悪役令嬢の兄の憂鬱

夜光花/角川文庫 キャラクター文芸

1 妹は悪役令嬢①

 これは父母が生きていた頃の記憶だ。

 ユリシスには歳の離れた妹がいた。公爵位を持つ父は広大な領地を治めていて、社交界のないシーズンには家族を連れて領地へ戻った。王都から馬車で五日ほどかかるものの、領地は栄えていて、ユリシスはそこへ行くのが好きだった。

 十歳の頃、ユリシスは領地に戻り、湖へ遊びに行った。護衛騎士を三人連れて、森の奥にある湖で泳ごうと思っていた。父は領地に関する仕事で忙しく、母は生まれたばかりの妹にかかりきりだ。ユリシスは護衛を伴うことで父から了解を得て、意気揚々と遊びに出かけた。

 ひと月ほど前に嵐が来たせいでいつもの道がふさがれ、ユリシスたちは森をかいして湖を目指した。湖についた時だ。何故か護衛騎士たちが次々とひざを折った。

「公子様……、何か変です」

 護衛騎士の一人がぐらぐらする頭を抱えてつぶやいた。三人いた護衛騎士たちは、地面に倒れていった。びっくりしてユリシスが身体を揺さぶると、寝息が聞こえてくる。護衛騎士たちは、森の中で突然睡魔に襲われた。非常事態にユリシスは動転した。頼りになるはずの大人は全員寝てしまって、揺さぶってもたたいても目を覚まさない。途方に暮れたユリシスは、じっと考え込んだ。

 護衛騎士が眠った理由があると思ったのだ。城を出てからここに至るまで、護衛騎士は飲食をしていない。遅効性のものだとしても一時間以上経っているし、睡眠薬を飲まされた可能性は低いだろう。だとすれば、周囲に眠りに誘う何かがあったはずだ。

(何故僕だけ眠らないのだろう? 出がけに母がかけてくれた保護魔法のおかげか?)

 ユリシスは周囲を観察した。ふと湖のほとりに黒い物体を発見した。近寄ってみると、見たことのない生き物がいた。黒く光沢のある身体に黒い羽、黒い角、黒い尻尾しつぽ、開いたあごからは鋭いきばが見える。大きさは小型犬くらいだろうか。

「これは……竜、の子どもか?」

 ユリシスは興味津々で黒い生き物の前に膝をついた。すると竜の子どもは苦しそうに息を吐き、ぎょろりとした目をこちらに向けた。竜の子どもの腹には深くえぐれた傷があった。その裂け目から赤黒い血が流れている。

「怪我をしているのか……」

 父の領地ではまれに魔物が出現して、領地の騎士たちが魔物狩りを行っている。魔物は忌むべきもの、倒すべきものと言われているが、目の前で死にかけている生き物は脅威には思えなかった。

 ユリシスはいったんその場を離れ、眠っている護衛騎士の下へ戻った。年長の護衛騎士の携帯している袋を探り、ポーションと呼ばれる治癒力のある飲み薬を取り出す。

 ユリシスは竜の子どものところへ行き、持ってきたポーションをその口に注いだ。半分ほど注いだ時点で吐き出したので、残りは傷口にかけておいた。ポーションの効果はすさまじく、えぐれた傷口はみるみるうちにふさがれ、竜の子どもの苦しげな息遣いは次第に楽になっていった。

『……ナゼ』

 竜の子どもは頭を起こし、不可解な様子でユリシスに問いかけた。しゃべる魔物なんて初めてで、ユリシスはかなり驚いた。竜の子どもは元気になるやいなや、じりじりと後退していく。

「僕の護衛騎士が眠ってしまったのは君のせいだろ? 起こしてくれないか?」

 ユリシスは問いかけの意味を助けた理由と解釈して、そう答えた。すると竜の子どもはかなり長い間、ユリシスを凝視していた。知性のある魔物のようだし、ユリシスはそれほど目の前の生き物を恐れていなかった。物心つく頃には剣を握らされ、同い年の子どもとは比べ物にならないほど剣技の立った少年と言われ、小さな魔物相手なら勝てる自信があった。

『…………』

 竜の子どもは、何を思ったか、とことこと近づいてきた。ユリシスの前に来ると、鼻先を身体にくっつけて匂いをいでくる。

「痛っ」

 いきなり竜の子どもがユリシスの手をんできた。とっさに払いのけたものの、かすかに竜の子どもの口にユリシスの血がついた。

『オ前ノ、ニオイ、オボエタ』

 竜の子どもはそう言うなり、羽を広げて空へ飛んでいった。ユリシスはぼうぜんとして空へ消えていく黒い物体を見送った。嚙まれた手には歯形がついていたが、本気で嚙んだわけではないのがきずあとから分かった。

 護衛騎士の下へ戻ると、うなり声を上げて皆が目覚める。

「一体何が……、公子様、大丈夫ですか!?」

 眠りから覚めた護衛騎士たちは真っ青になってユリシスの安否を確認する。

「何もない。湖で遊んでいいか?」

 竜の子どもの話をすると面倒になりそうだったので、ユリシスはあえてそう言った。護衛騎士たちは何故睡魔に襲われたか分からないので城へ戻ろうとうるさかったが、めったにない遊び時間を与えてもらったのでユリシスは湖に入って思う存分泳ぎまくった。

 まだ幼かった頃の他愛たわいもない記憶。あの日、竜の子どもを助けたことで、のちの厄介事が増えるとは知る由もなかった。

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