第14話
人犬問題
金曜夜
夜10時を過ぎると電車内はアルコールの匂いでむせ返っていることがある。
こんな雰囲気の中で一人の男が車両の隅にぼんやりと座っている。気力をどこかへ忘れてきたような気弱そうな男である。
その名を仮に斉藤さんとしよう。
そこへ、体格の良い100キロは軽く超えそうな外人女性が現れた。巨体である。
酔っているらしく横文字の歌を歌いながら上機嫌である。その女性は空いていた斉藤さんの隣の席にどかっと体をゆするように座った。
お尻が大きいので席は相当にきつくなった。
おまけに斉藤さんの背広の裾をふんずけて座った。
彼は身動きできない状態となりもじもじとして必死の様相である。
これがこのお話しの始まりである。
このとき斎藤さんは毅然として抗議すべきであった。
座って数分も立つと、その外人女性は首を斉藤さんに首をもたれて寝込んでしまった。
相当に酒が入っているようだ。
やがて、その女のいびきが始まった
彼は壁と巨漢の女性の間に挟まれて身動きができない状態である。
車両にブレーキがかかると女性の体重をもろに受けて彼の顔はつぶされて「ムンクの叫び」のようになる。
それが嫌で押し返そうとするが力は及ばない。
女はすっかり寝込んでしまったらしくその体重すべてが彼にのしかかった。
斉藤さんは苦しくなってもがき始めた。
もうこれまでと思ったのだろう、「すいません」といってその女に声をかけた。
すいませんと、何で謝る必要があるのだと思うが、このあたりが日本人のいいところかもしれない。
女は泥酔していてなかなか起きない。
それでも斉藤さんは、弱弱しく他に気付かれないように「すいません」を連発した。
その「すいません」は「起きてくれ!」の意味なのだ。
他の乗客は気づき始め、特に、向かいの席の数人の若い子はその光景に笑いをこらえている。
斉藤さんは、恥ずかしさも加わって何とか押し返してその席から脱出をしようとした。
そのとき突然、その女性が何か夢を見ているように手を振り回した。
どんな夢を見ているかわからないが何かを叫んだその瞬間、その外人女性の右手が斉藤さんのネクタイをつかんだ。
一瞬の出来事である
何の夢を見ているのかわからないが身動きができないうえにネクタイまで握られるとは!
次に女はその握ったネクタイを引っ張った。
何かにしがみついている夢でも見ているのだろうか。死の恐怖がその男を襲った。「絞め殺される」と。
こうなるとこの男も命がけである
ネクタイから女の手をはずそうとするがモノスゴイ力で握っている
肉の盛り上がった手でネクタイを握り締めている
・・・こんな事が実際に起こると誰が想像するだろう・・・
「この席から脱出するしかない」と、斉藤さんは考えた。
こんなところで人生を終えてはいけないと考えたのだろう。
何度か挑戦するうちにうまい具合にその席から離れる事ができた。
お尻に踏まれた背広のすそを外す事が出来たのである。
しかし、ネクタイは握られたままである、
握られたままであれば立つ事が出来ない。
立つ事ができないので仕方なく床の上に座った。周囲のものから見ればこれはまるで「犬」の様である。
前よりいっそう恥ずかしい状態となった。
まわりの乗客もクスクス笑っている
助けてあげようとする乗客は無い
薄情な社会である。
男は恥ずかしさで顔を赤くしている。
男はネクタイを振りほどこうと必死にもがくが
女はネクタイをしっかりとつかんでいる。
背広の裾は破れ、襟はよじれてもう人間を捨てた格好である。
外人女性はネクタイを握ったまま眠り込んでいる。眠りは一層深くなっているようである
車両全員の目はこの二人に集まった
この光景を、携帯で撮っているものもいる。
男は、状況が悪くなった事に気がつき、前の状態に戻ろうと考えた。
必死に元いた座席に座ろうとわずかなスペースめがけて突進するその姿は惨めの一言である。
もがき暴れまくった
脂汗をにじませ息を荒げた。しかしこれもだめだと悟ると原点に返って手からネクタイを離させることを考えた
手をかじればそれで目が覚めて目がさめて離すかもしれないが、怪我でもさせると傷害で訴えられるといけないと思って斉藤さんはなめる事にした。
これは斉藤さんの神経回路が壊れた証である。
そしてついにネクタイを握り締める外人女性のその手をぺろぺろと舐め始めたのである。
その行動に周囲の乗客は驚いた
その舐め方が犬そっくりなのである
それでも目を覚まさない外人女性に向かって
その男はついに、「ワン」とほえた。
何が起こってもおかしくない、この時代!
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