002 これが自由ってことかもな

 ――俺は、拝田肯定はいだむねさだ32歳、しがないサラリーマンだ。


「ふぅー、なんとか終わったぁ〜」


 2日間徹夜してなんとか仕事を終わらせることが出来た。もうすぐ3回目の定時だ。今すぐにでも帰宅してシャワーを浴びて泥のように眠りたい。もう少しの辛抱だ。


「おい、拝田君。今日中にこの資料をまとめておいてくれ。明日の会議に使うから遅れないように頼むよ。頼まれてくれるよな?」


 いつもこのパターンだ。俺が帰ろうとすると仕事を押し付けてくる。嫌な上司だ。


「加藤課長……」


「返事はどうしたのかな? "ハイ"だろう。拝田君」


「は、はい……」


 これで今日も徹夜が決定だ。


「ああ、タイムカードは通しておくようにね。最近、うちの課の残業代がかかりすぎていると上から指摘されてね。まぁ、そういうことだから宜しく頼むよ」


 なんだそれ、こんなに働かされて残業代ナシなんて地獄じゃないか。眠気のせいで濁った思考の中、沸々と怒りが沸き上がってくる。


「なんだ、その反抗的な眼は。返事はどうした?」


「……は、はい」


「返事が遅かったが、まぁいい。では、私は帰る。ディナーの予約があるのでね。後の事は任せたぞ。イエスマン拝田君」


 最後のほうは小声で呟いていたがしっかりと聞こえていた。イエスマン拝田は勝手に付けられたあだ名だ。この世界はクソッタレだ。真面目な奴ほど馬鹿を見る。イエスマンになれば幸せになれるなんていう映画もあるが、あれは嘘だ。ここにその実例があるじゃないか。

 課長が退社し、姿が見えなくなる。


「はぁ……三徹決定かよ。転職したい……」


 ――深夜になっても仕事が終わる気がしない。睡眠不足になると、脳の栄養であるグルコースが6%以上低下する。また、脳の老廃物は睡眠中に除去される。睡眠していないと老廃物は溜まり続けるのだ。こんな状態で効率的な仕事が出来るはずがない。

 眠気覚ましに休憩所で煙草を吸うが効果は薄い。別に煙草が好きって訳じゃない。ブラック企業で戦い続ける上で必要に迫られた結果だ。

 自動販売機でもう何十本目か分からないエナジードリンクを購入し一気飲みする。


「エナジードリンクの摂取許容量ってどれくらいだっけ……? うっ、おええええええ」


 猛烈な頭痛と吐き気に襲われ、意識が遠のいていく。カフェインの過剰摂取だ。普通に考えればカフェインを大量に摂取すれば危険だということは分かる。だが、睡眠不足による思考力の低下と迫る仕事の期限への焦りのせいで止めることが出来なかった。


「く……クソッタレが……」


 こんな事になると知っていたら、もっと自由に生きたのに。こんなブラック企業は辞めて、喫茶店のマスターでもしていたら良かった。それとも、時間を気にする事なく趣味に時間を使うのもいい。仕事に忙殺されて趣味なんて無かったが、映画観賞やゲーム、スポーツ、キャンプなんかもやってみたかった。

 自分の体温が下がっていくのが分かる。


 ――死にたくない。


 あの時にああしていたら、こうしていたら死ぬ事はなかったんじゃないか。仕事だろうが知人からの頼み事だろうが全て承諾してきた。そのせいでイエスマンなどと呼ばれ心身共にボロボロになった。後悔が尽きない。

 もし、死なずに生き延びることが出来たら


「もう二度と我慢などしないぞ……絶対に……NOだ」


 寒い。とにかく寒い。もう身体が動かない。瞼が重くなり、視界が狭くなる。

 目を閉じる瞬間、目の前が明るくなり身体全体を暖かいものが包み込む。これが死ぬ瞬間か、と思った直後に意識は闇の中に落ちていった。



 次に目が覚めた時に最初に見た景色はまるで樹海かと思うような鬱蒼とした森の景色だった。


「ここはどこだろう? 俺は助かったのか……?」


 俺は会社のオフィスに居たはずだ。しかし、今は森に居る。俺が気を失っている間に何があったというのか。そもそも俺は死にかけていたはずだ。

 俺は土で汚れたスーツを手で払いながら体に異常がないか探る。しかし、全く異常がないばかりか、むしろ以前より調子が良い。

 もしも瀕死の状態から助かる可能性があるとすれば会社の同僚に発見され救急車で病院に運ばれた、という状況が考えられる。だが、病院に運ばれ治療された後に森まで運ばれ放置されるなど前代未聞だ。そもそもそんな事をする意味がない。


「とにかく無断欠勤はマズい。すぐに会社に電話して加藤課長に謝らないと」


 俺はスーツの内ポケットを探った。煙草が入っていた。しかし、携帯電話は見つからない。そして思い出した。


「あっ! そうか、仕事に集中したくて携帯は鞄に入れたんだったな」


 俺は周囲を探した。しかし、鞄は見つからなかった。何の理由でここまで運ばれたのか分からないが鞄は仕事場に置いたままになっているのだろうか。


「はぁ、無い物ねだりをしても仕方がない。どうせ圏外だろうし、とにかく進むか。森を出て国道(酷道)でも県道(険道)でもいいからとにかく道に出よう。そうすれば人里まで行けるはずだ」


 携帯電話が見つからなかった事で少し心が軽くなった気がした。


「こんな昼間から森を歩くなんていつ振りだろうな」


 本当なら今頃は会社のオフィスで押し付けられた仕事に悪戦苦闘しているはずだ。だが、そうならずに今は森を歩いている。


「これが自由ってことかもな」


 きっと加藤課長は困った事になっているだろうが、自業自得だ。ざまぁみろ。

 俺は気分が良くなり、鼻歌を歌いながら森を歩く。

 小一時間ほど歩いたが、景色はほとんど変わらない。同じ場所をグルグル回っているような錯覚がする。俺は一度冷静になる為に休憩する事にした。木の幹に座り込む。内ポケットから煙草を取り出し火を点ける。


「ふぅーー。こんな場所で煙草を吸うなんて初めてだけど、悪くないな」


 十分に休息を取った。携帯灰皿に煙草をしまって、歩きだそうとした時


 ガサガサッ


「!?」


 突然、近くの草むらが揺れる。嫌な想像が脳裏をよぎる。日本の山でも熊が居る。猪に襲われても人は簡単に死んでしまうのだ。

 正直に言って俺は自然を舐めていた。都会での生活に慣れきっていた。山の歩き方すら知らなかったのだ。熊の季節には熊除けの鈴や撃退用のスプレー等の準備が必要なのだ。しかし、今は何も持っていない。


「ゲギャギャッ」


 草むらを掻き分けて現れたのは緑色の二足歩行の動物だった。

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