め、そのままかばうように落下した。

「公爵様!」

「閣下!」

「きゃあああ!」

 派手な音と、執事やメイド、そして側近であるイザークの声が重なる中、ユリシスは階段下まで転がり落ちた。妹のイザベラをしっかり抱え、下敷きとなって倒れ込む。

 どこかに頭を打ったのか、人々の声と悲鳴がわんわんと頭に鳴り響いていた。生ぬるい液体が床につけたみみたぶの辺りに流れているのが分かり、とても気持ち悪い。何かを言おうとしたが、視界が暗くなり、意識は途絶えた。




 ユリシスの人生は、十七歳の時に劇的に変わった。

 公爵家の嫡男として生まれたユリシスは、幼い頃は敬愛する両親の下、幸せに育った。この国、フィンラードには二大公爵家が存在する。西のトラフォト家、東のモルガン家と称されるように、二つの公爵家は王国の西と東に広大な領地を持っている。フィンラード王国は温暖な気候と広い台地を持つ歴史の古い国で、隣国とはこれまでに何度も戦を起こして土地を守ってきた。

 ユリシスの父は水魔法の使い手として有名で、領地はきん知らずと言われるほど潤っていた。領地経営は順調で、ユリシスの十歳下に妹が生まれるほど家庭も円満だった。

 母が不慮の死を遂げたのは、ユリシスが十七歳の時だ。当時王立アカデミーで寮暮らしをしていたユリシスは、馬車の事故で亡くなったという母と、葬儀の日に対面した。馬車には細工がしかけられており、使用人の一人が犯人として捕らえられたが、黒幕を吐く前に自害した。父には政敵が多く、結局誰の仕業かは分からずじまいだった。

 母が亡くなった後、公爵家は明かりが消えたようになった。父は母を失った悲しみで仕事に明け暮れ、城には幼い妹のイザベラが一人残された。父の妹であるが、女親がいないのはよくないと父を説得し、王都にあるタウンハウスにイザベラを呼び寄せた。イザベラは当時七歳、急に変わった環境に情緒が不安定になっていた。今思えば、父とイザベラを引き離したのは大いなる間違いだった。ユリシスが十九歳になり王立アカデミーを卒業して領地に戻る頃には、父は病にしていた。酒におぼれ、過労と睡眠不足で、流行はやり病にかかりあつなく他界した。

 ユリシスは十九歳という若さで公爵の地位を引き継ぐことになったのだ。

 そこからはただひたすら地位を固めるために、奔走した。慣れない領地経営や、境界線に現れる魔物の討伐、貴族と渡り合うため行きたくもない社交界にも顔を出した。最初は若くして公爵となったユリシスに貴族の目は厳しかった。取引を止める商会も多かったし、若いと侮る者も大勢いた。

 ユリシスにとって、守るべき存在はもう妹だけになってしまった。イザベラのために、公爵という地位を万全なものにしなければならないと、二十一歳の時に、隣国と起きた戦争に出向いた。

 ユリシスは魔法の才能に恵まれていて、王国ではほんの一握りしか使える者がいない氷魔法を扱える。たいもよく、剣の腕も師範代と呼ばれるほどで、ユリシスにとって戦場は水を得た魚のように過ごしやすい場所だった。

 ユリシスは敵国の将の首をいくつも討ち取り、『シャルカッセンの鬼神』と恐れられるほど武勲を立てた。戦場となった隣国との境にあるシャルカッセンという土地では、悪いことをする子どもは鬼神に氷漬けにされるといううたができたくらいだ。戦争はユリシスが活躍してほどなく終息し、ユリシスは国王陛下から土地や魔石、さまざまな名誉ある褒賞をもらった。

 王国にはユリシスをそしる者はいなくなった。

 ユリシスの青みがかった銀髪に紅玉のようなひとみは珍しく、陰では氷公爵と呼ばれている。ユリシスが姿を見せると、皆おののいて遠ざかるのが常で、元々人づきあいがわずらわしかったユリシスとしては楽になった。

 ユリシスは自分が社交的ではないのを自覚している。ゴマすりや思ってもいない謝辞、相手を立てるということが苦手で、上っ面だけの会話も好きではない。ぼうの公爵と有名だった父親に似た顔立ちをしているが、にこりともしない愛想のなさで、人々から嫌われている。

 本当は領地に引きこもっていたいのだが、王宮から呼び出しがかかり、先週から王都にあるタウンハウスで暮らしていた。妹のイザベラは領地より王都にいたいというので、もっぱらタウンハウスにいる。ユリシスとしては一緒に領地で暮らしたいのだが、イザベラには王都にいるほうがいい理由があった。

 イザベラはこの国の第一王子であるアレクシスと婚約をしている。アレクシス王子は正室の子で、イザベラは妃教育を王宮で受けているのだ。現在フィンラード王国には王妃の他に側室が二人いる。現国王陛下は女好きで、第一側室は伯爵家の娘だが、第二側室は侍女をしていた子爵家の娘だ。現在のところ王妃にはアレクシスとトーマスという王子がいて、第一側室には王子が一人、第二側室には王女が一人いる。正室の子であるアレクシスだが、第一側室の王子のほうが二年早く生まれていて、どちらが後継者になるかは決まっていない。

 イザベラとアレクシスが婚約を交わしたのは、四年前だ。戦争の褒賞として望みを聞かれた際、イザベラがどうしてもアレクシスと婚約したいとすがりついてきたので、願い出た。王家でも公爵家の令嬢が相手ならいいだろうと話が進み、婚約が調った。

 そのイザベラとアレクシスの仲があまりよくないと知ったのは、一年ほど前だ。イザベラは変わらずにアレクシスを慕っているが、アレクシスのほうがイザベラに興味がないと聞いている。妹を大事にしないような王子なら婚約をやめてもいいとユリシスは思ったが、当のイザベラはアレクシス以外の男は嫌だと言っている。

 昨日も、イザベラはその件に関して問題を起こしていた。アレクシスの態度が冷たいと王宮で侍女に八つ当たりをしたらしい。侍女に落ち度はなく、報告書にも示談で終わったと書かれている。だがイザベラはどうしてもあの侍女をクビにしてくれとユリシスに迫ってきた。ヒステリックに叫び、泣き真似をするイザベラに、疲れもあってユリシスは神経質になっていた。妹のわがままは何でも受け入れようと思っているが、道理の通らない話をするイザベラに苛立った。

 だから──あんな事故を招いてしまった。

 普段の自分ならありえないミス。イザベラをかばって階段を落下するなど。とっさに魔法を使えばよかったのに、それさえも頭が回らないくらい疲れていた。

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