第67話 春到来
春は鈴の音を鳴らしながらやって来る。
枝から、屋根から、ぽたぽたと落ちる水音はまるでその音のようで、城の中にいても常にそのリズムを感じないことはない。
――春だ!
と言ってもまだ小雪は降るし、地元出身の者によるとドカ雪が降ることもあるらしい。でももう今までとは明らかに違う。日差しが、雲が、空の色が。
ふふふ。
自然と頬が弛む。
冬が悪かったと言えば⋯⋯嘘はつけない。寒さには閉口したし、外に出られないのは拷問のようだった。監禁された城の中で、まるで毎日自分を見立てて人形ごっこをしているような、そんな気持ちだった。
レース編みのショールも、刺繍入りのハンカチも、他人に配るほどたくさんできてしまった。
書類仕事も嫌々やっていたけど、過去数年分のものまで目を通すことができた。我ながら、がんばった。
だからってご褒美が欲しいわけじゃない。
⋯⋯ご褒美はいつも向こうからやってくる。
「アン、お茶にしよう!」
戦場となる砦に行かなくなったラカムは、時々城下を見に行くくらいで暇を持て余していた。リーアムはかわいそうに、こんどこそ書類仕事を進めてくれると思っていたのに、ラカムは仕事そこそこだった。
城の兵士たちはとにかく雪かきに追われていて、ラカムは上からの降雪の下敷きにならないよう、厳重に注意した。うっかり城の屋根から落ちた雪を被ったら、命の保証はできない。
わたしたちもやたらに外に出ないことを約束させられた。それでも窓を開ければそこはかとなく、春の空気が流れているような、そんな気持ちになった。
◇
王都からキートンがやって来た!
彼は自分の家族がいるので王都に冬の間は帰っていたが、この領地の自分の仕事の成果が見たくて、いち早く飛んで来たらしい。
「親父とおふくろは止めたけどな、わざわざ雪深い土地に雪の残る中向かうなんて狂ってるって!
狂ってるってよ!
だけど自分の仕事の成果を見たいのが技術者ってヤツだろう? そう思うよな、伯爵」
「伯爵はよしてくれよ。俺とキートンの仲じゃないか」
わたしはふたりをギロっと睨んだ。まったくこの二人と来たら!
「おいおいおい、夫人が睨んでるぞ。お前、夜は部屋に戻った後、やさしくしてさしあげてたのか?」
「もちろん」
「まぁ、飲まれるタイプじゃねぇよなぁ」
この二人は一緒になると「ちょっと寝酒に一杯」とかなんとか言って、ワインの樽を開けさせる。我が領地ではお客様用のワインだって乏しいのに、ぐびぐび飲んでしまう。困ったものだ。
「夫人、そんな顔しなくても王都から自分の分を買ってきましたよ」
酒樽持って仕事に来る男がどこにいるのよ!
二人はキートンの持ってきた酒について、ひそひそとなにか話し合っていた。
「あー」
こほん、とキートンは咳払いした。
「今日はわたしの到着を祝うささやかなディナーが出ると聞きました。どうぞ夫人、よろしければ、私がお持ちしたワインの試飲会などいかがでしょうか?」
向こう側でラカムはにやにや笑っていた。答えがわかってるからだ。
「わたし、お酒はあまりいただきませんの」
「おお! そうでしたか!」
キートンは大袈裟に驚いた。
チッ、なんてこと! お酒ごときでバカにされるなんて!
大体ラカムはわたしがどうして飲酒しないのか知ってるくせに!!!
「まぁでも小さいグラスに一口くらいなら。それとも客からの申し出をお断りになりますか?」
⋯⋯チッ!? なんてことを! ラカムったらケタケタ笑ってるし。
「ラカム、なにか言ってちょうだいよ」
「一口くらいなら大丈夫だろうよ」
「本当にそう思うの!?」
「大丈夫、俺がついてるって」
◇
子供たちは成長すると大体、部族にもよるけれど18から飲酒をする。わたしはその歳、既にラカムたちと旅に出ていたので、みんなに面白がられて初めてのお酒を飲まされたのだけど!
◇
「うーん、上等なワインね。特に酸味と甘みのバランスが素晴らしいわ。香りもフルーティーで」
「そうでしょう、そうでしょう。ラカム様のために探したんですよ。ここ、ワインセラーが乏しいと前回来た時に感じたもので。奥様にも喜んでいただけて、運んできたかいがあったというもの」
「⋯⋯あなた、建築家よねぇ。いつから商人になったの?」
まったく⋯⋯。
建築家が持ってきたワインが美味しいなんてどうかしてる、わたし。と、手がグラスに伸びる。甘くて繊細な味わい。喉をとろりと通り過ぎていく。
「ささ、どうぞ」
チーズはわたしの大好物で、何種類かのチーズの乗ったカナッペがおつまみとしてテーブルに広げられていた。チーズが豊富なのは山村のいいところだ。
「⋯⋯悪かったよ、アン。もうその辺でやめておいた方が」
「え!?」
天井から小雪のようにひらひら降ってくるのはまるで真っ白い鳥の羽のように見える。
ひらひら、風に揺られてひらひら⋯⋯。
「アン!」
まぁ、素敵ね。
その場にいたエミリーとマリアは慣れているのでそう言った。マルコはぼーっとそれを眺めていた。少人数だったのが幸いだった。
「奥様、まるで天使の羽のようですね」
「良いことの起こる前触れですよ、きっと」
そうね⋯⋯と言いながら、わたしはぐにゃりとラカムにもたれかかった。そこからはいつもの通り、ラカムに抱き上げられて部屋に運ばれた。
キートンだけが、まるで魔法でも見たかのように、驚いた顔をしていた。
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