第12話
思い出
A氏には定年後の人生の支えとなる趣味は無い。
趣味がないからといって、後ろ指を差される事はないが、それを責める人もいる。
ほっておいてもらいたいと思うのだがその言葉にも一理あるので、男は耳を塞ぐばかりである。
ある日、あまりの退屈さに、A氏は家の掃除を始めてみた。それを始めて驚いたのは「何故こんな物をとっておくのか?」と言うものばかりを後生大事に仕舞い込んでいたのである。
そこで、A氏は必要な者は右へ、捨てる物は左へと分けた。
もうこれだけで、掃除の目的が達成されたと思った。
A氏は、捨てるに当たってもう一度それぞれを確認した。
後から悔やむ事が無いようにである。
その捨てるつもりの中に、小学校時代の作文があることに気が付いた
A氏は懐かしそうにそれをパラパラとめくって読み始めた。当時は紙質も悪くボロボロである。また、今のような印刷ではなくガリ版刷りの物も多い。
それらを母は学年ごとに丁寧にまとめていたのである。
その紙質と、ガリ版刷りの古臭さが、あの頃・・を思い出させた。
それを読み終えると、目に涙を溜めて、次には腹を抱えて笑い始めた。
学年ごとの作文読み進むうちに、まじめな顔になったり、涙を流したり笑ったりと、A氏はその顔を忙しく変化させた。
次に捨てようと決めた左の山から手に取ったのは、グローブである。
グローブと言っても皮製ではない。
グローブの形をしたぼろ布の「かたまり」と、言ったほうがよいかも知れない。
作ってくれたのは父である・・すでに空の向こうである。
A氏の心の中に、若々しく、強い、日本一の父が姿現れた。。
目を閉じると、夕焼け迫る野原でのキャッチボールが浮かび、妹が「ご飯が出来たよ」と、呼びに来る
まさにセピア色の思い出である。
あれからの長い月日。・・・・・
その男のうつろな顔。
顔に刻まれた、しわ。
さらに、左の山から、もうひとつ。
ひからびたようなクレヨンの絵の束である。
ガサガサ音を立てながら一枚一枚ながめて見る。これも、母が丁寧に保管してくれたものである。
その中の一枚。
これにはちょっとした思い出がある。
宿題に間に合わず、泣きわめいた時のことである。
母が優しく手をさしのべ、手にクレヨンを握らせ、画用紙に、この絵を書かせてくれたのである。
目を近づけてよく見れば、涙の跡も残っているかもしれない。
捨てる予定の左側の物を次々に手に取り、
思いにふけった。
気が付けば外は夕方の気配である
この続きは明日にしようと、男は立ち上がり部屋を出た。
誰もいない部屋には左の山小さく、右の山は大きく残されていた。
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